第3話

「はあ、手術?」


「はい。予約してた者なんですが……」


 整形外科の窓口に座る女性は、マスク越しでもどこか気だるげで、どこか話しかけづらい雰囲気だった。僕が自分の名前と予約をした先生の名前を伝えると、黙ってパソコンを操作し始めた。彼女の爪は丁寧に手入れされており、薄いピンク色に塗ってあった。


「……はい、すぐにお呼びしますので待合室でお待ちください」


 女性は抑揚も愛想もなくそう言った。僕は軽く頭を下げて妙にポップな色合いのイスに座って自分の名前が呼ばれるのを待った。


 母親が予約した病院は、あまり「病院」っぽくない、おしゃれな内装をしていた。ワキガの治療や顔のシミ・ホクロの除去や脱毛などの美容関連の治療をメインにしているらしく、そのせいか受付も待合室にいる患者も若い女性が多く、妙に居心地が悪かった


 それから五分ほどして僕は診察室に通された。担当する医者はまだ若く、髪を短く刈り込んで、少し日に焼けた男だった。僕の顔を見るなり、人のよさそうな笑顔になった。


「担当の白井です。よろしくお願いしますね」


 ハキハキした声だった。白い歯がまぶしい。お医者さんというより、スポーツ選手みたいだった。僕はおずおずとあいさつし、彼の前に座った。


 それから僕は、体調や身体の不調など、よくある病院の問診を受け、その後手術の概要や方法、スケジュール感などの説明を受けた。僕が受ける手術は、どうやら脇を切り開いて、脇の中にあるアポクリン汗腺と呼ばれる部分を削り取るものらしい。白井は熱心に画像などをつかって説明してくれたが、脇から覗く人間の体内はかなりグロテスクで、少し不安になった。


「手術中、痛みとかないんですか?」


 僕がたずねると、白井は爽やかな笑顔を浮かべた。なんというか、そういう笑顔をすることが、患者の不安を軽減するのだと信じて疑っていないように見える。


「大丈夫ですよ。痛みが出たら麻酔の量を増やします。痛がる患者さんは今までほとんどいませんでした」


「は、はぁ……でも麻酔が効くまでは痛いんですよね?」


「まあ、麻酔の注射をする時は少しチクッとしますが、そのくらいですよ。ちょっとだけの辛抱です」


 白井はニッと白い歯を見せた。


「そうですか……ちなみに、この手術って一回受ければもう受けなくていいんですか?」


「……正直、この手術でアポクリン汗腺を減らしても、完全に臭いがなくなるわけではありません。汗腺を取りきってしまうのは別の病気のリスクもありますから」


「ああ、そうなんですか。わかりました」


 何の気なしにした質問だったが、白井はひどく申し訳なさそうな顔をした。その瞳には同情が浮かぶ。まるで、僕がずっと自分の脇の臭いをコンプレックスに生きてきたかのような、そのせいで壮絶ないじめでも受けてきたかのような反応だった。


「……こういう手術受ける人って、結構いるんですか?」


 思わず気になって聞いてしまった。白井はまた人のよさそうな笑顔を浮かべて答えてくれた。先ほどと全く同じ表情だった。もしかしたら何度も同じ顔を鏡の前で練習しているのかもしれない。


「ええ、脇の臭いで悩んでいる方はかなり多いです。友人に指摘されたとか、緊張する場面で恋人に嫌がられた、とか……」


「そうなんですか」


「昔は皆さんミョウバンとかを塗って対応していたんですが、やっぱり一番効果があるのは手術なんですよ。でも、昔は費用が高額で、手術できる人は少なかったんです。でも、最近は大分値段もリーズナブルになってきましたからね。選択の幅が広がって、手術受ける方、増えてきてますよ。医学の進歩、ですね」


 言いながら頷く白井の顔には、自信がみなぎっていた。その進む方向が間違っていないと、心から信じている。どこかあどけなさの残る顔だ。もしかしたら、僕とそんなに歳は変わらないのかもしれない。


 説明が終わり、手術へ同意する旨の書類にサインすると、たまたまスケジュールが開いていたらしく、その日のうちに手術に入った。


 手術、というから、ドラマで見るような手術台にのるのかと思ったが、案内されたのは普通のベッドだった。上半身裸になり、施術する右腕を上げてあおむけに横たわる。手術の様子が目に入らないようにと、右腕と反対方向に首を向けられ、顔の上からタオルをかぶせられた。


「麻酔、打ちますからね。ちょっとチクッとしますよー」


 白井の声が聞こえてくる。声だけでも先ほど話していた時の人のよさそうな笑顔が浮かんでくるようだ。ほどなくして注射の針が僕の腕に刺さる。プツッという皮膚が小さく破裂するような音が聞こえ、軽い痛みが走る。痛みは数秒で去り、しばらくすると注射が打たれた周りだけ感覚がなくなっていった。


