第4話 俺が先に好きだったのに
子どもの頃、幼馴染の夏鈴と最初に仲が良かったのは俺だった。
ただ、仲が良かった、と言うのは語弊があるのかも知れない。
夏鈴に世話をされていたに近い。
要領が悪い俺のことをいつも傍にいて助けてくれた。
学校では他のクラスメイトに彼氏彼女とからかわれたが、それでも嫌な顔一つせずに俺の世話をしてくれた。
俺の家で勉強を教えてくれもした。
「まったく、だからここはこの公式使うのよ」
風鈴のような声は透き通る。
食べ終わったスイカの皿が横にあった。
蚊取り線香の匂いが鼻腔まで漂ってきた。
「公式? えっーと」
数学の教科書をめくる。
学生時代、数学は苦手科目だった。
だから重点的に教えてもらっていたことを憶えている。
夏鈴も苦手科目の一つや二つあっただろうが、勉強もスポーツも何でもできた。
「128ページ目だよ」
「……ありがと」
二人で肘がくっつきそうなぐらいの距離感。
夏休みだった。
まだ俺達は子どもで、予定のない日は集まっていた。
少なくとも夏休み期間中、一週間に一度は勉強会を開いていた。
俺には男友達すらいなかったから予定なんてなかったけど、夏鈴は男女共に仲が良かったはずだ。俺なんかに構っていて大丈夫なのか、たまに心配になった。
だけど、それは杞憂だった。
はぐれ者と絡んでいたら、その人まで異常者扱いされるのが普通だが、その追及の躱し方が夏鈴は絶妙だった。みんなの笑いを取りながら、クラスのコミュニティに属しながら、俺ともしっかり話せていた。
「なあ、今日遊んで大丈夫だったのか?」
「? どういう意味?」
「ほら、クラスの連中に誘われてたんじゃないのか?」
「いいの、いいの。どうせ私がいないと夏休みの宿題まともに終わらせられないでしょ?」
いつだって俺のことを思ってくれていた。
俺がどれだけ拒絶してもいてくれた。
それが優越感になっていた時もあった。
好きにならない方が難しい。
俺はチラリ、と夏鈴の顔を見た。
容姿が整っていて、幼馴染の欲目を引いても学年で一番可愛いと言っても過言じゃなかった。
夏だから薄着だった。
白いブラウスから覗かれる胸が見えた。
ごくん、と思わず唾を飲む。
「どうしたの?」
「いや、何でもない。トイレ行ってくる」
「ああ、うん……」
ポカン、としていたから、俺の視線に気が付かなかっただろう。
そうであって欲しかった。
自分が恋愛感情を抱いていることを知られたら、きっと、夏鈴はもう俺の傍に居てくれないと思ったから。
自分の気持ちを伝えて気まずくなるぐらいだったら、ずっとこの幸福な時間が続けばいいと、そう思っていた。
「あっ、ああ……んっ……」
トイレから帰ると、ドアの隙間から艶っぽい声が漏れ聞こえてきた。
それは、今まで聴いたことのない夏鈴の声だった。
ドアが少し開いていた。
さっきはちゃんと俺が閉めたはずだったのに、開いている。
見るべきではないと思ったが、身体が勝手に動いてしまう。
「ダメだって……ねえ、ちょっと……礼二君がいるから……」
「我慢できないから。ちょっとだけ」
ドアの隙間から見えたのは幼馴染の夏鈴と、俺の兄貴だった。
野球の部活帰りなのか、兄はユニフォーム姿のまま夏鈴を後ろから抱きしめている。筋肉質で男らしく、俺とは全然違う体格をしていた。
夏鈴の服の上から強引に胸を揉みしだく度に、日焼けしていない白い肌が露出する。
上気しながら啄むように、兄の舌を絡ませていた。
口の端から涎が垂れていながら、深い吐息を吐いている。
言葉では嫌がっていたが、明らかに悦んでいた。
視界がチカチカと明滅している。
何が起こっているのかが理解できない。
よりにもよって俺の部屋で、二人は発情していた。
さっきまで楽しく勉強していたのに、俺の幼馴染はすっかり女の顔になっていた。
男に強く命令されればされるほど、嬉しそう肉体をくねらせる被虐性を持っていた。
「んっ、はあっ。ああっ……」
「夏鈴だって昨日の夜の事忘れられないだろ」
「それ……はっ……」
