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「あ、そういえば話なんだけどさ」
思い立ったように話しかけてくるノートの声は明るい。彼が座っている左側に顔を向けようとしたが、両肩が安全バーでガッチリ留められていて首しか回らなかった。なんとかバーの隙間から覗くと、彼の顔には溢れんばかりの笑みが広がっている。
「い、いま、今言わないで下さいよ!」
あんなに気になっていた話だが、今そんなことに向き合っている場合じゃない。
話よりも重要なのは、現在進行形で空に向かっているということ。
これ、垂直じゃないか。そう思うほど重力が全身に掛かっている。背中が座席のシートにググッと押し付けられ、緊張で肺が苦しい。
そっと下を覗き込んでみる。見なきゃよかった、そうすぐに後悔した。
メインアトラクションというだけあって、下では順番待ちの人だけじゃなくその辺を歩いている人まで俺たちを見上げている。
気持ちは分かるよ。隣でジェットコースターが落ちそうになっていたら俺だって見るから。
「いやー思い出したからさぁ」
「無理!頭に入んないです!」
間延びした声が聞こえる。まだ話は続いていたのか。
俺の怒鳴り声にも近い叫びは、周囲の喧騒によって無残にもかき消された。
空がどんどん近付いてくる。目の前には絵の具を塗りたくった水色だけ。
ガタン。
ちょうど真上でコースターが一時停止。その場を静寂が包む。聞こえるのは五月蠅いほどの鼓動と自分の浅い呼吸音。
「いえーーーい!ひゃーっ!」
「ちょ!うっわ、あ無理、死ぬ死ぬ死んだ無理!」
「ぶはぁっ!死んでねぇから!」
「うわああああ!」
ガーッと鳴り響く機械音。
ギャーッと響き渡る絶叫。
「う、うわ!待って、これ、無理です、って!」
「待たねぇよ!」
フワリと臓物が浮き上がる感覚と、最高点からの落下で息が吸えない現象。
バーを掴む手は、あまりに力を入れ過ぎて指先が白くなっていた。
九十度近い傾斜を一気に駆け下りたかと思うと、また一気に上昇していく。今度はノンストップで三重の輪を旋回しながら下がっていく。地面スレスレを走り、次にショッピングモール四階付近に開いた穴までスピードを落とさぬまま昇っていく。
モールのバルコニーからは、俺たちに向かって手を振る家族連れが一組。申し訳ないが、手を振り返す余裕は無い。その代わりにノートが手を振っていた。
何度かアップダウンを繰り返し、次は一回転。勢いよく回ったため、一瞬の出来事だった。怖いと思う暇も無かった。覚えているのはバーを握りすぎて腱鞘炎になりそうだったことくらい。
ガガガッとブレーキがかかり、ある位置でピタッと止まった。ふうと深い息を吐く。これでようやく終わりだ。このままゆったりとしたスピードで最初のスタート位置に戻っていく。
おかえりなさーいと手を振ってくれる総勢五人のスタッフは、全員キラキラの笑顔で出迎えてくれた。
再度ふぅーと長い息を吐く。肺から二酸化炭素を出せるだけ出した、そんな感覚。手がバーを握ったまま固まっていて、すぐ離せないほど強張っている。
「え、大丈夫そ?」
ノートは俺の手に触れると、あまりの冷たさに驚いたようだ。
「ちょっと……休憩……したい、です」
「ん、そうした方がいいかも。じゃコーヒーカップにしとこ」
「……は?」
あまりの衝撃に、敬語という概念自体が俺の中から消え失せた。
ファンタジーエリアはその名の通り、おとぎの国に迷い込んだような造りになっていた。木々の間から妖精たちが顔を覗かせ、シュガーカラーの花弁はクリスタルを模したプラスチックで、透明度が高く陽光に反射して煌めいている。ちなみにシュガーカラーとは、そのままの意味で色付き砂糖のような色合いのこと。淡いピンクや水色や黄色は、パステルとも違う絶妙な色合いで、幻想的な空間に映えていた。
コーヒーカップはマッシュルームカップと名前を変え、大勢の子どもたちを楽しませている。大きなキノコ型の屋根のおかげで、仮に雨が降っても問題なく乗れるだろう。俺とノートはさすがに躊躇した。幼児がたくさんの場所に成人男性二人で乗り込むのは罰ゲームに等しい。特に俺の見た目は、家族連れからは敬遠されやすい。
結局マッシュルームカップとメリーゴーランドの間にあるベンチに腰を落ち着ける。日本語で回転木馬というけれど、この遊園地では回転しているのは馬ではなくユニコーンだった。さすが
「落ち着いた?」
ノートはメリーゴーランドで楽しむ子どもたちやカップに乗る赤ちゃんを見ながら俺に問いかける。優しい瞳で彼等を見つめるノートは、今誰を想っているんだろう。俺は数年前に一度会った、朗らかに笑う女性を思い出す。
「まぁ……。メリーゴーランド、乗ります?」
「いや、さすがに遠慮しとくわー。ただ、百合はメリーゴーランド好きだったよなって思い出してただけ。ま、乗るならあっちのウォーターコースターが良いかな!」
「……付き合いますよ。どうせここまで来たんだし」
「サンキュ」
付き合うと口にした俺を意外そうに見てきたが、ふっと柔らかい笑みを浮かべて礼を言われたから、今度は俺が居づらくてマッシュルームカップの方に目を遣る。
ジェットコースターから降りた後フラフラしながらも自販機で買ったミネラルウォーターはもう四分の一しか残っていない。コクコクと全て飲み干した。
「ほら、行きますよ」
「え?もうちょっと休んでも良いんだよ?」
「別に良いっすよ。折角プラン立てたんでしょ。俺の気が変わらないうちに行きますよ」
「……あぁ、そーだな。行くか」
俺たちは立ち上がって、またコースターエリアに戻る。空のペットボトルは途中のゴミ箱に捨てた。
数年前の今頃は、日本中が大雪で関東圏も記録的な積雪量だった。道路は積雪と事故でどこも渋滞だった。バスもタクシーもパトカーも、そして救急車でさえも渋滞から逃れることが出来なかった。
「今年は雪あんまり降んないねぇ」
ノートは雪だるまや雪の結晶のイルミネーションを横目にポツリと呟く。四時半になって辺りは薄暗くなってくる。あと三十分もすれば虹色に輝くことになるだろう。
「あの日も、今日みたいだったら良かったのにな」
小さい子どもたちが駆けていくところを優しく見つめるノートに返す言葉を、俺は持ち合わせていなかった。
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