28

「お前の部屋来んの久々だなー。相変わらずモデルルームじゃん。コレどうやって維持してんの?」


 すりガラスの引き戸を開けてリビングに入ると、ノートは慣れた様子で二つの鞄をソファの横に置いた。そのまま部屋を見回して笑いながらソファに座る。スマホはテーブルの上に置き、薄い方の鞄からノートパソコンを取り出した。


「んー……掃除ロボットに仕事させてるくらいですかね」

「いやそれは俺も同じなんだわ」


 俺としては真面目に答えたつもりだったが、真顔で打ち返され敢え無く撃沈した。

 ノートがパソコンを立ち上げているあいだに、俺はいつものように電気ケトルで湯を沸かす。今回用意するのは『カドテアズール』。コーヒー好きな彼がうるさいほど俺に紹介してきたのがこの銘柄。ブラジルのブルーマウンテンと呼ばれるほどのコーヒーだから、本来は豆から挽くべきだろうが今回ばかりはドリップで我慢してもらおう。


「超良い匂いじゃん!まさかそれカドテアズール?」

「え、何で分かったんですか」

「だって俺そのパッケージ知ってるし。てか持ってる」

「……今の反応、匂いで分かったのかと思ったんですけど」

「んなまさか。犬かよ」


 ドリップで申し訳ないと思った自分が馬鹿だった。彼もドリップ派なら堂々とカップに注いでやろう。


「パソコン立ち上がりました?」

「完璧。いつでも曲流せるぜー」


 ゆっくり湯を注ぐと、周囲にフルシティローストの深くコクがある香りがふわっと広がる。鼻孔から吸うと香りが脳に到達し、そのまま目を瞑ればリラックス効果抜群だ。

 ノートには緑色のマグをチョイスした。俺の青と藍斗の赤、そしてあと二色余っているが、それはまだパントリーの片隅で寝かせておく。

 今回は互いの曲を聴かせ合うだけなのでWi-Fiは必要ない。それなのにノートはテレビ横のルーターからしっかりとIDとパスワードをチェックして繋いでいた。


「どうぞ」

「サンキュ」


 ソファに二人並んで座り、パソコン画面を一緒に覗く。見慣れたフォルダが数個と、二つの音楽ファイル。ノートはそのうちの一つをクリックした。


「この後また弄るかもだけど」


 そう言うと同時に流れてきたのはピアノの音、そしてその旋律に重なる鼓動ビート。パン!と静寂を切り裂くスタート音は競技場の緊張感を思い出させる。

 コンマ一秒を掛けた試合は死闘。己に勝てぬ者は誰にも勝てない。孤独と向き合い自己を高めていく孤高の選手たち。

 目を瞑ると記憶に蘇る今夏の世界大会。四年に一度行われるアスリートたちの夢の祭典。

 その距離を走るのに、人間は十秒も掛からない。


 Aメロは苦悩と葛藤を率直に紡いでいる。バイオリンとヴィオラがメロディラインを切なくもしっかりと支えていた。

 サビ前の重要パートであるBメロでは、闇の中で動けない主人公に戦友ライバルが手を差し伸べる。一筋の光はか細いけれど、闇に染まらず前だけを照らしている。這いつくばってでも進んでやる――そんな心情をストリングスと共に壮大に奏でていく。ピアノと抜けの良いスネアドラムに動き回るベースライン。

 加速度が増してフルスピードで駆け抜けるサビは、疾走感に満ち溢れていた。最初に出てきたスタート音が裏で鳴る。

 全体的に音域が幅広く、これぞ正しくボーカロイドだと唸るほどの世界観。


「……めちゃくちゃ良いですね」

「お、マジ?」

「青春系だけど、あーなんて言うか……俺みたいな人間は、青春時代にきちんと部活しときゃ良かったなってきっと切なくなる。こんなにもキラキラした日々を過ごしてみたかったなって……そう思わせる曲ですね」

「なんか今日めちゃくちゃ褒めてくれるじゃん。……いやでもわかるよ。俺もそういう気持ちで作った部分はあるからさ」


 落ちサビからクライマックスに向かっていく過程も良かった。結果としてこの曲は学生に向ける応援歌なんだろうけど、それを全面に押し出していないところが好きだ。

 もう子どもじゃないんだから、と叱られ、大人でもないのに、と否定される中途半端な年齢。子どもでも大人でもないなら、一体自分は何なんだろう――そんなもどかしい気持ちを敢えて己に突き付けて苦悩する。全てを肯定して空を見上げ、歯を食いしばる姿はどんなモノよりも美しい。

 この曲には透き通った涙がよく似合う。そして天気は雲一つない真っ青な空がいい。晴れやかな笑顔だけは曇らないでいて、と天も願っているだろうから。


「名前決まってるんですか?」

「いや、まだかな。候補は幾つかあるんだけどしっくりきてなくてねー」

「なるほど」

「あ、こっちも聞いてよ」


 カチカチとクリックして今聞いていた曲を閉じる。そして新たにファイルを開く。俺は次の曲を待ちながら温くなったコーヒーを飲んだ。

 チェストの上に飾ってあるデジタル時計が白く発光している。今は二十二時四十五分。気付けば随分長い時間を彼と過ごしていた。

 昨晩凛子や風上とファミレスで長話をしてから、あまり寝ていない。ハードスケジュールだったせいか、身体は怠く重い。疲労が溜まっていると自覚している。しかし頭は冴えていた。


