第81話 捨てられた蝶

 とある冬の日、ヴィリアミは一人、ニューヨークの窓から雪が降るのを見つめていた。さんさんと落ちていく白い綿は、かつてのフィンランドでの暮らしを思い出した。

 そんなに甘いものではない。自分は行く先もなく、たださまよっていたからだ。白銀の中をずっと。そもそもなんでそんなことになったのか。ヴィリアミはふと目を閉じて思い出してみることにした。




 フィンランドの首都、ヘルシンキは石でできた建物がコンパクトに並んでいる美しい街だ。大聖堂や寺院は厳かな雰囲気がまとい、道路では路面電車が走っている。面しているフィンランド湾には、夜の建物の光が水面に映る。


 ヴィリアミが暮らしていたのは、そんな街の中心部から少し離れたところだった。母親と二人暮らし。兄弟はいなかった。父親の顔も知らない。ほんの小さいころに、一度だけ自分の母親に父のことを尋ねたことはあるが、彼女はただ怖がったような顔で首を振っただけだった。

 ヴィルは母親に似ていた。同じ色の髪と同じ形の目をしていた。二人の小さな家族は豊かではないが、静かで平和に過ごしていた。


 そんな彼らの間に変化が起こったのは、ヴィリアミが6歳のときだった。

 ポットをひっくり返してしまったのだ。熱湯を全身に浴びた小さな少年は泣き叫んだ。母親はすぐに救急車を呼ぼうとした。だが、そこで異変が起こったのだ。

 熱湯で火傷したヴィリアミの肌が急に治ったのだ。それも速いスピードで。みるみるうちにぼろぼろだった肌が、生まれたての赤ん坊のような、綺麗なものとなった。ヴィルはこれで母親に迷惑にならないと思って、にこやかに微笑んで見せた。


 だが母親の反応は、幼い少年には残酷すぎた。彼女はまるでトラウマを思い出したかのように悲鳴を上げ、自分の子供を一室に放り投げて閉じ込めた。ヴィリアミはそこで二年間、監禁されることとなった。


 部屋にあるのはトイレ代わりのボウル、古ぼけた布団と、少しのおもちゃと本。母親は絶対に、部屋に長居せず、ヴィルにも話しかけなかった。ただ一日に三回、新しい水と食べ物を与える、そしてボウルを替えるだけであった。


 ヴィリアミは孤独だった。誰も話す相手がいなかった。外界との接触も、母親が持ってくる食料と小さな高いところにある窓のみだった。ヴィリアミは一日をぼんやりしてすごした。やることはなかった。おもちゃは遊びすぎて、ぼろぼろになった。本は数百回読み直したので、もう飽きてしまった。


 ただ部屋の景色はよく変わった。床からは少しずついろいろな植物が生え、天井は氷柱の巣窟となった。幼い少年にはそれがなにを意味するのかはわからなかった。


 二年、そこで過ごしたヴィリアミは、もともと頭良かったこともあり、少しずつ能力の使い方を学んでいった。

 そして彼は決心したのだ。外へ出ることを。


 ある日の夜、母親が寝たのを音で確認したヴィリアミは、高い場所にあり、手が届かなかった窓を、器用に植物を動かして引っ掛けた。窓は開いて、少し音を立てた。母親が気がついたのではないかと、少年は危惧して息をひそめたが、動いた気配はなかった。

 ヴィルは安心して、ふちによじ登った。冷たい風が吹き込んだが、ヴィリアミは震えなかった。代わりに瞳が青く輝いた。下を見ると一本の木があった。


 そこだ。ここに降りれば。


 次の瞬間、少年は窓から飛び降り、木にしがみついた。少し枝に引っかかれて顔が傷ついたが、すぐにそれは再生して綺麗になった。

 ヴィリアミはしばらくの間そこでじっとしていたが、誰も来ないことを確認し、ゆっくりと木から降りた。そして、すぐに自分の家からできるだけ離れられるように、夜の街に向かって駆け出した。


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