13
「そろそろ出よっか」
「……もう九時半かあ……そろそろ出ないとだね」
「……藍斗さ、眠いだろ」
間延びした返事と、堪え切れない欠伸。キラキラ輝く瞳の半分は既に重い瞼で隠れている。左手で頬杖をついている姿は今にも寝落ちしそう。
窓から降り注ぐ陽光で、彼に陰影がくっきりとつく。まるで絵画みたいだと思った。顔の造作が際立ち、肌のきめ細やかさが強調されている、完璧な芸術品。フェルメールが描いた名画の隅にでもこっそり並べてほしいくらい。
「……バレた?」
「バレバレ。そりゃ沢山動いていたし、眠くもなるよな」
「……へんたーい」
「……ありがとう?」
褒めてないんだけど。そう呟く藍斗の瞳は優しい。慈愛の微笑が目に入った瞬間、ドキッと心臓が高鳴った。不意打ちは困る。やめてくれ。
「ふー……よし、行こ」
「やる気出た?」
「やる気は元々あるよ。ちょっと気合入れ直しただけ」
「生の藍斗の声楽しみだなー。俺、アイのファンだからね」
「……あまり緊張させんなよ……」
「それはどうかな」
俺はクスッと含み笑いだけ残してそのまま立ち上がった。テーブルに置いてある伝票を手に取りながら、レジへと向かう前に座席をさっと確認しておく。
忘れ物はないな。数カ月前に携帯電話を店に置き忘れて散々な目に遭ってから、この動作は俺のルーティンになっている。もう絶対体験したくない。
「ありがとうございました。Have a good day!」
会計後にそう言った店員は、さっきオーダーを取ってくれた人だった。優しく細められたその目元に、不意に懐かしさを感じる。少しだけ温かい気持ちになった。
「素敵な挨拶だね」
「徹底してるよな」
「うん。また来たい」
そう会話しながら、俺達は再び寒空の下を歩きだす。
時刻は九時三十五分。レストランからスタジオまでは五分も歩けば着くだろう。
時間が経ち、気温も少し上がったようだ。澄んだ青空に太陽が眩しい。こんな冬の日は、日光の有難みを強く感じる。日向を歩いているだけで、身体がポカポカと温まっていく。
「――ここ」
俺が足を止めると、藍斗もそれに倣う。
「え……」
二人で見上げた先には五階建てのビルが堂々と建っている。
左右に並ぶのは灰色のスタンダードな雑居ビル。しかし目の前に建つのはネイビーブルーの壁とマジックミラーが半々のスタイリッシュなビルディング。
ビルといえば寒々しくてガランとしていて冷たい印象――なんて吹き飛ぶほど、良い意味で日本っぽくない外観だ。
「……冬哉の周りって一々オシャレじゃない?」
自動ドアを潜った先には、最新式カフェマシーンがあるラウンジ。そして数組のテーブルセット。奥にはエレベーターホール。
大理石の天板が目を引くカウンターとそこに座る受付嬢は顔で採用したのかと疑うほど美人である。視線を下げると、同じく大理石の床がピカピカと光に反射していた。
藍斗の呟きを敢えて無視して、俺はどんどん進んでいく。受付には寄らずに真っ直ぐエレベーターへ向かった。
彼は俺の後ろで困惑していた。受付の女性と俺を交互に見ていたようだが、女性の会釈に軽く返しただけで、何も言わずに大人しくついてきた。
「……ここ、何?」
「何って……スタジオ?」
後ろから小声で問いかけられたので、俺も小声で答える。エレベーターの前に着いてボタンを押すと、藍斗も隣に並んだ。
「は?どう見てもスタジオじゃないでしょ」
「ん?」
「俺が想像してたスタジオと全然違うんだけど」
「ここもスタジオだけどね」
「いや、うん……もういいよ」
エレベーターの中に入った途端、藍斗の口からどんどん漏れ出す疑問。俺は内心笑いながら三階へのボタンを押した。
「三階は多分藍斗が想像してるスタジオだと思うよ」
「ほんとに?なんかもう昨日からびっくりしてばっかりな気がする……」
「そう?俺も藍斗にびっくりさせられてるけどな」
「……嘘ばっかり」
「なんで嘘って決めつけんの」
拗ねる藍斗の柔らかい髪を、優しく梳いてやる。赤と黒のコントラストは相変わらず綺麗だ。真っ赤でも朱色でもないこの赤は薔薇みたい。
「……ここ、何?普通のスタジオじゃないよね?」
「ここは俺が所属している事務所」
「じむ、え、事務所?」
「そ。俺、曲作るのしか興味無いからさ、版権とか税金関係とか?そういうの全部やってもらってんの。雑誌の取材とか作曲の依頼とかそういうマネジメントも全部ね」
「で、三階がスタジオのフロアってわけ?」
「そういうこと」
へぇ、と藍斗が納得している間にピンと音が鳴って目的階に到着する。
自動販売機とベンチが二つあるだけの小さなホール、そこから伸びる廊下、そして幾つかドアがあるだけのシンプルなフロアだ。
防音性や気密性を高めるせいか、どのドアも重厚に感じる。摺りガラスがはめられたドアとそうでないドアがあった。
「こっち」
またも立ち止まっていた藍斗に、俺は軽く声を掛けた。
毛の長い絨毯で覆われた廊下は足音を吸収する。微かに聞こえる衣擦れの音がしんとした空間に響く。
「……」
彼の呼吸は微かに震えていた。
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