29
寝室に入ってすぐ目に飛び込んできたのは、思いも寄らず置き去りにされてしまった青のマグカップ。キーボードの隣に放置されて氷のように冷たくなっていた。きちんと被せたはずのティッシュは床に落ちていて、濁った焦げ茶の液体に細かい埃がいくつも浮いている。
これではもう飲めない。残念だが捨てるしかないな。俺は小さく溜息を吐いて、マグをキッチンまで持っていく。
「なぁこれ電源入れちゃって良いかんじー?スリープじゃないよなー?」
「スリープじゃないんで電源入れちゃってください」
いくら遮音シートや吸音材を壁につけているとはいえ、あまり大きな声は出さないでほしい。そう思ってキッチンから寝室を睨んでみたが、ノートの姿はちょうど死角になっていて見えなかった。
勿体ないと思いながらもシンクの排水口にコーヒーを流し、その後で軽く濯ぐ。この一手間で着色汚れが防げるのだから、面倒だけど価値はある。
寝室に戻ると起動されたパソコンが暗闇の中で淡く光っていた。モニターの白が眩しすぎて目が痛い。
「電気くらい点けて下さいよ」
扉の近くにあるスイッチをパチンと押した。天井に埋め込まれたLEDが煌々と部屋中を照らす。
寝室は白熱灯か蛍光灯の二大派閥に分かれるが、仕事部屋を兼ねている俺は当たり前のように蛍光灯をチョイスしている。
「CDに入れる予定のやつ聞かせてー」
「あー……今のところ五曲ありますけど、どれ聞きたいですか?」
「んーフユっぽいやつ」
「作ったの全部俺なんですけど」
そう言いつつも、フユっぽいと言われた時点で彼に聞かせる曲は決まっていた。
「これですかね」
「おお……確かにフユっぽい」
「それどういう意味っすか」
「いや、勢いマジやばくね?ていうか相変わらずかっけぇな」
狂った高笑いと怒りに身を任せた怒鳴り声。今は機械少女の音だが、次に歌うのはアイだ。今までボーカロイドだけを追い求めていた俺が、人間が歌う瞬間を楽しみにしている――何度考えても、心境の変化が著しい。
ロックで使われるようなベースラインは重低音で
見据えたのは二次元から三次元への飛翔。いつか大きい舞台でライブをするときに、生音でも映える曲を作りたかった。
「これがアルバムのメイン最有力候補ですかね」
「めちゃくちゃ良いじゃん。でもアイ君がこれ歌うって想像つかねーんだけど」
ノートは自分のスマホをポチポチ弄っている。何をしているのかと眺めていたら、動画投稿サイトのアイのページを出してきた。
動画一覧を見ると、最新のものから順番に並んでいる。ちなみにその九十%はフユが作った曲。残りの十%はボカロ曲ではなく単純にアイが歌いたいと思ったJ-POPや洋楽など。俺以外のボカロ曲を歌っていないあたり、アイのフユに対する執着が垣間見えて嬉しいのと、それで良いのかと苦笑する気持ちと半々だ。
俺はノートのスマホを勝手にスワイプして、とあるサムネイルを人差し指でトンと押す。短い広告動画は有料会員だと表示されない。すぐにイントロが流れ出し、勢いよく飛ばしていくロックサウンドはテンポが速い。
「アイ君っていえばさぁ、ファルセットの印象強くね?フユよりも俺の曲に合うイメージなんだけど、その辺実際どう?」
「うーん、あいつ原キーで歌ってばっかりだから高音のイメージついてますけど、実際はミドルボイスも綺麗に出せるし、唸ったり吠えたりロックっぽい曲も好きだって言ってたんで意外にオールラウンダーじゃないですか?」
「振り幅やば」
動画の中でアイが歌っているのは海外バンドの曲。今でもテレビのエンディングテーマに使用されたりCMで流れてきたりと有名な、誰しもどこかで一度は聞いたことがあるはずの歌。本家のボーカルとは全く違う声質と声色で、合っているのはキーだけ。それでもアイは自分の曲のように歌いこなしていた。
「俺どういう曲にしよっかなー。被りたくないし、ある程度アルバムに入れる曲決まったら教えてよ」
「了解っす。ていうか俺もそれは知りたいんで、ノートさんの方も教えて下さいね」
「おけー」
一番のサビが終わったあたりでノートは動画を一時停止した。画面はアイの手元だけがアップで映っている。モノクロで編集されているため本来の肌や服の色は分からない仕様になっているが、細い手首を飾る二重のブレスレットや長い指に嵌められた幾つかの指輪とその先を彩るマニキュアが妙に艶めかしい。顔は見えないものの、中性的な雰囲気を強く醸し出している。
