龍紋のロン

藤山千本

第1話 1、弱い龍のロン

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 一人の若者が山に向かう一本道を歩いていた。

男の名前はロン。

漢字では龍だが弱いからロンと言っている。

二つ名はまだ無い。

薄汚れたズボンを履き、丈夫そうな太い木綿の糸で織った厚い生地の上着を着ていた。

髪は長髪であったが整髪はしてなく、長くなった分を自分で切り取っているようだった。

額には茶色の鉢巻をしていたが鉢巻の上側の額には赤から黒になりかけている脹れたタンコブが浮き上がっていた。

腰には薄汚い衣服とは似合わない緋色の布紐が二重に巻かれたおり、左腰に太い黒樫の木刀が挿されていた。

それほど長くない刀が右肩から左腰にかけて背負われており鞘の先端が左腰の木刀とぶつかって小さな音がしている。

ロンの左手は肘が曲げられて腕の先を長手ぬぐいで首から吊られており、右手は吊られた左手に添えられていた。

手首は別の手ぬぐいでぞんざいに巻かれていた。

ロンは涙を滲ませていた。

手首の痛みと悔しさと惨めさで自然と流れてくるのだ。

 こんなことになるはずではなかった。

少しばかり痛い思いをすれば数日分の食料を買うだけのお金が貰えるはずだった。

相手は額に一撃を加えるだけで勝負は決まっていたのだ。

額の衝撃で無防備になった左手を骨折させるほど打ち据えることは無かったはずだ。

それはロンがあまりに弱かったし、あまりに小汚い格好をしていたためだったかもしれなかった。

 ロンは武者修行中の身であった。

武者修行とは聞こえがいいが実際には物乞いの旅であった。

まだ武芸に秀でているわけではないので十分なお金が入って来ないのだ。

町の道場に出かけて「武者修行中なので一手立会いをしてほしい」と試合を申し込む。

試合をして痛い思いをして負ける。

まだ弱いのだから武者修行をしているのだ。

負けて当然だ。

道場主はそんなロンに哀れみを持ち、何がしかの応援金をくれる。

食事を振る舞ってくれることもある。

ロンが着ているズボンも上着も道場で使っていた古い稽古着だ。

 今日はお城の武芸大会だった。

出場者には勝ち負けにかかわらず一両が与えられる。

試合が木刀だから敗者には治療費の意味も含まれる。

試合に勝ち残れば勝った数だけお金が得られる。

優勝すればもっといいことがあるのだろう。

それはロンには関係のないことだった。

優勝などはロンには想像もできないことだった。

町の道場では負け続けているのだ。

自分と同じような立場の者が相手だったらひょっとすると最初の試合には勝てるかもしれなかった。

そうすれば二両を得ることができる。

 今日の最初の相手は陰険な男だったに違いない。

腕の違いは明らかだった。

腕が太く太刀の速度が速く力も強かった。

最初に木刀を横に撥ね飛ばされ、開いた額に簡単に一撃をくらった。

「まいった」と言う前に流れる動きで左手首を打ち砕かれた。

ロンにとっては一瞬の出来事だった。

木刀を落とし、仰向けに倒れて気を失った。

後のことは分らなかった。

気が付くと敗者の治療天幕の筵(むしろ)の上に寝かされ、左手首に手ぬぐいが巻かれていた。

ロンの木刀と刀が横に置かれており懐の中には一両が入れられていた。

 ロンが気付くと係員が近寄って来て上半身を起こし左手を長手ぬぐいで首に吊るしてくれた。

ロンが何とか立ち上がると「相手が悪かったな。貴公の相手は優勝したよ」と言いながら木刀を拾って左腰に挿してくれ、刀の下緒(さげお)を解いて鞘のこじり付近に輪を作って刀を背負わせてくれた。

