第62話 出発の日

 マダーに連絡がやっとつき、「今はとても忙しいが一回だけの『移動』なら時間がある」と返信が来た。一体彼女が向こうで何をやっているのかもよくわからないが、きっと緊迫した状況なのだろう。


 キャサリンはアリシアに手伝ってもらって、そこそこ大きいリュックサックに荷物を詰め込み、修行の準備をした。一応、クリスマス前までに帰ってくるのが計画だ。学校の授業はまだあるが、いろいろ言い訳して休みをもらう予定だ。


「そろそろマダーが来るはずよ。リビングにいてね」


 日向の言葉に従い、キャサリンはソファの上に座って静かに待った。

 緊張して鳴る心臓の音が聞こえるような気がした。初めて長い期間この隠れ家から出るのだ。それに知らない人と。ペストという孤独な生き物になってから、キャサリンにとってここが唯一の彼女の居場所であった。


「大丈夫か?」


 そのとき声をかけてきたのは翔。金色の長い髪はあいかわらずさらさらしている。彼はそのまま隣に座った。


「う、うん。ちょっと緊張してるだけ」


 じっと見つめられているような気がして、キャサリンはどぎまぎする。なぜだか彼の顔が直接見れない。恥ずかしい……。彼女はいますぐ逃げ出したい気分になった。


「俺もクリスマス前に取るつもりだ」


「……なにを?」


「免許」


 そうだ、アメリカでは16歳から車とバイクの免許が取れるんだ。バイクに乗った翔を想像してぽーっとしていると、ふと彼の手が伸びてきてキャサリンの髪の一房に触れた。少女は固まった。彼女は顔に血が昇るのを感じた。きっとトマトよりも赤くなっているだろう。


「な……に……?」


 キャサリンは壊れたヴァイオリンのような声で言った。


「いや、なんだろう……ふわふわだなって」


 しれっとその言葉を口から発すると、翔はまつげが長い美しいアクアマリン色の瞳を彼女に向けて、ふっと口角をあげた。笑ったのだ。


 あ、もう無理。


 限界をこえたのか、キャサリンの首は突然かくんと居眠りしたときのように落ちてしまった。


「え、キャサリン?」


 翔は彼女をゆさぶったが、少女はしばらく起きなかった。あとでやってきたヴィリアミが、キャサリンに対し慌てている後輩を見かけてぼそっと呟いた。


「なにやってんだ、あいつ……」


 ちなみに日向の助けでキャサリンは回復したが、翔を自分の半径二メートル以内には入れようとしなかった。





 引き続き、ソファの上で待っていると、突然部屋の真ん中で風が起こり、黒い衣装を着た女の人が現れる。マダーだ。


「時間がないわ、はやくいきましょう」


 マダーはキャサリンの手を取って、移動を始める。キャサリンが最後に見たのは日向たちの手を振る姿だった。景色が水ににじんだ絵具のようにぐにゃぐにゃになっていったと思ったら、それは真っ白なものに生まれ変わっていった。それが形をなしたとき、絶えることのない吹雪の音が聞こえた。


「ついたわよ。雪と、氷の大地」


 マダーは静かに言った。単語の一つ一つを話すたびに彼女の口から白い息が出た。


「オクサーナは……あ、いたわ」


「マダー様」


 穏やかな声が後ろからした。見ると、明るい色の金髪を一本の長いみつあみにした女性が立っていた。目はキャサリン以上に薄い水色。光のあたり方で、ときたま灰色に見えた。オクサーナの隣には、キャサリンより幼い少女が立っている。なぜか、キャサリンにはその少女の顔がどこか虚ろで空っぽに見えた。


「じゃあお世話を頼むわ、オクサーナ。私はもう行くから」


「はい、わざわざありがとうございます。マダー様」


 オクサーナはゆっくりとした口調でお礼を言うと、マダーは白い吹雪に飲み込まれるようにして消えていった。


「さて、あなたがキャサリンっていうのねぇ。私はオクサーナ・ペトロブナ。よろしくねぇ」


 女性は優しい笑顔で挨拶した。

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