第1話
小料理屋「雨宿り亭」
知る人ぞ知る隠れた人気店だ。
少し抜けてるそれはそれは美しい店主が1人で切り盛りしている。
カウンターの8席と2人がけのテーブルが2席の小さな店で、夕方の4時から夜の10時まで人は途切れず、席は直ぐに埋まる。
濡れ羽色の艶やかな髪。
襟足までほんの少し長めに伸ばされており、浴衣をまとってせかせかと料理を作っている。
目元と口元のほくろがなんとも言えない色香をまとい、数年前に連れ合いを亡くした未亡人だった。
しなやかな猫科のような肢体だか、背は高くスラリとしていて170cm後半はあるだろうか、細いがなよなよとはしていない。
そして男臭くはないが、中性というほど可憐ではない。
確かに男ではある。
だが、あまりにも美しい。
美の化身だとも、男神だと、存在自体が芸術品のようだとも思えた。
儚げで壮絶な美貌で、優しげに微笑まれ、細められるその瞳は不思議と青い。
切れ長で涼やかな目元は見つめられると、男女ともにうっかり惚れてしまいそうな程だった。
「しのぶさん。今日も綺麗ねえ。
お料理上手でおっとりしていて優しくて、昨日も声をかけられていたでしょう?
カウンターに座る常連らしい中年の女性は、出されたお通しをつまみながらイタズラ顔で店主に話しかけた。
「ご心配には及びません。私は左馬刻さんしか愛せませんから。はい、今日のおでんです。」
穏やかに微笑みながら、皿を出す。
乗せたおでんはここの人気料理。
よく出汁の染み込んだ大根と煮卵。
そのほかの具は店主の気分でころころ変わるがそれが良いらしい。
ほんの少し懐かしく、ホロホロと柔らかくなんとも言えず美味しい。
日本酒にもビールにも合う。
美貌の店主は店を開けてから何人もの男女に口説かれているが、その優しげな笑顔でのらりくらりとかわされて、首を縦に振らせた者はいない。
未だその心は無くなった連れ合いに向けられていた。
なんともいじらしく一途なその姿に惚れ込み、さらに諦めきれず、皆この店の常連になって行った。
今日は左馬刻の命日。
定休日以外毎日やっているお店をお休みにしてお墓参りにきていた。
出会った頃は若く24歳になった頃であったしのぶも今はもう37歳。
だが、紫薫の美貌は衰えていない。
ひどく若くは見えないが、歳をとってる風にも見えず、年齢不詳な部分があった。
和服姿の美貌の男が花を抱えて電車に乗る姿はあまりに目立っていた。
だが、紫薫は気にする素振りを見せず、出入口付近に佇んで窓の外を見ていた。
彼は元来鈍感な質なのだ
秋晴れの空は美しく澄んで、未だ過去の思い出にできない鮮明な記憶が頭の中を駆け巡っていた。
しのぶは熱烈にただ左馬刻を愛していた。
ただ盲目に。
墓の前に来て、綺麗に墓石を磨き、汲んだ水を柄杓で石へかけて、そしてお線香をそなえ、手を合わせた。
近況報告ついでに愛の囁きを心の中で何度も唱えた。
墓の中に彼がいるとは思っていないが、一欠片でも彼の残滓があるなら、その小さな欠片さえ愛おしむ気持ちだった。
そうして墓参りを終え、帰ろうと立ち上がった時だった。
後ろから、砂利をふみしめる音がして、振り返ると、そこには左馬刻が居た。
「…さ、左馬刻さん…」
目を見開き、まるで白昼夢を見ているようで、時が止まったかのように思えた。
思わず涙を貯めて2、3歩彼に駆け寄って近くで見つめる。
しかしよく見ると、それは記憶の中の左馬刻より酷く若く、印象的な青い瞳は無く、瞳は焦げ茶色をしていた。
生き写しのような姿ではあるが、確かに別人だった。
「私は父ではありません。
東雲
父のお知り合いですか?」
彼は左馬刻のような艶やかなバリトンではなく、ほんの少しハスキーで、しかし、左馬刻と似た低い響きを持って声を発した。
彼は愛した男の息子だった。
聞くと、随分長く海外の叔母の所で仕事をしていたらしかった。
何やら彼は有名企業の御曹司らしく、左馬刻もまた数十年前までは総帥だったと言うのだ。
紫薫は知らなかった。
けれど、酷く納得もした。
確かに彼は豊かな人だった。
仕事は引退したと言っても、お金に困った様子もなく、身につけていたものは全て上品で洗練されていた。
帰ってきたのは最近で、父親の死についても、最近知ったらしい事や、葬儀やら何やらのことのお礼を紳士に述べてくれた。
一方で、しのぶの心は酷く揺さぶられていた。
左馬刻の雰囲気を色濃く残す彼を見ると、あまりにも切なくなって、少し薄れた悲しみがまたぶり返しそうになったのだ。
愛している人に酷く似ている。
けれど彼ではない。
彼の居ない現実を突きつけられた気分だった。
鈍感になろうと無視していた寂しさを実感させられたようだった。
お礼に対してぼんやりと数回応えると、紫薫は用事もないのに急ぐふりをして、その場を立ち去ろうとした。
彼といるとあまりにも辛かったのだ。
今だ過去の思い出にできず、左馬刻を深く愛しているが故に、彼、刻哉に、左馬刻の面影を見つけてしまう。
そして彼とは違う事を自覚して、ただ切なくなるのだった。
左馬刻はもう少し柔らかな目をしていたな。
面差しは似ているが、刻哉のほうがほんの少し凛々しいようだ。
柔らかなシルバーグレイの髪だったが、刻哉は艶やかなチョコレート色。
背も刻哉の方が高いようだ。
そして何より、高そうなスーツを着ていた。
目元のキュートな笑いジワもなく、酷く若い。
しかし、彼は帰ろうと後ろを向いた紫薫の手を取った。
