第2話

「は、手術?」


 並んで歩いていた相原が急に立ち止まる。時刻は夕方で、駅前は徐々に賑わいを見せ始めていた。もう数時間もすれば、飲み屋を求めてサラリーマンたちであふれかえるであろう。


「そう。ワキガの。なんか、親にすすめられてさ」


 僕がそう言うと、相原はまじまじと僕の顔を見つめた。普段の緊張感のない半にやけの表情とは違う、妙に真剣味のある顔だった。


「……俺、お前のこと臭いとか思ったことないけど」


 相原は、表情通りに真剣な声色でそう言った。大学四年間つるんできたが、この男がこんな真面目な顔をするのを僕は見たことが無い。


 僕としては、ほとんど世間話くらいの、ちょっと面白いネタくらいのつもりで言ったのだが、相原の反応は、まるで僕が親の借金を告白したかのようだった。ずっと抱えていた悩みを打ち明けたかのような深刻な色合いが出ていた。

 僕は慌ててつづけた。


「いや、僕だってそんなに気にしたことないよ。でも、母親がやっとけって……」


「……あ、そうなのか。なんだ。てっきり言わないだけでめちゃくちゃ気にしてたのかと思った」


 ほっと息をつくと、相原はいつもと同じ調子に戻った。


「気にしてねぇよ。てか、そんなに臭くないだろ?」


「ああ。一緒にいて気になったことはねえな。別にやんなくていいんじゃね?」


「僕もそう思うんだけど……親は大分気にしてるみたいでさ。社会人になる前にやっとけって」


「愛されてんなぁ。お前」


 くつくつと、おちょくるように笑う。一人暮らしをしているこの男にとって、僕の母親の過保護っぷりは大分愉快らしく、ことあるごとにいじられていた。


「やりすぎだよ。僕だってもう社会人になるわけだし。子離れして欲しいもんだ」


「そんなこと言うなよ。お前のことを思ってのことだろ? あんまり邪険にするとバチが当たるぞ」


「そりゃそうかもしれないけど……でも、ワキが臭いと社会人になってから浮くかもしれないとか、女子社員に嫌われるとか、言いたい放題言われるから、普通にムカつくよ」


「ああ……それはお前のお母さん間違ってるわ」


「だろ?」


「おう。お前が浮くのも、女子にモテないのも原因はワキガじゃない。もっと根本的な人間性だ。安心しろ」


「普通に悪口だな、それ……」


 言いながら相原は声を上げて笑った。甲高い笑い声が響き、道行く人々の視線が集まるのを感じる。


 この男との会話はいつもこんな感じで、内容の九割が悪ふざけだった。何の生産性もない、その場限りでふざけ合うだけのやり取り。それが、何となく心地よかった。それができたから、僕は相原と四年間つるむことができたのだと思う。


 しかし、だからこそ先ほどの相原の表情は気にかかる。ワキガの手術をすると言った直後の相原の顔には、驚きと、困惑が浮かんでいた。手術、という言葉の響きが厳めしいからか、手術をするほどに僕が悩んでいたことに気を使ったのか……。何にせよ、あの時の相原の表情はしばらく忘れられそうになかった。


 僕らは軽口をたたき合いながら、そのまま適当な居酒屋に入った。開店とほぼ同時だったので、ほとんど貸し切りみたいな状態だった。早い時間から酒が飲める大学生の特権だ。


「……で、結局どうするつもりなんだよ」


 相原と二人で乾杯し、取り留めのない話をしながらハイボールのジョッキを三回ほど空にしたころ、相原が改めて手術について聞いてきた。もうだいぶ酔いが回って、相原の顔は随分と赤かった。


「あー。正直、あんまり受けたくないんだよな」


「なんで? やりゃいいじゃん。金出してもらえるんだろ?」


「まあ、そうなんだけど……」


「手術が怖い、とかか?」


「いや、そういうわけじゃなくて……」


「じゃ、あれか? 過保護すぎる親への遅れてきた反抗期か?」


「それ、カッコ悪すぎるな……まあ、否定はしきれないけど」


「なんだよ、はっきりしないな」


 もごもごと喋る僕の肩を、相原はバシバシと叩いた。酔っぱらうとこの男は人のことをよく叩く。力加減が雑で結構痛い。僕は軽く相原の腕を払いのけながら言った。


「自分でもよくわかんないんだよ。上手く理由が説明できない」


 客観的に見て、手術を受けない理由がない事くらい、僕にも分かっている。金銭的な心配はなく、個人的には自分の身体にメスが入ることへの抵抗もあまりなかった。言ってみれば、僕がこの手術で失うものは何もない。それに、自分も周囲もほとんど気にしてなかったとはいえ、臭う腋と臭わない腋では後者の方がいいに決まっている。


