閑話 1
16
つい最近藍斗と訪れたばかりのアメリカンダイナーに、今度はマネージャーの風上を連れてやって来た。
そんな俺の目の前には、身に覚えのない『予約席』のプレート。
お気に入りの席にわざとらしく置いてあったそれを一瞥して、僅かばかり離れた場所で料理を運んでいる女性スタッフをチラリと見る。彼女は俺の視線に気付くと、口角を少し上げてウィンクしてきた。
はぁ。一度深い溜息を吐いて、ドサリとベロア生地のソファに腰を落ち着ける。
「あれー、ここいいの?」
「良いよ」
「予約してたっけ?」
「してない」
「んんんん?それ良くないじゃん」
「良いよ」
「はー?もうちょい説明ちょうだい」
俺の後ろにいた風上は、そう言いつつも向かい側に座る。背もたれに寄り掛かっている姿はリラックスモード全開だ。言葉と行動が違いすぎる。
「はい、お水」
コトリ。急に視界に入ってきたグラスと、差し出された白い腕。パチパチと気泡が遊ぶ中に堂々と浮いたレモンが爽やかだ。
「なにこれ」
「デトックスウォーターよ。巷で流行ってるらしいわよ」
「へぇ……凛子、これ今度ミント抜きにして」
「仕方ないわねぇ」
「……いやいや待って!フユ、紹介!」
当たり前のように会話を始めた俺たちを見て、風上は苦笑しながら声を上げる。水を運んできたのは、先ほど俺に目配せしてきたスタッフだった。
彼女は相変わらずスタイルが良い。小さすぎず大きすぎない胸元と、ギャルソンエプロンによって強調された腰のくびれ。スキニーを履いた脚はスラリと伸びて真っ直ぐだ。胸ポケットに飾られた花は青いアネモネ。清廉なオーラを纏う彼女の雰囲気によく似合っていた。
「あら、初めまして。あなたは……うーん、この子のマネージャーさんかな?風上くん、で合ってる?」
目を細めてにんまり笑う彼女は艶っぽい。美人が自分の容姿を自覚して武器にするとこんなにも威力があるのか――そう思えるほどの破壊力。
風上は迫力に負けて僅かに後退りしている。背もたれにグイグイ背中を押し付けている姿は滑稽で小さく吹き出してしまった。
彼女の痛み知らずな焦げ茶のロングヘアは一つに纏められている。白い項が露わになっていて、細く頼りない首筋が性の魅力を訴えてくる。古い知り合いの俺ですら、一瞬目を引くほど。
「……初めまして。俺のことはフユから?」
「そう。敏腕マネージャーって褒めてたわよ」
「おい」
「へぇー……ふーん……フユちゃん可愛いとこあんのね。俺ちょっと嬉しい」
「うっせぇ」
「ふはっ!口悪すぎかよ」
怪訝な表情だった風上は、凛子の言葉を聞くと一瞬でニヤニヤ笑い出した。顔を背けた俺を下から覗き込んでくる。目が合いそうになる度逸らし続けるが、風上もしつこく追ってくる。チラリと犯人を見れば、面白そうに俺達を上から眺めていた。
「で、お姉さんは?」
「私?私のこと、この子何も言ってないの?」
凛子は風上の問いに首を傾げる。それと同時に俺の方も見てきたから、サッと彼女を視界から外した。
「言ってないっすねー」
「あら、まぁ……。私はこの子の彼女よ。こ、い、び、と!」
満面の笑みで爆弾を落とした凛子は、そのまま俺の頬にチュッとキスをする。つい眉を顰めたがこれくらいのコミュニケーションは慣れているため、避けることはない。
そっと周囲を窺うが、座席の位置関係もあって俺たちの行動は誰にも気付かれていない。良かった。
「うざ」
「ふふふ。ちょっとくらい言わせてよ?」
「は?うっざ」
「え……?」
俺と凛子のテンポについていけていない風上は、さっきから俺たちの顔を行ったり来たり。相槌にも頷きにもならない音を口から発してポカンとしている。間抜け面だ。イケメンが台無し。
「え……フユ、彼女いたの?」
「は?」
「いやマジでお似合い。フユと同レベルの奴なんてモデルとか芸能人クラスの女の子じゃないと無理だと思ってたけど……うん、絶世の美女っていうか……お前のタイプって可愛い系じゃなくて美人系だったんだな」
さっきまで後退っていた風上は、今度は前のめりで俺に喋ってくる。凛子をじっと見つめながら納得したように頷いた。
「あら、褒めてくれてありがと」
凛子は褒められて満更でもないようだ。風上の少しだけ傷んだ髪の毛を優しく撫でている。
おい風上、照れるな。
「でもアイくんどうすんの?え、お前男女別なら浮気じゃないとか言っちゃう感じ?それはヤバいよ?」
未だ凛子に髪を梳かれたままの風上は、俺をじーっと見つめる。
「は?おい、飛躍しすぎだろ。こいつ彼女じゃないから」
「え?そうなの?恋人なんでしょ?」
「ていうか、お前分かってて言ってんだろ。話にノるな。そして話を盛り上げるな」
「ごめーん。面白くなっちゃった」
「風上くんノリが良いわねぇ。今フリー?良かったら、今夜どう?」