近くの喫茶に入り、濃いめのブレンドコーヒーを頼み、紫薫は苦味で悲しみを紛らわせるつもりだった。
今、何故か前に座る刻哉をチラリと見ると、ため息をついた。
「あなたは…失礼、お名前を聞いても?」
しばらく無言で見つめ合うと、刻哉はそう切り出した。
何となく、父と友人という訳ではなかったことを気づいているのかもしれない。
もう二度と近づかないでくれと言われるかもしれない。それは良い。
実際、刻哉とはもう会いたくなかった。
彼はあまりに左馬刻に似すぎていたからだ。
近づかない約束は承諾しても、
お墓参りをすることだけは許してもらおうと頭の片隅で思った。
「ああ、申し訳ございません。
生前、左馬刻さんとは仲良くしていただいておりました。
息子さんがいるとは…聞いておりませんでしたので、先程はほんの少し驚いて、声をかけてしまったのです。
あなたが、あまりにも左馬刻さんに似ていたもので、私に会いに天から戻ってきてくれたのかと、そんなことを思ってしまいました。
私が出会った頃には、あの人は奥さまと死別なされており、お身内の方の話をあまりしなかったもので。
あの人はたまに酷く秘密主義でした。
良く考えれば、お子さんがいるのは当たり前でしたね…」
そう言って紫薫はホットコーヒーを一口飲むと窓の外をぼんやりとした様子で見つめた。
その様子はあまりにも悲しげで、切なげで、そこはかとなく淫靡ですらあった。
その美しい男を刻哉は黙って見つめると、頼んだアイスコーヒーを一口ゴクリと飲んだ。
「父とは、恋人…だった…?」
そう言うと、ハッとした様子で紫薫はやっと窓から目を離し刻哉を見つめた。
そこで刻哉はこの人が自分を見ないようにしていたことに気づいた。
あまりに自然な動作ゆえに気づいてなかったが、目があっていなかったのだ。
紫薫は数秒刻哉見つめ、そのうちに涙が溜まり、静かに雫が流れた。
その人はあまりに切なげに、音も無く泣いていた。
それだけでその人が深い悲しみのそこにいることが分かった。
息子である自分よりも、この人は父の死がこたえている。
この人によると父の死から数年たっている。
それでもまだこんなにも辛いのだと思うと、父とはそれなりに深い仲だったのだろうか、とこの美しい人を前に、思わず下世話にも卑猥な想像をした。
「左馬刻さんは私を愛してくれました。
そして私は今も彼を…愛しているのです。
あなたを見るとどうしても左馬刻さんを探してしまう。
そしてそれが酷く辛い。」
刻哉は叔母にもよく言われたが、まるで生き写しのように父に似ているようだった。
幼い頃に若くして無くなった母は気の強そうな美人であったが体が弱く、産後の肥立ちが悪く、なくなってしまったという。
それ故に父に育てられた私は振る舞いもどことなく父に似ているらしかった。
母の面影はほぼなく、唯一瞳の色だけとほんの少し気の強そうな面差しだけが母譲りで。
それだから、左馬刻のようで左馬刻でない自分をみると酷く辛いとその美人は、俯きがちにさめざめと泣いた。
音もなく、ただ涙があふれるままに、拭うこともせずそれを流すのみだった。
数分の時がすぎ、美人は気まずげにチラリと刻哉をみると、そっと切り出した。
「お父上の男の恋人とは気持ち悪いでしょう。あなたにはもう近づきません。
ただ、お墓参りと左馬刻さんが私に残してくれた物を持つことだけは…許していただきたいのです。」
そう言うと美人は申し訳なさそうに眉を潜めると、まるで罪の宣告を待つように肩をちぢませて目を伏せていた。
刻哉は何故か腹ただしい気持ちがした。
所在なさげな姿で、許しを乞う様にする癖に、 彼に残された父の遺品を持っていたいと言った時、ほんの少し瞳は優しげに緩んだ。
私を見つめる瞳は悲しげなものだけなのに。
そう何故か腹立たしい気持ちのままに刻哉は言った。
「…ええ。気持ち悪いとは思いませんよ。
お墓参りも父があなたに残したものも持っていていただいて一向に構いません。
しかし条件があります。
私の恋人になってください。
父の恋人だったんだ。
男がダメってことは無いのでしょう?」
紫薫は悲しげに目を伏せた。
「私はあなたのお父上、左馬刻さんしか愛せません。
今も思い出にできず彼を思ってしまうのです。
もうこの世に居なくとも焦がれてしまう。」
そう言って泣く紫薫を刻哉は思わず抱きしめた。
意地悪を言ったことを直ぐに後悔した。
この人を苦しめたいわけではなかったのだ。
刻哉は何故か紫薫をほっておけなく、感じたことの無い強く惹かれる気持ちを感じて戸惑った。
「本当の恋人になってくれと頼んだ訳ではありません。叔母上の婚約パーティーの間だけパートナーになってくれるだけで良いのです。」
そう言って紫薫の涙を拭った。
目元のほくろを無意識に何度も撫でた。
そうすると紫薫は目を見開いて、切なげに微笑んだ。
そして、刻哉の大きな手のひらに頬を擦り寄せた。
「左馬刻さんも私の目元のほくろを親指の腹で撫でました。
不思議ですね。
あの人の息子だからなのでしょうか。
酷く似ていて、たまに本人のようで、懐かしくてそして辛い。
嗚呼、…」
嗚呼、嘆いたきり、その後に続く言葉はなかった。
けれど刻哉は何となくわかる気持ちがした。
きっとこの人が言いたかった気持ちは、「会いたい」だろう、と。
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