第166話 幻影の矢

 いきなりそう尋ねられた老婆はおろおろして、ちらっと家の中の奥のほうを見た。霧月ブリュメールはそれだけでその人物が中にいることを理解する。


「でてこい、ヴァンダイク。別にお前を殺しに来たわけじゃない。聞いてほしいことがあるだけだ」


「……」


 返ってくるのは静けさのみ。カメリアとデルマーは顔を見合わせる。老婆はどうすればいいかわからず、その場で戸惑っている。


「入るか」


 カメリアは上司の言葉にうなずき、二人は一歩中に入る。


 その瞬間、少女の頭に激痛が走った。


「うわあああッ!!!」


 カメリアはその場にうずくまる。痛くて痛くてもう目でさえ開けられない。原因はわからないが、視界にノイズが走っているのは事実だ。


「デ、デルマーさまッ……」


 カメリアはなんとか、立っていた霧月ブリュメールに手を伸ばし、自分のことは放っておいて敵を追ってほしいと言おうとした。だが、そこで彼女は痛みでさえ忘れてしまうくらい、驚くべきものを見てしまう。


 それは霧月ブリュメールの涙であった。


 彼の視線は宙を浮いていた。なにもないところを一生懸命、ひどく驚いた顔で見つめていた。ノイズで見えにくかったが、確かに彼の右頬に透明な一筋の涙がつたっていた。


「デルマーさまッ!」


 カメリアは彼の腕を揺さぶるが、デルマーが反応する気配はない。代わりに一言のみ、彼の唇から漏れる。


父さんPapa母さんMum……」


 その悲痛な声を耳にした少女は唖然としてしまう。

 デルマーは一体何を見ているのだ? 誰がこんなことをした? なんの力だ? どうして彼は悲しんでいる?

 困惑の波が落ち着いてきた後、カメリアの心に残ったのは怒りだった。


「許さない……」


 髪と目が黒くなり、少女は頭を押さえながらも立ち上がる。


「絶対に逃さない! サザンカ!!」


 近くで待機していた鷲はすぐに飛んできた。カメリアは彼女に相手に向かって飛ぶことを命令し、少女は鳥の後を追った。

 老婆の裏庭の塀を飛び越え、家の敷地から敷地へと移動するうちに、やっとカメリアは敵の後ろ姿を見つける。どうにかして止めたいが、自分のたいして強くない炎の能力では足りない。ならば……。


「サザンカ、これを!」


 カメリアは乱れる視界の中で、小さな水風船を鷲に向かって投げる。サザンカはそれを破ることなくつかみ、敵に急降下。そのときに鳥は風船を割った。

 逃亡者は逃れようとするも失敗し、中にあった液体は彼の目に入る。


「ああああああああッ!!」


 相手は痛みに叫び、地面を転がる。カメリアはなんとかその場所までたどり着いた。


「痛い? 痛いよねぇッ……! だってその液ッ……イソトマとかトウダイグサ属の植物の毒を混ぜて作ったものだもんッ……! でも痛いのは私もなんだよ! どうにかして……この頭痛を止めてッ……!」


「そんなことするかッ……」


 立ちあがろうとしながら、青年は答える。


「お前らはッ……どうせ俺を殺しにきたんだろう……! 血縁者と名乗ってきた……神の僕のようにッ……」


「論理的な考えはどうしたの……?! もし私が本当にあんたを殺したかったらッ、もっと強い毒を使っていたよッ……! さっさと解除してッ!」


 しばらく言い合いをしていた二人だったが、青年がとうとう最後に折れたことで、不毛な戦いは終わった。

 相手は近くに大きな鳥がいて自分が逃げ出すのをじっと待ち構えていることに気がついていたのである。それに思考を読むことで、相手が嘘をついてないことを理解したのだ。


 ヴァンダイクがパチンと指を鳴らすと、一瞬でカメリアの視界のノイズが消え去った。


「はぁ……」


 痛みによる疲れでため息をついてから、少女は短剣を取り出し、自分の手のひらにぐさりと刺す。こっちも結構痛いが、どうせ数秒で治る。

 垂れてきた血を青年の目に少し垂らせば、たちまち彼も回復する。


「早く行こう。デルマーが心配だよ……」


 カメリアは立ち上がり、自分の服についた砂埃を払った。

 のろのろ歩いていたが、自分たちが転がり込んだ庭の主人が怒って、罵倒とともにフライパンをなげてきたので、慌てて逃げるほかなかった。



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