14 Side-A
藍斗にとって、フユは『神様』だ。
自分の存在意義がどうしても見出せず、自己肯定感が地に落ちたまま窒息しそうになっていた俺の前に突如現れた奇跡――それがフユの曲だ。
一気に心が燃え上がって一心不乱に投稿を続けていたある日、SNSのダイレクトメールを確認したあの瞬間、俺の身体は呼吸を忘れた。
そこから今に至るまではあっという間だった。
夢のような時間だった。柄にもなく浮かれていた。
実際にあったフユさんは、俺の想像以上に美しい人だった。天から間違って人界に落ちてきてしまったのかと本気で思った。
根元まで染まった金髪があまりにも彼に馴染んでいたし、外にあまり出ないと言っていたその肌は白かった。
瞳は淡いブラウンで、頬や鼻筋が完璧な位置にある。天使じゃなかったら中世ヨーロッパの王子様かもと本気で考えた。服装だけがヤンキーみたいだったけど、モデル体型のせいでハイブランドだっけなんてタグをさらりと確認したのは内緒にしたい。
俺の容姿を何度か褒めてくれたけど、この人は一度客観的に鏡をみたほうがいい。
そんな完璧な人に一夜を求められたんだから、きっといい思い出だけで終わらせるべきだ。『これから』なんて期待しちゃいけない。
――それなのに。
少しずつ実感していく。自分は今とんでもないところへ来たのだと。
動画の中の存在だった違う次元に生きる人。いつしか動画を超えて様々な雑誌で才能を評価されていることを、この
アニメ映画が大ヒットしたこと。
歌手が大きな賞を取ったこと。
それら全てに携わっていることを、自覚しているのだろうか。
俺は目の前の細い背中をじっと見つめる。一見頼りなさそうなその背中が、本当はがっしりしていることを知っている。しがみついても倒れないと知っている。寄り掛かっても簡単に崩れないと知っている。
知っているからこそ、俺にとっての冬哉は自分の全てを預けてもいいと確信できる存在になっていた。
「入るよ」
冬哉がチラリと俺を見る。きっと俺の顔色はお世辞にも良いとは言えないだろう。緊張で死にそうだ。すでに場の雰囲気に気圧されていることなんて分かってる。
「大丈夫?」
「……うん」
冬哉の問いには、そう答えるしかなかった。
ここまで来て不安だなんて言えるか。そう強がる俺を、じっと透き通った瞳が見つめてくる。
「おいで」
「は?」
トンと右手を引っ張られて躓いたと同時に、ぶわりと鼻孔を擽るシトラスの香り。
一拍遅れて、俺は冬哉に抱き締められているのだと分かった。
「ほら、落ち着け。大丈夫だから」
耳元で囁かれる。低音で心地良い音が、右耳からまるで魔法のように入り込み、そのまま脳内を支配する。
言葉を胸で反芻させて、数秒だけ目を瞑る。彼の胸元で大きく息を吸った。ふぅとありったけの息を吐けば、全ての不安が出て行って安心だけが残る。
もう大丈夫。俺の中で説明できない確信があった。
落ち着いた俺を確認した冬哉は、軽くノックをしたあと直ぐにガチャリとドアを開ける。
「おはようございます」
「……おはようございます」
冬哉が挨拶したことに驚きつつも一拍遅れて彼に続く。ペコリと頭を軽く下げながらそっと様子を窺うと、部屋の中にいたのは二人の男性。
誰かが待ってるなんて知らされていない。
どういうことだよ。
そう詰め寄りたかったけれど、ぐっと堪えた。恨めしくなって思わず彼を見上げるが、彼はもう俺の方を見てはいなかった。
「はよー」
「おはおはぁー」
緩く間延びした二つの声。
一人目は黒髪、黒メガネ、黒Tシャツ、黒のデニムという全身黒づくめの痩身の男。そしてもう一人はミルクティブロンドでヘーゼルブラウンの瞳を持つ猫のような男だった。
「フユと会うの久しぶりだな」
「俺もすっげー久々!フユとは基本メールでしか会話しねぇもん」
「はー?ちゃんとマネージャーしてんのか?」
「そこは一応してますよー。じゃないと俺首になっちゃう。ははははは」