係員は「東の村の山には腕のいい医者が居るから手首の骨折はそこで治療してもらうがいい」と言って村への道順を丁寧に教えてくれた。

 ロンは痛みをこらえながら城下町から東の村に歩いて行った。

吊るされた左手首は歩く度に痛みを伝え、今ではそれに心臓の鼓動に合わせて鈍い痛みも加わっていた。

十軒ほどの集落からなる寂(さび)れた村が見えると山の中腹より少し下に小さな家の屋根が見えた。

親切な係員が教えてくれた通りだった。

その家が目的の医者の家に違いない。

 ロンが村を通り過ぎて右手の小道に入ると道はゆっくりと登りになっており、行き止まりは加工されていない石の階段になっていた。

痛みをこらえて階段を登り切るとそこは広々とした庭で、周囲には仕切られた花壇があり、花壇毎に異なる種類の植物が植わっていた。

植物は少なくとも観賞用ではなさそうだから薬草なのかもしれなかった。

 ロンは顔を上げて胸を張って小さな家の玄関に立って大声で到来を告げた。

「頼もう。治療をお願い申す。頼もう。お願い申す。」

「はーい」という女の声が家の中からして暫くすると一人の美しい娘が出て来た。

娘は細い袖の上着とゆったりとしたモンペを着けており、脚は素足だった。

細身で顔が小さく、見たこともないほどの美形であった。

「いらっしゃいませ。よく聞き取れませんでした。どのような御用向きでしょうか。」

 「拙者はロンと申す。骨折した手首を治療してもらいたくまかりこした。ご主人はご在宅か。」

「申し訳ありません。現在おりません。」

「左様でござるか。いつ頃お帰りになられるのでしょうか。」

「帰らないと思います。主人はおりません。」

「それは残念じゃ。どうしたらいいかのう。」

「左手首の骨折ですね。痛いでしょうね。」

「確かに痛い。男として恥ずかしいが、弱音を吐きたくなるほど痛い。」

「治してあげましょうか。」

「そなたがか。できそうか。」

「分りませんが、できると思います。」

「そうか。頼む。どんな結果になっても文句は言わない。」

「そうですか。それでは足濯ぎ盥(たらい)を持って参ります。腰を掛けてお待ち下さい。」

そう言って娘は奥に入って行った。

 ロンは玄関の式台に腰掛けて周りを見回し、粗末で小さいが武家屋敷のような構えの玄関に興味を持った。

暫くすると娘が桶に手ぬぐいを掛けて玄関の横から現れた。

だまって桶をロンの脚元に置いてしゃがみこみ、ロンの草鞋(わらじ)の紐を解いてから手ぬぐいで足を丁寧に洗った。

ロンは娘の細い指で足を洗われるとゾクゾクして非常によい気分になった。

娘の体の襟元の白い肌から心地よい香りが漂い登って来るのだ。 

 「廊下を奥に進んで最初の左側の部屋に入ってお待ち下さい。そこが治療室になっております。」

娘の言葉にロンは一気に現状に引き戻された。

「ありがとうござる。お願い申す。」

ロンが指定された部屋に入るとそこには中央に人が横たわるだけの大きさをもつ木製のテーブルがあり、周囲にはテーブルの高さと同じ高さの小さなテーブルが4個置いてあった。

それらの高さは70㎝に違いない。

丸椅子が2脚あった。

椅子に座って治療をするつもりなら、肘が着く高さがおよそ70㎝になるからだ。

 左右の壁の両面は一面の引き出しが設えられていた。

大きさは色々であった。

部屋の奥は大きな窓が嵌(は)まっており、引き違いの障子で塞(ふさ)がれていた。

窓に接して両袖の引き出しが付いている机があり、椅子2脚が付近に置いてあった。

机の上には何も載っていなかった。

床は板張りで、4つの車輪が付いた浅い箱車が置かれていた。

 「そしたら刀と木刀をそこの箱車の中に入れてから中央のテーブルの上に仰向けに横になって下さい。」

突然背後から娘に声を掛けられてロンは驚いた。

娘の気配が感じられなかったのだ。

ロンは武者修行の身だ。

いつも周囲には気を配っている。

娘が短刀でも持っていたら簡単に殺されてしまう。

 「そなたが近づくのに全く気が付かなかった。まだまだ未熟だな。試合で負けるのも当然だ。」

そう言いながらロンは木刀と刀を箱車に載せ、鉢巻を右手で剥がして箱車に落とし、懐から一両の入った財布を出して箱車の底に大事そうに置いた。

「武芸者の方ですか。」

「左様。武者修行中だ。負けてばかりだがな。」

「この先も御苦労されますね。ほんの少しだけ強くなるようにしておきましょうか。」

「そんなことができるなら頼む。」

「額のタンコブも治療しておきましょうか。」

「このままでもいずれ治るだろうが、できるならそれもしてほしい。」

「分りました。治療中に動くとまずいので処置をします。意識ははっきりしております。」

そう言って娘は一枚の手ぬぐいを取り出し、やさしくロンの顔に被せた。

手ぬぐいからは甘い香りが出ておりロンは眠くなった。

 ロンは娘が首に掛かっていた長手拭を解いて左腕を伸ばして持ち上げているのを感じた。

不思議と腕を動かしているのに痛みは感じなかった。

上着の袖がめくり上げられ、左腕全体が何か柔らかい布団の上に載せられ、上からも柔らかい布団のような物で押付けられた。

「腕の処置はこれで終わりです。腕は動かないとは思いますが動かそうとはしないで下さい。骨折の治療は少し時間がかかります。粉砕骨折ですから数時間はかかると思います。次に額の治療に入ります。頭を少し上げて下に底板を差し入れます。」

 ロンは頭を上げるくらいは協力しようと頭を上げようとしたが頭は上がらなかった。

頭が言うことをきかないのだ。

体が言うことをきかないのを確認するため右手の指を曲げようとしたが指も動かなかった。

手拭が掛かっていて閉じていた瞼も動かすことができなかった。

「今、麻酔状態になっております。神経は麻痺しており、体を動かすことはできません。でも信頼して下さい。」

娘はそう言ってロンの頭を持ち上げ、頭の下に板を差し入れ、頭全体を覆う何かを被せたらしい。

ロンの瞼を通しての明るさが無くなって真っ暗になった。

 ロンは不安になったが娘はそれを察知したのであろう。

ロンの胸に手を置いてゆっくり言った。

「私を信頼して下さい。明るさを感じる目の神経は生きており、私の声を聞く耳の神経も生きており、心臓を動かす神経も生きており、頭の中で状況を考える神経も生きているのです。いま麻痺しているのはほんの一部の神経だけです。治療が終われば回復します。」

ロンは「分った」と言おうとしたが口は動かなかった。

 ロンはいつの間にか眠ってしまったらしい。

今日の一日は色々のことがあった。

お城で試合をして惨めに負けて、手首を骨折したまま長い道のりを歩いて来たのだ。

考えてみたら昼食も食べていなかった。

まだ治療中らしかった。

体はまだ動かすことが出来なかったし明るさも暗いままだった。

ロンは再び深い眠りに入っていった。

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