「あ、お願いします。俺フリーなんで!是非!」
「やめろ」
もう何こいつら。疲れる。
そう重い息を吐きながら一口含んだ水は思ったよりも美味しかった。枯渇した身体が潤っていく。ミントだって悪くないな。よく観察してみたら、ミントシロップも入っているようだ。飲みやすくて、好きかもしれない。
「凛子、やっぱりミント無しを無しで」
「あなた本当……そういう子よねぇ」
凛子は呆れたように笑う。
さっさと注文して。そう言いながらハンディをポケットから取り出した彼女に、俺たちは軽食とドリンクをオーダーした。
さっさと注文させなかったのは誰だよ。そうボヤいたら、頭をパシリと叩かれた。風上と扱いが違いすぎないか。
じゃ、また後でね。そう言い残して凛子は颯爽と仕事に戻っていった。風上は小さく手を振っていたけれど、俺は溜め息しか出てこない。適当にスマホを弄りながら、SNSでエゴサーチ。
「……で、凛子さんってフユとどういうかんけ、」
凛子が完全に離れたあと、風上は興味津々という表情できいてきた。
「
その質問が来ると思っていた俺は、被せ気味で答える。
「マジか!従姉いたんだ。ていうかお前親戚と仲悪いんじゃなかった?」
「仲悪いとはちょっと違う。ただこっちが勝手にトラウマ持ってるだけ。俺だって世間一般的な付き合いくらいはちゃんとしてる。法事で顔合わせる機会が何回もあったしな」
「あーね、法事か。え、でも凛子さんとはやけに親しいじゃん。仲良いんだ?」
「んー……両親の葬式中ずっと俺の右手を握ってくれてたのが凛子」
「そっかぁ……。そりゃ大切な存在になるよなぁ……」
俺はここでようやく視線をスマホから風上へ戻す。顔を上げたら、優しく俺を見つめる瞳とかち合った。
俺が今の事務所に所属して少し経ったころ、俺の過去や家の事情を風上には大まかに伝えていた。そして俺も風上が持て余している色々な感情を教えてもらった。
等価交換みたいだな。そう笑い合ったのはもう随分前に感じる。
「あいつだけだよ。変な同情とかしないで俺を見てたのって。……いや心の中では同情してただろうけどさ、うーん、本当の姉みたいっていうか、とにかくあいつは昔から優しい」
当時の俺は、大人が怖かった。小さい俺から見えた『大人』という生き物は、まるで祖父母の家の和室に飾ってあった般若のお面そのものだった。
背丈も力も語彙力も何もかも勝てないから、俺が口を開く前に全てを否定されても泣くことしかできなかった。
逃げ出さないようにと掴まれた手首は、解放されたあとも痕が残るほど。おばあちゃんが涙を堪えて湿布を貼ってくれたのは、生涯忘れないと思う。
俺を守ってくれたのは祖父母、これは間違いない。けれど、俺の崩れそうな心を何とか守ろうとしてくれたのが凛子だった。あいつだってまだ小さい女の子だったのに。
たった九歳の女の子は、孤独で押し潰されそうになっていた七歳の男の子を必死に守っていた。両手を目一杯広げて巨大な敵に立ち向かうように、自らが盾となるように。自分の親からも庇おうとしていた。
俺と凛子だけが共有できる感情。きっとそれを体験した俺たちでないと分からない。あの日々を共に乗り越えた戦友、親友、そして姉弟。俺が彼女に向ける感情は単純じゃない。
「フユがそこまで言うなんてなー。めちゃくちゃ良い人じゃん。好きになんねーの?」
「それはないな。家族愛でしかないし。姉って感じ……ていうか姉そのものだな」
小学生、中学生、高校生のときの凛子が頭の中に浮かんできた。そして最後に今の凛子が浮かぶ。どの時代の凛子にも、俺は恋をしなかった。恋なんて不確定要素が強いものよりも、心の奥底で深く重い想いがあった。
「ていうかお前はどうなんだよ。彼女いるだろ」
「え?俺いないけど」
「この前女の子とメールしてなかったっけ」
「あぁあれは一回寝たら彼女面してきたから速攻切った」
ほらこれ。そう言いながら画面を見せられる。何とも素っ気ない別れ際の言葉が羅列したメール画面に、俺は苦虫を嚙み潰したような顔になる。
「お前さぁ、いつか刺されるぞ。ていうかお前に凛子は勿体無いから駄目。却下」
「えええ、フユさーん判定厳しすぎー。もうちょい甘くしてよー」
「無理。お前寧ろマイナス。マイナス百点。まず百点稼いで。そこでやっとスタートライン立てっから」
「ええー……残念……あんな美人と寝れたら自慢できんのにさぁ」
「人の姉貴をアクセサリーみたいに言うな」
くそったれ。言葉にせずとも、俺の蔑んだ目線は風上を真正面から射貫く。
ごめんって。そう言いながら両手を軽く挙げて降参のポーズをとる彼。
「本当の姉弟かよ」
「気持ちはね」
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