波涛
30
冬の空は空気が澄んでいて星が綺麗だ。特に三ツ星ベルトは神が創り出したかのように正確な直線を描いている。朱に輝く平家星、それと対照的な蒼の源氏星は肉眼だと近いように見えるが、実際は気が遠くなるほど離れていて、宇宙の神秘に圧倒されるばかりだ。
俺が今ベランダからぼぅっと眺めている平家星は室町時代を見守り、源氏星は更に昔の平安後期、そして鎌倉時代を慈しんでいたらしい。短い生涯で自らこの世を去った彼も、夜空に浮かぶ星座を眺めながら物思いに耽ったのだろうか。
いつか俺も、東北の彼の地で同じ空を見上げたい。
夕方まで雨が降ったり止んだりしていたけれど、夜半の今は嘘のように雲一つない空が広がっている。
弓張月は明るいが満月よりはまだマシだ。こうやって月を背にして立てば、都会の空でも二等星までなら直ぐに見つけ出せるから。
今日は何故だか一日がとても長く感じた。寧ろ今までが忙しすぎたのかもしれないな。新年早々、新たな出会いと深まる交友関係、そして始動したプロジェクト。曲作りや今後の展開を考えている
ここ数週間、ゆっくりした時間の流れは大いに仕事を捗らせてくれた。おかげで曲の修正やアレンジ、アルバムに入れる曲の順番も何パターンか出来上がった。
両手で持ったマグには熱々の緑茶が入っている。外に出るから、とわざわざ沸騰した湯で淹れたはずだが、もう温くなってしまった。そろそろ室内に入った方が良いかもしれない。これじゃホッカイロの役目は果たせそうにない。
シルバーフレームのサッシを跨いでリビングに足を踏み入れると、事前に暖房の温度を高くしていたおかげで部屋中が暖まっていた。ふと頬を触ってみたら冷蔵庫の中以上に冷たくなっていて驚く。急に尿意を感じ、マグはテーブルに置いてトイレへ早足で直行。背後でスマホが鳴ったけれど、振り返る余裕は無い。
用を足して戻ってくると、不在着信を告げるランプが点滅している。何となくチェックする気になれなくて、まずは温くなったマグをレンジに入れて温めなおす。そのあいだにテレビを点けた。気になる番組は無かったので、録画フォルダから未視聴のタグを選択して適当に流す。今回は『世界のオルゴール・イギリス』という自分でも何故録画したのか謎な番組。きっと疲れてたんだな。
軽快なメロディと共にレンジが止まる。ぼーっとしていた俺はゆっくりした歩調でキッチンへと向かう。
「あっつ……!」
レンジから取り出そうと何も考えずにマグに触れたら、あまりの熱さに声が出た。少し赤くなってしまった人差し指を、重い溜息を吐きながら流水で冷やす。感覚が麻痺していくが、これも自業自得だとつけっぱなしのテレビに目を遣って意識を逸らす。
アンティーク店で見つけたオルゴールや貴族が所有していた白磁のオルゴールなど様々なものが映し出され、その音色は確かに心を癒すものだと感心する。ボカロのように色々な音を重ねるわけでもなく、オーケストラのように楽器ごとに役割があるわけでもない。同じ音色が一定のテンポと強さで淡々と紡いでいく。それなのに哀愁が漂っていて、どこか不気味だと感じてしまう。古くから愛されている理由が少しだけ理解できた気がした。
冷たさすら感じなくなったところで水を止める。まだ少し赤いけれど医者に行くほどでも、薬をつけるほどでもない。
タオルで水気を拭ってから、用心してマグを掴んだ。まだ熱かったので念のため同じタオルでマグを包む。溢さないように気を付けながらソファに向かうと、丁度良いタイミングでスマホが一回だけ震えた。
「なんか疲れたな……」
背もたれに寄り掛かってテレビの音声を聞きながらも、目線は画面ではなく天井に埋め込まれたライトの方向。
埋め込み式って埃が溜まらないから良いよな、なんて何にもならないことを考えつつスマホに手を伸ばす。
『明後日のやつ、行く?』
たった一行、画面にポンと表示されているメッセージ。
「……何の話?」
思わず声に出してしまった。あいつ報連相できない人間じゃなかったはずだけど。
不在着信は五件も入っていた。その全てが同じであり、このメッセージを送りつけてきた相手。
