楽才

18

 あれから凛子と風上と三人でダラダラ喋っていたら、いつの間にか日付が変わっていた。俺には決まった勤務時間なんてないけれど、さすがに遅くなり過ぎた。

 家に着いて直ぐにリビングのエアコンを点け、ソファに沈み込む。

 あぁ疲れた。そう呟いて、徐にリモコンでテレビのスイッチをオンにする。最初に映った通販番組はスルー。適当にチャンネルを変えていく。

 衛星放送でよくある異国を旅する番組。ヨーロッパ行きたいな、そう思いながら背もたれに寄り掛かって目を瞑る。

 あ、駄目だこれ。寝そう。

 そういえば、アイからメッセージ来てたっけ。返信しなくちゃな。

 重い身体をなんとか起こして、いつの間にかテーブルに置いていたスマホを手に取った。


『明日時間ある?』


 絵文字も顔文字もスタンプも何もないシンプルな文章。飾り気のないところは本人の見た目と真逆だ。

 メッセージを確認すれば、着信時間は数時間前。既読したまま放置してしまった。少しだけ申し訳なさを感じる。


『ある』


 たった二文字。これが今の俺の限界だ。この二文字を打つあいだにタップミスを三回はしている。眠すぎるのが悪い。


『じゃ行く』


 送信ボタンを押した瞬間、既読マークがついた。俺の返信を待っていたのか、それとも偶然か。


『いつ?』


 ふわぁ、と大きいあくびが出た。眦に涙が滲む。

 テレビは相変わらずヒーリングミュージックを流してくる。視線をやれば、誰もが名前を知っている世界遺産が映っていた。ドローンを駆使して空から撮っている。なんて絶景。こんな景色が見れるなんて、この城の建築家だって想像もできなかっただろう。

 人間は、今この瞬間さえも進化の過程なんだろうな。


『朝』

『何時?』


「……何時だよ……」


 藍斗の言葉がアバウトすぎてつい笑えた。もっと具体的に言ってほしい。


『八時』

『了解』


「はっや……」


 了承のメッセージを打ちながらも、口からはつい本音が漏れた。

 あとは返信が来ないだろう。会話の終了。俺はスマホをぽいっとソファに放って、もう一度目を瞑る。限界過ぎる。


「あー……でも風呂……風呂……風呂……入んないと……」


 頭が働いていない。思考停止。

 自分に言い聞かせるように呟く。動け動け。俺の身体、動け。


「あー……よし、起きよ……」


 襲い来る眠気と疲労と怠さ、全てに打ち勝って立ち上がる。

 頭がふらついて、ピアスの重さに耐え切れず重心が左に偏る。いつもはそこまで気にしないけれど、こうやって眠いときや体調が悪いときはピアスの方に頭が沈みそうになる。両方均等な重さならこうはならないだろうけど。今度藍斗にも聞いてみよう。なぁ、ピアスの方に頭が行くときない?って。あいつ絶対同意するだろうな。


「もうシャワーでいいや。無理。しんどい」


 脱衣所に向かう途中、キッチンカウンターの上に無造作に放置されていた入浴剤が目に入る。ファンからのプレゼントらしい。風上から渡されたとき、そう知らされた。

 透明のボトルに深紅色の大きい粒がたくさん入っている。光に反射してキラキラ輝いていた。


 子どものころ大事にしていたはずの宝箱を不意に思い出した。

 中身はなんだったかな。

 白くてスベスベした小石や、砂浜で見つけた翡翠色のシーグラス。

 可愛がっていたオカメインコの尾羽は換羽期にケージからそっと拾った。

 楽しい思い出を忘れたくなくて、全部宝箱にそっと仕舞い込んでいた。誰しもこういう時期があるだろう。あの頃の俺は、純粋で将来が希望に満ちたものだと疑わなかった。

 あの宝箱はどこにやっただろう。祖父母の家に持っていったのかすら覚えていない。当時の記憶は断片的にしか覚えていない。なんだか全てが悲しくなってくる。


 俺は黒くなりそうな思考を振り払うべく、ボトルを手に取って何気なくラベルを見る。白字にオシャレなレタリングで文字が綴られていた。

『ベルベット・ローズ』

 ふと彼を思い出した。ちょっと前の今頃はこの部屋で互いの体温を感じ合っていたけれど、今はなんだか肌寒い。


 エアコンの設定は二十五度。きっと部屋が寒いんじゃない。冷たい風が吹いているのは、俺の心だ。

 蓋を開けて、鼻を近付けた。ふわっと薔薇の香りが鼻孔を擽る。王道の匂い。なんでこんな女子力の高そうなものを俺に送ってきたんだろう。そう考えると可笑しくてなんだか笑えた。


「……やっぱりお湯溜めるか」


 今ここに彼はいないから、せめて色だけでも感じておきたい。

予め掃除済みの浴槽は、ボタン一つで湯が張れる。俺は心も体も温まるべく、風呂の用意をするために、ウォーキングクローゼットに向かう。


『――♪』


「え」


 寝室に一歩足を踏み入れたところで聞こえてきた着信音。思わず振り返って、スマホを凝視。藍斗か?


