おーけすと・ライフ

マチュピチュ 剣之助

プロローグ

「うみー、待ってよー」

 華菜かなが、スタスタと前を歩くうみを呼び止める。

「華菜、どうしたの。私は早く帰りたいよ」

 海と華菜は大学に入学したばかりで、先ほどまで説明会があったところだった。内気な性格の海は、知らない人が大勢いる場所がとても苦手で、説明会が終わったらすぐに帰りたいと考えていた。

「まだ帰っちゃだめだよ。これから部活動とかサークルの説明会があるよ」

 華菜は海を必死に引き留める。

「え、私は部活動なんかしたくないよ。大学終わったら早く家に帰ってバイオリン弾きたいもん」

 海は新しいコミュニティに入るのも苦手だったので、部活動なんてからきし考えていなかった。

「何言ってるのよー。部活動にはオーケストラもあるのよ。一緒に見に行かない?」

 華菜も負けてはいなかった。

「せっかくバイオリン弾けるんだから、オーケストラに入った方が楽しいじゃん。私もフルートやってるから一緒に参加できるよ!!」

 海は思わず立ち止まった。


「オーケストラか・・・」

 部活動のことを一切調べていなかったため、オーケストラの部活があること自体、海は知らなかった。それは、少し惹かれるものであったのは事実だ。海は、人と話すのは苦手だが、発表会でピアノと合わせることは大好きだった。二人で合わせるのも楽しいのだから、大勢で合わせるのはもっと楽しいのだろう。

「いやいや、やっぱり私はいいや」

 思いなおすように海は言い切った。

「やっぱりオーケストラって大変そうだし、私には向いていないよ」

「もう、見学するだけ見学しようよ!それで合わないと思ったらそこで辞めれば良いだけじゃん」

 華菜はついに我慢の限界で、海を強引にオーケストラの練習に連れていく作戦に出た。

「うわー。華菜ったら強引なんだから・・・」

 ひ弱な海は華菜に抵抗することもできず、そのまま二人はオーケストラの見学に向かうのであった。



「すみませーん」

 オーケストラの練習場所の入り口で華菜が大声を出す。まだ練習時間前であったため、人はまばらで練習している人もいれば談笑している人もいる。

「はい、見学希望の新入生かな。僕はチェロを弾いている二年の竹原たけはらです」

 大柄な男性が近づいてきて、二人に声をかけてくれた。

「こんにちはー。新入生の原山はらやま華菜です。フルート吹けます!そして、こちらは友達の青川あおかわ海ちゃん。バイオリンが上手なんです」

「ほほう。それはうちにとっても貴重な人材だね。今日は公開練習の日だから是非こちらに座って聴いていってください」

 人見知りをしない華菜は竹原という男性ともすぐに打ち解けてしまった。海は、竹原と直接話すこともなく、華菜の後ろについていって、見学席に座った。見学席にはすでに10人ほど人がいた。


「こんにちは。私は由美ゆみ。バイオリンを10年習っています。あなたたちは?」

 見学席の真ん中に座っていた女子が声をかけてきた。笑顔ではあるが、気が強そうな感じがして、海は少しだけ苦手意識を最初に持ってしまった。

「こんにちはー。私は華菜で、こちらが海。よろしくね。私はフルート吹いていて、海がバイオリン」

 華菜がそう言うと、由美は海の方を見てジロジロ眺めてきた。やはり少し苦手なタイプだと海は思い目をそらした。

「ふうん。よろしく」

 由美は笑顔に戻りそう言った。

「あ、海はバイオリン3歳からだからバイオリン15年弾いているのよー」

 華菜がそう言った瞬間、由美の表情は一気に曇った。

「ちょっと・・・華菜。そんなこと言わなくても・・・」

 海も、言ってほしくないことを言われたと思い、少し焦った。由美はそれについては何も言わず、再び席に座った。



「あれー海ちゃん?久しぶり!」

 突然聞き覚えのある声がした。

「陽菜先輩!?」

 それは幼いころから知っていて、二学年上の黒井陽菜くろいひなであった。陽菜と海は近所に住んでいただけでなく、バイオリンの先生も同じであった。陽菜はバイオリンのほかにバレーボールなど様々なことを小学生の頃からしており、他学年にも知られるくらい有名な存在であった。勉強もとてもできて、生徒会長などもしていた。海は、小さいころから陽菜のことをとても尊敬していた。海の性格をとてもよく理解してくれていて、いつも優しく接してくれていたから、憧れと同時に話しやすい存在でもあった。

「海ちゃんも大学生になるんだねー。このオーケストラに入ってくれたらとても心強いな」

「陽菜先輩はオーケストラに入っていらっしゃったのですね。知らなかったです」

「そうよー。コンミスをしているの」

 その言葉を聞いて、遠くに座っていた由美がこちらをチラチラと見るようになった。


 コンミス。またはコンマス。オーケストラ、特にバイオリンをしている人にとっては誰もが知っている言葉だ。コンサートミストレス(コンサートマスター)の略であり、第一バイオリンの首席奏者である。また、その楽器の単なるトップであるだけでなく、オーケストラ全体の中で指揮者の次に重要なポジションとも言われる。海ももちろん言葉と意味はなんとなく知っていたが、具体的に何をすべきなのかなど細かいところはあまり知らなかった。

「そうなんですね。すごいですね」

 海は、陽菜がコンミスであることのすごさよりも、陽菜がオーケストラにいることの嬉しさが大きく、今日初めて笑顔になった。

「今日の練習楽しんでね。最初は通し練習だから、曲の全体がわかって楽しいかも。それじゃあ」

 そう言って陽菜はオーケストラの最前列に向かっていった。そのあとすぐに指揮者の先生も登場して、公開練習が始まった。



 公開練習はあっという間に感じられた。最初に通した曲は、ドボルザークの交響曲第9番『新世界より』。そこまで、オーケストラの曲に詳しくない海でもよく知っている名曲中の名曲だ。曲のすごさにも圧倒されたが、それよりも海は陽菜の弾いている姿にうっとりしてしまった。指揮者の指示を誰よりも早く理解して実践して、他のパートともしっかりと呼吸を合わせながら弾いていて、そして後ろに座る10人以上のメンバーを束ねていく・・・。海は陽菜の後ろで弾いてみたいと強く思った。

 練習が終わると興奮気味に華菜に話しかけていた。

「華菜、一緒にこのオーケストラ入ろうね!練習頑張ろう」

 練習前からのあまりの変容ぶりに華菜ははじめ驚いていたが、やがて笑顔に戻ると

「うん、それなら入団しますって竹原さんに伝えにいこう」

 と言ってくれた。

 入団の手続きをしているとき、海は期待で胸が膨らむばかりであった。憧れの陽菜と一緒のオーケストラで弾くことがどれだけ楽しいことであるのか。そして、できるものなら陽菜と同じパートを弾きたいなとだけ考えていた。その際、後ろから視線を感じたので振り返ってみると由美がいた。不服そうな顔をして由美が立っているのに気付いたが、海はもう気にならなくなった。



 後になってから考えると、入団時のワクワク感よりも、その時の由美の表情の方が、そのあとの海に待ち受けている日々を象徴していたのかもしれない。入団から一年たったころの海に聞いたら、きっとそう答えただろう・・・。

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おーけすと・ライフ マチュピチュ 剣之助 @kiio_askym

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