腋臭

1103教室最後尾左端

第1話

「は? 手術?」


「そう。ワキガの手術。もう病院探しといたから、あんたの都合の良い日教えなさい」


 大学四年の夏。無事に内定が出て、人生最後の夏休みを有意義に過ごすべく、同じく就活を終えたサークルの連中と卒業旅行の計画を練り始めたころのことだ。打ち合わせを終えて家に帰ると、母が急にそんなことを言い出した。


「ワキガって……いるか? そんなの」


 その場で自分の脇の臭いをかいでみたが、特に嫌な臭いはしない。外を歩いて帰ってきたばかりだったので多少の汗臭さはあるだろうが、それほど気にするようなものでもないように思える。


「いる。あんたのシャツ、脇からひどい臭いすんのよ」


 母は思い出すだけでも鼻が曲がりそうだとばかりに顔をしかめた。そんな顔しなくてもいいだろうと少しムッとしたが、ここでわざわざ言い合いをしても何の得もない。とりあえず適当に「ごめん」と謝っておいた。


 確かに、自分の脇から嫌な臭いがする瞬間がなかったわけではない。プンと鼻をつく独特な悪臭が自分から発されていることに気が付いて、それが周りに気づかれていないかとドギマギした経験もないではない。


 しかし、そういう臭いがするのは部活やサークルで激しめの運動をした後や、人前での研究発表や就活の面接みたいな、ひどく緊張することがあった後だった。運動にしても緊張にしても、汗をかいたら汗臭くなるのは当たり前のことだと思っていたからそんなに気にもしていなかった。


「そんなに臭い? 周りにそういうこと言われたことないんだけど」


「バカね。あんたに直接いうわけないでしょ。あんたがいないところで言われてんのよ」


 母は愚かな我が子を哀れむような視線を向けた。いつまでたっても自分のことを子供扱いする母に苛立つことはあれど、その子供扱いに甘えている立場である自分に強く出ることはできない。それに母のいうことももっともだ。僕の周りにいる人間は、それほど善人というわけではないが、僕の目の前で僕の悪口を言うような常識のない連中ではない。基本的には親切で気のいいやつらだ。


 しかし、そんな親切で気のいいやつらであるから、僕がいないところで僕の臭いを揶揄して楽しむようなことはないとも思う。少なくともサークルの仲間は四年間同じ時間を過ごしてきた気の置けない関係だ。本当に臭いが気になっていたならちゃんと教えてくれるはずだろう。


「それに、あんた、社会に出たらもっとシビアなんだから。女子社員とかに噂とかされたらモテないし、居場所なくなるわよ」


 僕の心中はお構いなしに、母は決めつけるように続けた。時々母は、世間の代弁者を気取るような口を利いた。


 若くして父と結婚し、すぐに専業主婦になった母が、いわゆる「社会」についてそこまで詳しいとは思えなかったが、その口調にはある種の確信めいたものがあった。大方、テレビだかネットだかで見たのだろう。彼女が「社会」と接続できている場所はそこくらいだった。


 もちろん、バイトくらいしかしたことがない大学生である僕だってどっこいだとは思う。でも、人のことを臭いで判断するような女なんてこちらから願い下げだし、逆に自分が好きになった女の子の脇が多少臭かったとしても気にしないと思う。


「あんたは何にも分かってない。気づかないうちに周囲に気を使わせてんのよ。今のうちに治しておきなさい。お金は出してあげるから」


 自分が病だとも思っていない部分を「治しておきなさい」などと言われるとさすがに文句の一つでも言いたくなったが、こんなことで親子喧嘩になっても不毛なので適当な返事をしてごまかし、自分の部屋に向かった。部屋の扉を閉める直前、母の声が部屋に飛び込んできた。


「あんたのためを思って言ってるんだからね! 病院の電話番号教えてあげるから、空いてる日があったらすぐに行きなさい!」


 返事の代わりに扉を少し強めに閉めた。バタン、と乱暴な音がする。鞄を床に放り出し、着替えもせず、ベッドに横になる。たった数分の会話なのに、なんだか、ひどく疲れてしまった。


 母はもうすぐ五十歳になる。若くして父と結婚して仕事を辞めてしまったためか、母には家事と子育てくらいしかやることがなかった。趣味らしい趣味もなく、あまり交友関係も広くない。家事をしていない時は昼寝をするか撮りためているドラマをぼんやり眺めるだけの生活を送っていた。


 そんな彼女にとって、たった一人の子供である僕の世話をすることは、生きがいの大部分だったと思われる。母はかなり僕に対して過保護気味だった。父は人生から仕事を差っ引いたら何も残らないような仕事人間だったので、子育てにはほとんどノータッチだった。母は色々な手を尽くして僕の世話を焼いた。部屋の掃除や洗濯、料理や洗い物に至るまで、僕はほとんどやったことが無い。


 中学、高校と薄々自分が甘やかされていたことは感じていたが、大学に入ってその感覚はつよい後ろめたさに変わった。一人暮らしをして、バイトで生計を立てている同級生たちを見ていると、実家暮らしで食事も洗濯も母親に任せきりの自分が情けなさを感じることもあった。


 母の過保護は、僕が就職先を決め、大学卒業後は社宅に住むと決まってからますますひどくなった。『職場で浮かないコミュニケーション』といった類の内容の薄いビジネス本を大量に買い込んだり、一人暮らしを狙った悪質な宗教の勧誘やマルチ商法の手口などをネットで調べて僕に見るようにしつこく勧めたりした。今回の腋臭の手術の件も多分その一環なのだろう。本人が気にしてもいない脇の臭いの治療を、親が勝手に予約するなんて、どう考えてもやりすぎだ。


 でも、そんな母の様子を鬱陶しいと思う一方で、これで最後なのだから思う存分やらせておこうとも思っていた。どうせ後数か月もすれば、僕はこの家を出て行く。そして、きっと慣れない一人暮らしに苦労して、母のありがたさを知ることになるだろう。そう考えると、少々わずらわしくても今は母の気づかいを受けておく方が良いように思えた。


「しかし、そんなに臭いかな……」


 ベッドの上でもう一度自分の脇の臭いをかいでみる。部屋には冷房が付いていたから、既に汗は引いていて、さっきよりも臭いは薄まっていた。やっぱり、わざわざ手術をするようなことじゃないような気がしてならなかった。

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