「ちょっと触りますね、感覚、どうですか? 痛みはないですか?」


「ええと……」


 白井は僕の脇を触ったが、ひどく奇妙な感覚だった。触られているという感覚だけがあり、つねられても引っ張られても何の痛みも感じない。皮膚がゴムにでもなったようだ。僕は、タオルの下で首を縦に振った。


「……麻酔、ちゃんと効いてるみたいですね。じゃ、今から始めます。もし手術中に痛みを感じたら遠慮せずに言ってくださいね。麻酔、足しますから」


 直後、自分の脇に何かが当てがわれる。ガーゼのようなものなのか、それともメスのようなものなのか。それすら判断できない。ゴムに変わった皮膚の上を、たらたらと液体が流れていく。薬でも塗られたのかとも思ったが、よく考えれば自分の血に違いなかった。あまりにも奇妙な感覚だった。今、僕は自分の脇を切り開かれている。そして、身体の内部をいじくりまわされている。でも、そのことに、僕自身が気づけていない。


 傷口がどうなっているのか、少しだけ気になったが、タオルをどける勇気はなかった。手術の前に白井に見せられた汗腺の写真を思い出して、今頃あれと同じ光景が広がっているのだと思うと、それだけで気分が悪くなる。


 気を逸らそうと、何の関係もない事を考えるように努める。昨日見たテレビとか動画のこととか、仲間内のくだらないラインとか、TLを流れていた気の利いたツイートとか、色々と思い起こそうとしてみた。


 だけど、そちらに意識を飛ばそうとしても、自分の皮膚が引っ張られる感覚がすると、どうしても今の自分の状況を思い出してしまう。


 この手術が終わったら、僕のワキガは治る。そんなに気にしてはいなかったけれど、時々僕の脇から出たあの嫌な臭いはなくなる。


 母は、ワキガがひどいと社会で居場所がなくなるなんて言っていた。一介の専業主婦の母が世間を代表かのような口を利くなんておかしな話だし、そんな極端な話あるわけがないと僕も思う。こんな手術、受けても受けなくてもよかったと、今でも思っている。


 でも。この手術が終われば、僕は母の言葉を少しだけ認めたことになる。彼女がいう社会に適応したことになる。少なくともワキガの人が近くに現れた時、「そんなこと気にしなくていいよ」と軽々しく言えなくなる。


 そんな風にみんなが少しずつ合わせていくことで、本当に母が言ったような社会になっていく。脇から出る汗臭さが許されないような社会になっていく。そんな気がしてならない。


 でも、仮にそうだったとして、だからなんだ? もしそんなふうにワキガが許されない社会になったとしても、これだけ簡単に手術して治るんだから別にいいじゃないか。目が悪い人が眼鏡をかけるようなものだ。気にする必要なんてない。


 じゃあ、ワキガが社会で許されないなら、別の汗臭さは? 今度は太っている人が許せなくなるのだろうか。でも、もしそうなっても問題ない。今時、パーソナルトレーニングだの脂肪吸引だのメディカルダイエットだの方法はいくらでもある。今は高額でもすぐにリーズナブルに肥満が解決するプランができるはずだ。


 毛が薄くなるのが許されなくなれば植毛すればいいし、毛深くて不潔に見えることが許されなければ脱毛すればいい。それだけの話だ。


 そうやって、みんなが少しずつ自分を「正しい姿」に寄せていく。

 正しさへのハードルが下がることで「正しい姿」でいることがより強く求められる。

 本人が気にしているかいないかに関わらず、何となく「正しくない姿」が許されなくなってくる。そんな気がしてならない。


 ……やめよう。どうみても考えすぎだ。相原だって言っていたけど、僕がワキガの治療をするくらいで、こんなこと考えるなんて、想像力が豊かすぎる。誇大妄想もいいところだろう。馬鹿馬鹿しいことこの上ない。


 それに、仮に僕の予想通りに世界が進んでいくとして、僕にできることなんて何もない。結局、流れに身を任すしかない。正しいとか、間違っているとか、こうあるべきとか、違和感とか。そういうことは、とりあえず考えないようにしよう。考えるだけ、エネルギーの無駄遣いだ。


 切り開かれた脇が引っ張られる。痛みはない。ゴムのような皮膚は自分の身体のはずなのに、ひどくよそよそしい。身体の中を切られているというのに麻酔のせいで、全然実感がない。


 この異様な状況に僕は早くも慣れ始めていた。目を閉じてベッドに身体を預け、されるがままにメスを受け入れていると、呼吸が徐々に穏やかになっていった。段々と瞼の裏の暗闇が深くなって、意識が遠のいていく……。


「はい。終わりましたよ」


 白井の声でハッと目が覚める。僕がウトウトしている間に手術は終わり、僕の脇は既に縫合されていた。


「お疲れさまでした。もう大丈夫ですよ」


 顔にかかっていたタオルを外して、白井は僕に微笑みかけた。


 いったい、何が「大丈夫」なんだろうか。


 寝起きのぼんやりした頭の中で、僕はそんなことを思った。

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