仲良く談笑している二人を他所に、冬哉は淡々と俺の手を引いてスタジオブースの中に連れていく。
部屋から続くブースの中へ入ってしまえば、二人の姿こそ見えるが声は全く聞こえなくなった。
「え、俺ちゃんと挨拶してないんだけど……」
「後で良いよ。あの二人、なんにも気にしてないと思うから」
「えー……」
「大丈夫だって。あ、一応今のうちに言っておく。あっちの黒髪がPAの葉山さんで、あの派手髪が俺のマネージャーの風上。風上は俺達とタメだから気遣わなくて良いよ」
「あ、うん……いや、それでも後でちゃんと挨拶させて、っていうか挨拶するわ」
「そう?する?」
「そう。する」
真顔で雑な紹介をしてくる冬哉に、今度こそじーっと睨んでやった。そんな紹介をされたと露も知らない二人は未だ談笑中。俺の存在に気付いているくせにそんな素振りもない彼等の態度に、どことなく居心地の悪さを覚える。
「よし。じゃ曲流すから歌ってみて」
「どれ?あの三曲のどれか?」
「あれはまだ完璧じゃないだろ?どうせならアイが上げてた動画の中からにしよ」
「フユさんの曲ほとんど上げてると思うんだけど。逆に何か希望ある?」
「んー…じゃこの前上げてた『月光シンフォニア』が聞きたい」
「おっけー。じゃそれ歌う」
曲が決まれば、次は発声練習。冬哉の希望に応えるため、少しずつ声のキーを上げていく。今日の夜中、いや明け方近くまで喉を酷使したはずだったが全然枯れていない。むしろ調子は良さそう。
『月光シンフォニア』はフユが一年前に出した曲だ。かの有名なベートーヴェンの月光をアレンジした、オーケストラ調の曲。オーケストラとシンセサイザーの融合は当時はとても珍しく、度肝を抜かれたのを今でも覚えている。
すぐに歌ってみたいと思って練習を始めたものの、当時は中々納得するように歌えなかった。それでも試行錯誤の果てにようやく先月に動画を上げるに至った、アイにとっても思い入れが強い曲だった。
「あー、あー、……あ、あ、あ、あ、あー。……うん、いいよ」
「はい、これ使って」
冬哉はヘッドフォンを俺に渡すと、入口を塞ぐようにドアの前で胡坐をかいた。
「え、冬哉そこにいるの?」
「いるよ?」
「……そうなんだ?」
「うん」
まぁレコーディングじゃないし、良いのかな。
そう軽く思って目線を前にやると、いつの間にか音響装置の前に座っていた葉山が目に入る。その表情を見て、背筋がスッと冷えた。
後ろのソファに座ったままの風上も、腕を組んでこちらをじっと見つめていた。
先ほどまでの賑やかな空気は消え失せ、二人はプロの目で俺を判断しようとしている。そう勘が告げていた。
チラリと冬哉の方を振り向けば、小さく首を傾げられた。
全て分かっているのにその態度なのか、それとも本当に鈍いだけなのか。昨日今日の付き合いでしかない俺には、彼の本音は見抜けない。それも何だか悔しかった。勝手に評価されそうになっているのも含めて、複雑でどす黒い感情が胸を染める。だけど、そんなこと今更言ってられない。
息を吸って、吐く。
たったそれだけ。
しかし、それだけの動作で緊張が少しだけ和らいだ気がした。
一瞬だけ目を伏せて、ヘッドフォンをつける。
目を開いてしっかりと前を向けば、タイミングを見計らったかのように耳元からイントロが流れてきた。
RPGのメインテーマを彷彿とさせる壮大なストリングスに、正反対のエレクトリックサウンド。
相反するはずの音が、冬哉の才能によって完璧に調和する。
「……―――、――、――――、―――」
Aメロ。歌い出しは上々だ。メロディをなぞるフルートに合わせて歌詞を紡いでいく。音こそ華やかだが、最愛を失った青年が孤独と向き合う切ない内容だ。
幸せな日常など今では夢物語――そう訴える『彼』の想いが胸の奥に響いてくる。
しかし今の俺はアイ。『アイ』は人間であることを捨ててボーカロイドへと変貌した歌い手。