「これちょっとボーカロイドっぽくないかも」

「そうなんですか?」


 フユは好きじゃないかもなーと苦笑した彼が流した二曲目は、カノンコードというパッヘルベルのカノンで使われているコード進行が用いられていた。この進行が使われるときはアーティストごとに和音を変えたりアレンジをしていることが多いが、ノートの場合はカノンの雰囲気を僅かに残している。


「これって……」

「そ。曲名の通りだよ」

「そうですか」


 ファイル名は『Dear my princess』。歌詞は結婚式当日の花婿視点で綴られていた。使われている声は少女のものだったが、内容は幸せの絶頂にある青年の独白。チャペルの近くにいた通行人すらも新郎新婦から満ち溢れる幸せに微笑んでしまうほど、彼等は世界中の誰よりも幸せだった。

 俺はそんな幸福な歌を聞きながら、どこがフィクションでどれがノンフィクションなのかとボンヤリ考えてしまった。


「小説に絡んだ新曲でしたっけ?結構幅広いジャンルなんすね」

「似た話ばっかりってつまんないじゃん。短編詰め合わせだし、ジャンルこだわるのよくねぇなーって。まぁこだわりは全部ハピエンってことくらいかな」

「そこは曲げないんですね」

「うーん、これは俺の価値観になっちゃうんだけどさ。小説に限らず映画とか漫画とかドラマとかって、娯楽のカテゴリに部類されると思ってんの。だからさぁ、わざわざ娯楽でしんどい思いしたくないわけ。頭空っぽでいたいの。ただでさえ生きづらい世の中じゃん?だったら俺の本読むときくらいはなーんにも考えず幸せな気持ちになってくれたらって思うよ」


 アウトロが流れ終わったこの空間に響くのは、エアコンや加湿器の空調の音とノートがマウスをカチカチとクリックする音だけ。目線は画面にやったまま自分の想いを口にする彼の表情は只管に優しい。

 俺が作る曲はハッピーエンドばかりじゃないからノートの価値観とは異なっているけれど、彼の意見は痛いほど伝わった。


「で、どうよ?」

「どうよって言われても……良いんじゃないですか?」

「なんだそれ」


 ノートは笑いながらパソコンの電源を落とした。それに続いて俺はリモコンでテレビを点ける。見たい番組は無いがBGMとして取り合えず適当に流したい。相変わらずニュースの内容は不穏なものばかり。ザッピングした結果、芸能人が海外の有名リゾートを紹介している番組に落ち着いた。今が冬のせいか、エメラルドグリーンの海くらいは眺めていたい。


「ボーカロイドっぽくないって言ってましたけど、あの二人に歌ってもらうんだし別にそこは良いんじゃないですか。ボカロ曲としてアップするより、CDの方が先なんですよね?」

「まぁな。先に本が出て、そのあと反応見つつボカロ声で上げようかって感じ。一、いや二曲くらいかな」

「ふぅん。まぁノートさんの曲って元々色んなSNS界隈で使われてるし、そもそもボカロ曲だって未だに知らない人もいるだろうし……なんか心配する要素あります?」


 俺の視線はテレビに向きつつも、煮え切らない表情でスマホを見ているノートの様子が気にかかる。


「いやぁ、つい最近なんかの掲示板で叩かれてさぁ」

「はい?」

「今のノートってボカロっぽくないよね、だってさ」

「は」

「なんかJ-POPっぽくてボカロである意味分かんない、とかもあったなー」

「はぁ。え、それ気にしてるんですか?」

「いや、なんか刺さった」

「刺さったってことは自覚あったんですか?」

「んー……まぁ、わりと表で知られるようになって曲の依頼とか増えてから、俺の曲って守りに入っちゃってんじゃね?って思うときは何回かあったんだよね」


 横目でチラッとスマホの画面を覗いてみたら、とある掲示板のサイトが表示されていた。スレッドのタイトルは『ボカロ・四天王@NOTE』と安直すぎて失笑するほど低レベル。


「んー……そんな低俗なサイトに集まる奴等が吐いた言葉なんて、ノートさんが気にする必要あります?」

「ええ、急な毒舌来るじゃん……」

「だってそうでしょ。ていうかそもそもノートさんも自覚あるんなら攻めれば良い話じゃないすか」

「そんな単純な……」

「単純な話ですよ、こんなの。俺たちは自由に曲作って良い立場なんですよ。リスナーの意見?そんなの俺聞いたことないですけど。攻めたきゃ攻めりゃ良いし、守りたいときは守れば良い、ただそれだけですよ」

「うーん……お前の言葉が究極に刺さったわ」

「そりゃ良かったですね。はい、俺の勝ちです。じゃその能無しサイトさっさと閉じて俺の曲でも聞いてくださいよ」

「……そうする。やっぱお前好きだわ。うん、同業者でお前ほど好きな奴いねぇよ」

「はぁそれはありがとうございます。俺もノートさんのこと結構好きなんで両想いでしたね」


 そう言って俺が立ち上がると、ノートもテレビを消して一緒に立ち上がる。そのまま仕事部屋兼寝室に向かおうとすれば、後ろからマグを二個両手に持ちながらノートもついてきた。

 さて、どの曲から聞かせようか。

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