「え」


 このメロディはメッセージやメールじゃない。電話だ。

 俺はソファの上でずっと鳴り止まないスマホを鎮めるべく手に取った。

 画面に表示された名前に首を傾げつつも、取り敢えず『応答』をタップする。


『あ、フユ?わりー、寝てた?』


 スマホを耳に当てた瞬間、柔らかいテノールヴォイスが聞こえてきた。申し訳なさそうだが、いつもより少し早口で勢いがある。


「いや、まだですけど……まぁそろそろ風呂入ろうと思って……」


 そう言ったあたりで、俺の口から隠しきれない欠伸が出た。ふわあ。顎が外れるかと思った。


『おー、眠そ』

「そりゃそうですよ……こんな時間だし……で、なんすか」


 電話の相手は同じ業界で同じ立場、と言ったら良いか分からないが俺と同じくボーカロイドで作詞や作曲をしている仕事仲間――ノートだった。世間では『小説家兼音楽家』と紹介されているけれど、本人は断固として本業はボーカロイドプロデューサーだと言い張っている。謎のプライドがあるらしい。まぁ、分からなくもない。


 彼が俺にとってどんな立場かと言えば、友人というほど付き合いも無いが、仕事上ではなんとなく馬が合うなと思う相手。お互いフリーランスだからそうそう顔を合わせる機会もないけれど、それでも年に一回や二回は会っておくかと思える間柄だ。


 この業界において、何を以って先輩か後輩かになるか明確なものはない。学校やひと昔の会社なら年功序列、今の時代に沿った会社なら能力至上主義、その他色々あるだろう。でも俺たちの場合は、年齢、総視聴回数、動画をアップロードした日、チャンネルを開設した日、SNSの人気具合。少し挙げてみただけでこんなにも比較対象がある。それもあって、俺の場合は誰にでも敬語で話す。その方が楽だし、彼に対しても同じこと。


『いやー俺ちょっと良いこと思い付いてさ。忘れる前に言っておこうと思って』

「相変わらず行動派ですね……」


 電話越しでも分かるほど声色が明るい。ノートと前回会ったのは確か十一月だった。二カ月ほど前なのに、時系列で言えば去年のこと。

 早めの忘年会だな、と二人で居酒屋に行った。次に会うのは夏くらいかもなんて話したはずだが、何の用だろう。


『電話よりも直接話したいんだけどさ、いつ時間取れる?』

「あー……早い方が良いんですよね?」

『勿論』


 数分前に藍斗と交わした約束が頭を過る。藍斗と会いたいのは本心だし、メッセージの内容を見るに、彼も何か俺に用事があるんだろう。

 だけど、こっちの話も気になる。しかも『良いこと思い付いた』らしい。正直に言えば、俺の興味は九十五パーセントこっちに向いている。残りの五パーセントは、藍斗の約束を引き延ばせないかと一瞬考えてしまったことへの罪悪感だ。


「あー……明日だと、朝から用事あるんで……多分夕方には空くと思うんすけど……多分」

『多分を強調しすぎだろー。仕事?』

「あぁ、まぁそうっすね」


 藍斗との関係を知っているのは葉山と風上と凛子だけ。ネットでもまだバレていないし、コラボが正式に互いのチャンネルで発表されるまでは、噂になるようなことは避けたい。

 何と言っていいか分からず頷いたが、仕事関係の相手と会うのだから嘘にはなっていない。


『おっけ。じゃ一応夕方空けといてー。で、もし長引きそうならメッセくんね?』

「了解でーす……」

『ぶはっ、声死んでんぞ』

「そりゃまぁ……ていうか、もう目開けてらんないんですけど……」

『ごめんって!じゃ、また明日なー』

「お疲れ様です」

『お疲れー』


 ノートが返事をした瞬間、俺から通話を切ってやった。無理。眠い。

 浴槽に湯を張るのはやめた。睡眠時間を確保するのが最優先。そう結論を出して、俺はウォークインクローゼットから適当な下着やら部屋着を出すと眠気で半目になりながらもようやく脱衣所にたどり着く。ちなみに、ふらふらしすぎて廊下やドアに頭を三回ほどぶつけてしまった。痛い。それでもやっぱり眠い。



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