「なあ、次はどこにキスすればいい? ちゃんと言えよ。もっと気持ちよくしてやるぞ」
「どこって。そんなの……」
「やっぱり耳か?」
「は、はあああっ!!」
夏鈴は電撃が走ったかのように腰砕けになる。
俺は夏鈴に触れたことなんて手とか肘とか肩ぐらいなものだ。
だけど、兄は夏鈴を自分のものだとマーキングするみたいに、キスマークを付けていく。
弱点を知り尽くしているような舌の動きは、今日だけのものじゃない。
きっと、普段見えないところまで隅々調べたのだろう。
「ぜ、全部――ああああっ!!」
兄貴がスカートの中に手をやると、一際大きい嬌声が出る。指の動きに連動して、夏鈴も腰を動かす。声が我慢できないほどの快感に、口元に手をやっているが、んっ、んん、という声は聴こえてきてしまう。
膝立ちになっている夏鈴のスカートを捲ると、兄貴が顔を近づけていく。小さいフリルがついているパンツを膝まで降ろすと、スカートの中にすっぽりと頭が入って行った。子どもの頃の俺は友達がいないせいで、情報交換をしていなかった。だから性の知識というものが乏しく、何をやろうとしているのか詳しいことは分からなかった。ただ、さっきまでとは一段階違う淫靡な行為を行っていることだけは察した。
アイスキャンディーを舐めるような音がしてきて、夏鈴が恍惚とした顔になったことは網膜に焼き付いている。口が半開きになっていて、糸を引いていた。胡乱な表情をした夏鈴の焦点が合って、俺と目が合ってしまった。
「礼二君っ!!」
俺は逃げ出していた。
脳の情報処理が追い付いていなかったが、その場にいてはいけないことだけは分かった。
俺は靴も履かずに、靴下のまま家を飛び出した。数歩走ったところでアスファルトの熱さと痛みに耐えかね、靴ぐらい取りに戻った方がいいと一瞬頭に過ったが、無理だった。戻れるはずもなかった。戻って何を話せばいいのか分からなかった。
涙が出てきた。
思い切り叫んだ。
道行く人がいたのかも知れないが、涙で見えなかった。
一体何の涙か分からない。
悔しいのか、悲しいのか、怒りなのか。
頭の中がグチャグチャになって走って、ひと気のない公園に辿り着いた。立ち止まって初めて気が付いたが、靴下がいつの間にか血に滲んでいた。どこかでぶつけたんだろうか。それすらも分からないぐらい我を失っていた。
「良かった。礼二君……」
息を乱した夏鈴が腕をつかんできた。
いつもだったらそれだけ舞い上がっていたが、その手はさっき何を握っていたんだろう。汚れた手に思えて、払ってしまう。
握り拳は怒りに震える。
「お前、何してるの?」
「え? そ、それは……」
サッ、と乱れていた服を直す。
それは走っていたから乱れたのか、それとも兄貴との行為で乱れたのか。
今はどっちでもいい。
「付き合ってるの?」
「ううん、付き合ってないよ」
付き合っていないのに、あんな行為をしたのか。
逆に辛かった。
俺にとって夏鈴は聖域みたいなもので、他の女子とは違う人間だと思っていた。他の女子は何も考えずに顔の整った異性に身体を開くだけで、夏鈴はちゃんと考えていて身持ちが堅い人間だと思っていた。
せめて正式に付き合っているのならまだ納得できたのに、他の女と同じく頭の軽い奴だと思いたくなかった。俺がいない間、すぐに帰って来るって少し考えたら分かるはずなのに盛った女なんて思いたくなかった。
ある意味、そのことが一番ショックだった。
「いつから? ああいうの……」
「昨日かな? 昨日相談事があってそれで、ちょっとそういうことになって」
答えが曖昧なのは前から、そういう交流がちょくちょくあったってことか。
俺が昨日図書館に行っている間、二人は仲良く身体を触れあっていたってことだ。
「…………相談事って?」
「そ、それは礼二君のことだよ。礼二君、もっとしっかりしなきゃいけないのに、大人になってくれないから」
「はあ? 何言ってんの? 俺をダシに使ってそれで兄貴に取り入ったって訳?」
まるで俺が悪いみたいな言い方にカチン、ときた。