「――、遥か――、―――、記憶と――、――、―――」
ボーカロイドに心は無い。感情という機能はあるかもしれないけれど、それはあくまでインプットされたものだけ。
自ら考え、寄り添い、同情する。そんな高度な技は、いくら最先端の知能を持つロボットだって出来やしない。
今のアイにはどんな言葉も響かない。ただ音程をなぞるだけ。本物のボーカロイドよりも少しだけ滑らかに歌うことができるだけ。
「―――影からボクが、――、―――、キミと夜空の、―――、――」
サビ。感情を乗せすぎないアイの歌い方は、真剣に聴いていた冬哉達にとって衝撃的だと言わざるを得なかった。
過去いくつもの動画を数多の人がアップしてきたが、その九割は感情を声に乗せていた。主人公の気持ちに寄り添ったり、或いは、主人公に成り切ったり。実体験を思い浮かべて歌っていたのはもっと悲惨だった。
それを悪いとは言わない。ただ、フユが求めているものではなかった。
人間を信用できない冬哉が救いを求めたのはボーカロイド。それを本当に理解して歌っていた人は何処にもいなかったのだ。
――アイを除いては。
四分四十四秒。アウトロは本来の『月光』を思わせるピアノの旋律。
最後まで悲しさと絶望が消えなかった主人公に、この先希望はあるのだろうか。そう思わせる余韻を残して、悲しさが癒えぬままに音は消えた。
最後の一音が消えた後、アウトロ中ずっと目を伏せていた俺はゆっくりと瞼を上げる。しん、とした静寂がブース全体を包んでいる。
その場にいた四人全員、誰一人として口を開かない。
「……どう?」
数十秒の沈黙の後、ついに耐え切れなくなって俺は小さな声で冬哉に尋ねた。歌っているときの無機質な声色とは真逆の地声。緊張と不安が隠しきれてない。歌い切った達成感と興奮で、微かに手が震えている。
「……良かった」
「……ほんと?」
「ほんと。……初めてかな。いい意味で人間も悪くないなって思った」
「おお……マジか」
冬哉の――フユの言葉に、俺は素直に驚いた。
彼はドアに寄り掛かってじっと天井を見ている。ぼうっとした表情で、ずっとここではない何処かを見つめているよう。
――コンコン。ノックが二回。
ガラスの向こうに人影は無い。きっと彼等だ。億劫そうにゆっくりと身体をずらす冬哉がドアから離れた瞬間、ガチャとドアがゆっくり開いた。
「やぁやぁ、アイ君お疲れ様。凄く良かったよ。いい意味で人間らしくない歌声だったね」
「動画でも超良いじゃんって思ってたけど、生で聞くとまた違った感じで最高だったよー。いい意味で期待を裏切られたって感じ?」
そう言いながらにこやかに入ってきたのは、葉山――冬哉の全ての楽曲を手掛ける敏腕PAと、風上――冬哉の専属マネージャーだった。
先ほどまでの静寂や心地良い疲労感を吹き飛ばすほど陽気な二人に、俺の思考が一瞬フリーズする。
なんで三人揃って『いい意味で』って言うんだろう。
「俺、アイと組むわ」
「え」
「お!良いんじゃないか?お前等、絶対合うよ」
「おっけ!いつからプロモーション掛ける?俺勝手にやっちゃって良い!?」
「良いよ。任せる」
「え、え……なに、どういうこと?」
俺は全く意味が分からず、困惑しながら冬哉へ問いかける。しかしまたもやスルーされた。明らかに話の流れについていけてない。気まずい。
「あ?おいフユ、お前ちゃんと彼に話してなかったのか?」
「うっわ、お前マジで言葉少ないよなぁ……アイ君かわいそーじゃん」
呆れたように見つめる彼等と、じとりと睨む俺。今までポーカーフェイスだった冬哉の表情がついに崩れた。
「……忘れてた」
ポツリ。強張った空気に落とされた小爆弾には、さすがの俺もフォローしようとは思えなかった。
冬哉、お前が一番悪いよ。
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