俺は動画の中のアイを見ながら、頭の中で腕に抱いたときの藍斗を無意識に比べていた。俺と会うときはピアス以外の装飾品は無く、爪も自然なピンク色。きっとこれは動画用に着飾ったんだろうなと予想してつい頬が緩む。
「何でニヤついてんの。絶対やらしいこと考えてんだろ」
「まぁ想像にお任せしますけど」
「おい」
じとりと睨まれたが飄々と返した。さすがにそういう妄想は自分一人のときにする。
「そういえば提案あるんですけど」
「ん?」
「俺とノートさんの名前ちょっと捻りません?」
「リスナーに分からないようにするってこと?」
「そうっす」
「あーそれ面白いね。匂わせ発言もしない感じ?」
「はい。敢えて何も触れないで放置しとこうかな、と。正直今の界隈ってプロデューサー同士で絡むこと無いし、リスナーが色々考察とかしてんの高みの見物でも良いかなって」
そう言ってマグを持って立ち上がると、ノートを誘ってリビングに戻る。エアコンの位置関係でどうしようもないが、やはり寝室は暖まりにくい。仕事のときは電気ヒーターをつけるが、今回は曲を聞かせるだけだったのでつけなかった。
「なるほどね。フユに従うわ。俺たちが裏で仲良いのを、わざわざ表に出す必要は無いしな」
俺はソファに座ってコーヒーを飲みながら、ノートは電源が落ちた自分のパソコンをソフトケースに入れながら、会話を続けていく。
「まぁ仮に表に出すってなったら、もっとコラボとか話題性のあることしてからじゃないとつまんないっすね」
「マジでそれ。四天王って言われてるけど表じゃ絡まないし、他の奴等がどう交流してるかなんて知らねぇけど、周りを驚かせたいってのはある。ていうかしようぜ」
「俺とノートさんで?」
カーペットの上で胡坐をかいているノートを見遣ると、タイミングよく俺の方を振り返った彼と視線が交差した。その不敵な笑みが全てを物語っていた。
「まぁ俺等二人でも良いけど、フユならアイ君、俺ならあの二人を巻き込むのもアリだな」
「フユは顔出しNGなんで、表舞台に立つ連中引き摺ってこないといけないっすね」
「ノートもNGな。あー……今一月だろ?春くらいに俺の本出るし、ライブとかイベント出来ねぇかなー。フユのアルバムはいつ予定?」
「こっちは今のところ三月後半予定ですかね。俺の曲はあと微調整くらいなんで、正直ノートさん次第ですけど。あ、今一応音源と入れる予定のリスト渡しておきますか?」
ちらっと寝室の方を見ながら言うと、ノートは首を緩く振った。
「あー……明日俺が帰ったあとでいいよ。ファイル俺の方に送っておいてー。で、俺も家着いたらすぐお前に送るわ」
その後に続く大きな欠伸。気付けばあと少しで日付が変わるかというくらい長々と話し込んでしまった。
「シャワーで良いですか?」
「おーありがと」
ノートがシャワーを浴びているあいだに布団を敷くため寝室に移動する。電気ヒーターのスイッチは勿論オン。未開封のシーツと枕カバーをできるだけ皺が寄らないよう丁寧にセットして、毛布と羽毛布団も用意した。これで早朝の寒さにも耐えられるだろう。
ただ布団を敷くだけなのに胸が躍っている。楽しい、そう沸き立つ気持ちが表情に出てしまう。緩みそうな頬をパチンと叩いて、冷静になれよと苦笑する。
お泊り会。なんて魅力的な響きだろう。このあと俺がシャワーを浴びて、ノートがもしそんな俺を待っていてくれたなら、これからの話をしたい。
同業者にしか出来ない話。同じ位置に立っているからこそ出来る話。
たくさんの未来を語りたい。互いに将来の展望を聞き合うのだって楽しいかもしれない。
「上がったー。いま風呂場暖まってるし入ってきたら?」
「じゃ早めに行ってきますね」
「ちゃんと温まれよ。俺待っててやるからさ、寝るときゆっくり話しようぜー」
「……はい」
サラサラな髪をガシガシとタオルで擦っている雑な動きはノートの容姿に似合わないけれど、そんな飾らないところも彼の魅力。
今日で俺たち二人の距離は信じられないくらいに近付いた。
きっと今年は良い一年になる、そんな確信があった。
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