夏鈴は今までそんなこと言ったことがなかった。
俺がもしもしっかりしていたのなら、二人はキスをせずに済んだのだろうか。
「ち、違う。私は純粋に礼二君のことが心配だったから!!」
「あのさ、知ってる? 兄貴っていっつも彼女取っ替え引っ替えしてるんだ。早くて一週間ももたないんだよ。だから、お前のことも遊びなんだよ。目を覚ませよ。相手になんかされてな――」
パチン、と頬をぶたれた。
その時、思い出が駆け巡った。
勉強を教えてもらったこと、プールに一緒に行って泳いだこと、告白された男子が迷惑だと言っていたこと、バレンタインに義理チョコをもらったこと、初めて公園で会った時に一緒に遊ぼうと誘われたこと、俺が家まで案内されて両親に彼女出来た? とからかわれたこと、兄貴が夏鈴と初めて会った時に、夏鈴の頬が赤くなっていて嫌な予感がしたこと、俺が席を外した時に二人が話していて笑い声が廊下に響いていたこと、とかいっぱいいっぱい。
それらの思い出が、ピシリと音を立てガラス片になって砕け堕ちる。
頭の中には、大きな声で喘いでいた夏鈴がズームアップされた。
俺が家に連れ来なければ、兄貴と夏鈴の二人は出会うことはなかったのだ。
「最低っー!! 礼二君に何が分かるの!?」
夏鈴は泣いていた。
今度は夏鈴が走ってどこかへ行く。
俺は手を伸ばしたまま、何の言葉をかけることもできなかった。
だって、その方向は俺の家だったから。
きっと、俺の兄貴に慰めてもらうのだろう。
心も体も満足させてもらえることだろう。
だから俺なんていない方がいいのだ。
兄貴は当時、遊んでいた。
彼女の交際期間は短くて、複数の彼女の交際期間が重なっている時期すらあった。ただ、その浮気がバレたとしても、そこまで大事件にはならなかった。遊び人の噂が流れても、いくらでも彼女ができた。お互いに遊びであることを承知の上といった様子で、派手な格好をしている女性との付き合いが目立っていた。
兄貴一人が女性二人を連れて部屋の中に籠って、何時間も運動しているような音を聴いたことだってある。
女性関係とその行為について自慢されたこともあった。
ねっとりと。
どうやってそういった関係になれたか、それから部屋でどういった行為をして、どんな道具を使ったのか。中には叩いた方が喜ぶ奴がいたりとか、電話越しに色々命令されるのが好きな彼女もいたとか。
あまり聴きたくはなかったが、興味がまるでなかったと言えば噓になる。
俺は質問をして、兄貴の話をもっともっとと催促していた。
兄弟仲が良くて、いつも頼りにしていた。
なのに、裏切られた気持ちになった。
俺が夏鈴と付き合っていた訳じゃない。
俺が仄かな好意を抱いていたことすら、二人は気が付いていないだろう。
俺はそのときまだ餓鬼で、喧嘩別れするしかなかった。
応援するよ、の一言が言えなかった。
夏鈴から話しかけられたことは何度もあった。
謝られたけど、俺は聴く耳を持たなかった。
兄は本当に彼女をすぐ変えるタイプだったが、夏鈴とはうまくいったようで、社会人になったら結婚した。子どももできたらしい。出来っちゃった婚というやつだ。毎晩激しく求めあったのだろうか。
それから結婚式に呼ばれたし、子どもを見に来ないかとも言われたが、そんな気にはなれなかった。
頑固に結婚式に出ないと言った時には、親から激怒され半分ぐらい勘当みたいになって実家には社会人になってから一度も帰っていない。
兄との連絡も家族と縁が切れてからほとんどないし、俺のことを見放している。
唯一夏鈴からは、未だに連絡が来る。
ほとんど返信していない。
昔も今も俺は子どもで、何一つ変わっていない。
数十年以上前の話だ。
あの頃のことはタバコを吸っている時を特に思い出す。
あの時、タバコの煙のように、蚊取り線香の煙が漂っていたから。
蒸し暑いお盆の時期だったことを憶えて居る。
その日から俺は、お盆が嫌いだ。
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