第82話 彷徨う蝶
ヴィリアミが家から逃亡することに成功したのは夏であった。彼はただ母親に見つからないよう、できるだけ遠く、走れるだけ走った。
気が付いたら知らない街にいた。お腹が空いてしまい、ぐぅと虫が鳴る。店はあるが、盗みはいけないことであると、読んだ本から少年はわかっていた。
行くあてのないヴィリアミは、ただただ歩き続けた。かなり歩いたとき、建物の影に土が集まった場所があったので、そこに座り込む。自身の能力を使って、イチゴを生やし、それをひたすら食べた。
ときたま酔っ払いや麻薬中毒者の若者が、ふらっとヴィルのところへ来ることがあった。だいたいいちゃもんをつけて、殴りかかってくるのだが、ヴィルが大地や水の魔力を使うと悲鳴をあげて逃げていくのであった。ヴィルは彼らの走っていく後姿を、毎度冷たく睨みつけた。
噂が広がったのか、ある日安保隊が来てしまった。ピストルを突き付けられたとき、ヴィルはなにをすべきかわからなかった。ピストルのこともよく知らなかった。フィンランド内では、安保隊が率先してペストを殺すことはなかった。周りの北欧諸国より法律が緩かった。
結局その兵士も小さな少年を殺すことはできなかった。彼女は銃を下ろし、ヴィルに話しかけた。
「坊や、なんでこんなところにいるの? お母さんは?」
ヴィルは頭を横に振った。兵士はだいたいを察したようだった。
「そっか……。でも駄目よ、こんなところにいちゃ。危なすぎる」
ヴィルは少し不信な眼差しで、兵士を黙って見つめた。
「私と一緒に来る?」
彼女が腕を伸ばしたとき、その姿が部屋に自分を放り込んだ母親と重なった。また閉じ込められるのではないかと警戒してしまい、ヴィルは一目散に逃げだしてしまった。
結局、彼は一人でふらつき続けることとなった。北欧の短い夏は終わり、冬が来た。ヴィルは雪が降るような寒い日でも、凍えることはなかった。水の能力のおかげである。しかし、問題が起きた。食べ物のことだ。
今まで、ヴィルは自分の大地の能力を使って、さまざまな食料になりそうなものを生やして食べていた。だが、冬にそれはできない。寒いところでは植物は、相当エネルギーを使わないと成長させることができない。まだ幼かったヴィルには難しいことであった。水は飲んでいたが、体の限界はすぐに来た。空腹でヴィルは倒れてしまった。雪が積もった地面の上で、彼はただ目を閉じた。
次に目を開けたとき、ヴィリアミは家にいた。知らないアパートの一室だ。少年は体を動かそうとしたが、うまくいかなかった。ぼんやりと部屋全体を見回すと、年取った老人が、鮮やかな布がかぶせてあるソファに座り込んでタバコをふかしている姿を見つけた。
老人はヴィルが起きたことに気が付き、彼に近づいてしゃがんだ。
「大丈夫か」
声は年寄らしく、しわがれていた。
「だ、れ……」
ヴィルは懸命に口を動かして、弱々しい声で尋ねた。
「ただのそこらへんの爺さんだ。お前さんが雪の中で寝てたから拾ってきた。両親はどこだ?」
この人生で大人に会うたび、そんな質問をされてきた。返事はいつも同じ。頭を横に振るだけ。
「そうか……」
老人はわずかに目を細めた。
「家がないなら、お前はどうやって生きてきた?」
立ち上がって、夕食の残りであるスープを皿に入れながら、老人は尋ねた。
「別に、そこら辺で寝てた」
部屋で監禁されていた間、誰かとコミュニケーションをとる機会は全くなかったが、外に出るうちに少しずつ覚えていった。
「食べ物は?」
「植物を生やして食べてた」
「植物……?」
老人は疑わし気に少年を見つめ、ヴィルの目の前に皿を置いた。
「? 手をこうやって動かしたら生えてくるでしょ」
ヴィルが手をくるりと回すと、木のテーブルから小さな芽が出た。
「ほう、なるほど、なるほど……。能力者か……」
老人は何かに納得したように、ゆっくりと頷いた。
「能力者って何?」
「特別な能力を使える人のことだ。植物を生やすことなんて普通の人間にはできない。そういう人たちは危険だと言われている」
「ああ……だからいつも大人たちが追いかけてくるのか。で、ジジイも俺を通報するつもりなのか?」
ヴィルの言葉遣いは数か月路上で生活しているうちに、すっかり汚くなってしまった。
「しない。ガキを殺す趣味は俺にはない。そもそも俺の子供時代は能力者なんて当たり前だった。今じゃあ人々は、能力者を『ペスト』という差別用語で呼んで、兵士が殺す。狂ってやがる……」
老人はしかめっ面で言った。
「そうなの?」
「そうだ。なぜ昔正常だったことが今じゃおかしい? 確かに、やりすぎなこともあったが、まるっきり全てがおかしいということはないだろう。今の人間は極端すぎる」
「ふぅん……」
老人は知らない。数年後、この事態はもっと悪化することを。ペストが起こした襲撃のせいで、世の中はさらにペストを警戒することとなる。
「とりあえずだ、ガキ。お前はここにいろ。路上よりは温かい。飯もくれてやる」
ヴィルは戸惑った。大人の女性には、母親のせいでトラウマがあったが、男は初めてだ。父親を知らないから。
老人はそれを察したようだった。
「嫌なら別にいい……が、たまにはここにいて飯でも食いに来な」
ヴィルは小さく頷いた。
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