 そう考えると、手術をしない理由はない。しかし……。


「なんか、違和感があるんだ。自分の身体をいじることに。それも、自分の中に大きな理由があるわけでもないのに、さ」


「違和感、ねぇ」


「なんて言えばいいのかな……。この世界に『正しい人間の姿』がぼんやりとあって、何となくその姿を目指すことが正しいとされているのが気持ち悪いっていうか……」


 同調圧力、というほど強いものではない。「絶対にこうしなければならない」というほどの強制力はない。でも、「選べるのであればそちらを選んだ方がいいという」選択肢という、緩やかな圧迫感が何となく腑に落ちない。


 知らないうちに、世間というか、世界というか、とても大きな流れに巻き込まれているような、とんでもないことに無意識に賛同しているような、そんな危うさがあった。


「よくわかんねぇな……」


 相原は面倒くさそうに頭を掻いた。相原は酒を飲むと陽気になっていくタイプで、難しいことを考えられなくなっていく。酔うほどに悲観的に、理屈をこね回すようになってしまう僕とは真逆だ。僕は、霞がかかったような頭で、なんとか自分の違和感を言葉にしようと、考えがまとまらないままに口を開いた。


「例えばさ、生まれる前に子供の病気が分かる診断あるじゃん?」


「ああ、あるな。出生前診断ってやつ」


「それそれ。例えば、それが一千万円かけないとできないって話だったら、やる?」


「やらねえ。高すぎるだろ」


「でも、十万円だったら?」


「……やるかもな。そのくらいなら。しないよりはした方が良いだろ。色々準備もできるし」


「じゃあ仮に十万円でできるとしよう。それをやらない親がいたとして、生まれた後に先天的な病気が見つかったとしよう。で、両親が予想外の不幸を嘆いているとする」


「として、が多いな……。で、なんだよ」


「その時、その親を責める?」


「は?」


「たった10万円かければわかることだったのに、それをしなかったがために準備ができなかった。障害を持った子供を育てる負担を考慮して、堕ろすことも考えられたはずなのに、それをしなかった親に責任があると思うか?」


「……俺は責めない、と思う」


「でも、世間にその親を責めるヤツが出てきてもおかしくない。だろ?」


「まあ、そういうヤツは一定数いるかもな」


「そうなった時さ、自分もその検査しちゃってたら、なんとなく責めてるやつと同じになるというか、検査をしなかった人達が間違ってるってことに遠回しに賛成してしまっているような気がするんだ」


「……」


 選択肢が増えるということは、素晴らしいことだ。今まで「運命」として諦めるしかなかった悲しい出来事が、自分の力で何とかできるようになったことはきっと人間の進歩だ。否定などできるわけがない。


 しかし同時に、自力で選べるものが増えたということは、それだけ世間が厳しくなったともいえる。世間が「しかたない」と許せていたものが。一つ減った。とも言い換えられるのかもしれない。


 相原は黙った。僕の言ったことを考えているのか、神妙な顔で氷だけが残ったジョッキをマドラーでかき混ぜている。しかし、しばらくすると、何故かプッと噴き出した。


「……なんで笑うんだよ」


 僕が苦言を呈すと、「ごめんごめん」と相原は真剣な表情に戻そうと努力した。が、顔中ににやけが広がるのが抑えきれず、結局声を上げて笑い始めた。


「何がそんなに面白んだよ」


「いや、だって、考えすぎだろ。なんで、ただのワキガの治療が、出生前診断とか、人類の進歩とかの話になるんだよ。想像力豊かすぎだろ」


 そういって相原は愉快そうに笑い続けた。改めてそう言われると、自分がかなりスケールの大きいことを言っていたような気がしてきた。妙に恥ずかしい。大分自分も酔っているらしい。なんだか僕も面白くなってきてしまった。


「そうだな。確かに壮大過ぎたな」


「そうそう。安心しろ。お前の脇から臭いが消えたところで、世界にはなんの影響もない。まだ最近俺に痔になったことの方が一大事だ」


「え、お前痔なの?!」


「ああ、つい先日な……」


 そこから僕らの話題は相原の尻の話で持ち切りになってしまった。相原の口から語られる痔の治療体験記は脚色が激しく、まるで一世一代の大手術でもうけたかのような話し方だった。あまりに話を盛るので、僕も馬鹿馬鹿しくなって腹を抱えて笑った。


 大声で笑いながら酒を飲んでいるうちに、いろんなことがどうでもよくなってきた。

 友人と馬鹿話をしているだけで忘れてしまう程度の違和感ならば、気にする必要もないだろう。僕は結局、手術を受けることに決めた。

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