『どこ?何?』
疑問をそのまま文章にして送り返す。きっとまた電話が掛かってくるだろうから、その時確認すればいいか。俺からは絶対にしてやらない。
『――♪』
そう考える間もなく、すぐに掛かってきた電話。俺はまた軽く息を吐いて画面をタップする。
「……はい」
『やっと出たー。フユちゃん遅いよー』
「……はぁ……」
『えええ、俺溜息吐かれちゃってんの?超ウケるんだけどー』
「全然ウケねぇし、何?イベント?俺知らないし話聞いてないけど、そんなの身内であったか?」
身内というのは同じ事務所に所属しているグループや個人やのこと。交友関係を広げる名目や慰労会など事務所内でイベントが開催されるときや、所属している誰かのイベントなどは全て事務所関係者専用アプリのカレンダーに載っている。
昨日はSNS配信サイトで人気のグループが大きい会場でライブをしていたようだけど、明日は何もなかったはずだ。俺だって一応所属をしているわけだから、スケジュールに目を通している。
『ウチじゃなくてさぁ、偵察みたいなー?』
「は?」
『ノートさんも行くって言ってた』
「は?マジで何も聞いてない」
『マジー?あ、でもフユも誘っといてって言われたからぁ、俺が言うべきだったのかもー』
「かもじゃなくて、絶対そうだろ。つーか何で今日そんなにふにゃふにゃした喋り方してんの?酔ってる?」
いつも以上に間延びした口調の風上は、電話越しでも分かるほど機嫌が良さそうだ。周囲の雑音が聞こえないから家の中だろうけど、あははーと意味もなく急に笑い出すから、つい目が遠くなる。
『んーとねぇ、ウォッカがここにある』
「せめて割って飲めよ」
『ゼウス美味しい』
「なんで酒を酒で割るんだよ……」
そう突っ込みながら、ゴロンと寝そべってソファの端に放置していたタブレットに手を伸ばした。うつ伏せのまま検索エンジンを画面に出す。
「何のイベント?」
『にゅーおーそりてぃ』
「あぁ、あの事務所のか」
『そー』
風上の口からイベント名を聞いた瞬間、検索する気を失ってウィンドウを速攻閉じる。タブレットをスリープさせて、テーブルの上に置く。
この界隈にいる人間なら絶対知っているビッグイベント。ネットアイドルや歌い手、配信者や動画投稿者などが所属している大手事務所が主催していて、出演者は所属している人たちのみ。場所は有名なアーティストもライブをする大きいホールだ。毎年この時期行われているのに、すっかり忘れていた。
『フユちゃんも行こ』
「まぁ良いけど」
このイベント最大の特徴は、ライブで歌われる曲が全てボカロ曲であること。その中にはノートが作った曲もあるし、勿論フユのものだってある。今年はどの曲が歌われるのか、作曲者としては気になるところ。どんなライブでも絶対に歌われる王道なボカロ曲もあるが、中には懐かしいなぁと思うものもあったりと、俺みたいな裏の人間でも楽しめる。
『現地集合でよろー』
「明日また詳しいことメッセで送って」
『おけー。おやすみー』
「……なんであいつは零時超えてから連絡してくんのかな。つーか明後日じゃなくてもう『明日』になってんじゃん」
通話が切れたスマホを見て苦笑する。いつの間にかオルゴールの番組は終わっていた。停止ボタンを押してチャンネルはニュースにしておく。可愛い系のお天気キャスターが白いダッフルコートを着ながらテレビ局の前で言っている内容によれば、今週の天気はずっと晴れて三月上旬並みの日もあるのだとか。
今日くらいはゆっくり休めて良かった、と思いながら寝室へ行きベッドにダイブ。朝起きる時間にアラームをセットして、スマホに充電器を差す。
久々に会う彼の顔を頭に浮かべると、胸が弾んで無意識に頬が緩む。まるで恋愛経験が浅い中学生だな、そう自分自身に呆れながら瞳を閉じる。
さっさと朝になれ――そう念じながら意識が暗転していく感覚に身を委ねた。
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