第6話 最終選考その2

「失礼します・・・」

 漁師の作業着の衣装に着替えたユイがオーディション会場に戻ると、審査員席の方が少しざわついた。

「あ・・・」

 鏡を見たユイはなぜざわついたのか理解した。おそらくユイが着替えている途中にメイクが落ちてしまったようであり、頬にはアイラインがにじんでしまっていた。やらかしたとユイは思ったが、どうせオーディションに落ちるのだから気にすることはないと思いなおし、そのまま演技を始めた。


 最初の男を海に突き飛ばすシーンは、ユイにとってオーディションの緊張をほぐすにはちょうどよく、自分でも驚くくらい生き生きと演じることができた。問題は、二つ目のシーンである。大切な人を戦争で亡くしたシーンで、セリフは決まっていない。これまでの女優たちは、大切な人の名前を連呼したり、戦争の不条理さを憎しむようなセリフを足したりしていた。しかし、アドリブをしたことのないユイにとっては、このようなシーンは困難を極めた。ヒロインの気持ちになりきることがまったくできていないユイは、一生懸命のことを考えようとするが、何も感情が湧いてこない。次第に、何もできない自分に対するいらだちを感じるようになってしまった。


「自分のバカヤロー」

 ユイは思わずそう叫んでしまった。オーディション会場は一気に静まった。周りの人の多くは困惑したような表情をしていた。その中で、楠 佐奈子はユイを見下すような表情で笑っていた。ユイはこれ以上演技を続けることができず、これで二つ目のシーンを打ち切った。


「ありがとうございました・・・」

 そう言ってお辞儀をした後、恐る恐る市沢 斗美子の表情を伺った。驚くことに、彼女の表情は曇っていなかった。それどころか、少し笑顔になっているような気すらしたが、それは気のせいだろうとユイは思いなおした。



「はい、それでは最後、楠さんお願いします」

 ユイの次の人のオーディションも終わり、いよいよ最後の楠 佐奈子の番になった。楠 佐奈子は大きな声で返事をして更衣室に向かっていった。その姿は自信に満ちあふれていた。しばらくして、楠 佐奈子のオーディションが始まった。


 一つ目のシーンはユイから見ても見事と言うしかなかった。何よりもまず津軽弁がとても自然に聞こえたのであった。ユイは中田の様子を見てみたが、彼も楠 佐奈子の演技にとても満足しているようであった。続いて二つ目のシーンが始まった。

「ああ、この世はなんて残酷なの・・・」

 楠 佐奈子はそう呟くと、その場にしゃがみ込んで、次第には目から大粒の涙がこぼれた。オーディションを通して、彼女に良くない印象を抱いていたユイではあったが、このような細かな設定が決まっていない場面でも涙を流すことのできる楠 佐奈子の女優魂を感じていた。その姿は、まさしく清純派女優であった。ただ、その一方で、なんとなくわざとらしさみたいなものをユイは感じていた。その時、


「あなた、いい加減にしてちょうだい」

 いきなり市沢 斗美子が立ち上がって、そうピシャっと叫んだ。楠 佐奈子の演技に惹き込まれていた周りの空気が一気に凍り付く。

「なによ、悲劇のヒロインみたいな演技をして。このオーディション内容を見て、どうしたらがそんな人物だなんて思えるのよ」

 その言葉にユイをはじめ周りの人はハッとした。確かに、涙まで流す演技によって忘れてしまっていたが、男を突き飛ばすシーンが描かれるなど、明らかには、これまでのドラマでよくあるような、清純で素直な人物とは違うはずであった。楠 佐奈子が演じたは、おそらく市沢 斗美子が想像していた像と大きく乖離してしまっていたのであろう。


 市沢 斗美子はそそくさと会場から出て行ってしまい、中田をはじめ他の審査員たちが慌てて追いかけていった。会場には、ヒロインの候補だけが残っていたが、誰も声を発することができないでいた。ユイが恐る恐る楠 佐奈子の様子を見ると、彼女はものすごい形相をして、市沢 斗美子が出ていったドアの方を睨みつけていた。その姿は、数分前にを演じていた時とは、あまりにも違っていた。



 このような、あまりにも大きな事件があったからこそ、最終審査があると連絡があったとき、ユイはもう一度審査をやり直すのかと思っていた。そうしたら、待ち受けていたのがユイのヒロイン抜擢であったのだ・・・。

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