11

 共用部の廊下は外よりは温かいがそれでも寒い。バタン、ガチャンと後ろで鳴る。オートロックのドアは便利だ。鍵を忘れたときが怖いけれど。

 驚いたように目をパチパチさせている藍斗が視界に入る。ふっと頬が緩んだ。素直な反応は幼子のようで、見ているこっちが癒される。やっぱり可愛い。昨日見たはずの廊下やエレベーターホールを、まるで初めてのようにきょろきょろ見回している。


「そんなに気になる?」

「朝見ると改めて高級感あるなーって」

「そう?でもこれから何度でも来ることになるんだし、そのうち慣れるよ」

「……冬哉って、口説くの上手いって言われない?」

「言われたことないけど」

「嘘」

「嘘じゃないって」


 じとっと睨まれたが、俺は肩をすくめるだけ。思い当たることが無いだけに、返答に困る。自分としては口説いたつもりはないけれど、藍斗が勝手にそう思っている分には否定する必要もない。


「どこ行く?」

「うーん……今何時?」

「八時五分前くらいかな」

「スタジオ十時だよね?できるだけスタジオに近い方が良いなあ。ギリギリまで店内いたいし」

「スタジオはここから割と近いし、じゃまずそっちの方向行くか」

「そうしよ」


 エレベーターの中で相談しながら、マンションを出た後の行動を決めていく。

 スタジオは駅方面とは反対の道を行く。このマンションを中間点として左右に駅とスタジオがあり、距離は駅までが徒歩約十分に対して、スタジオは少しだけ遠かった。それでも約十五分ほどで着くので、散歩するにはちょうどいい。

 スタジオまで行く通りには様々な店が並んでいた。特に飲食店が多く、外資系コーヒーチェーンやファストフード、ちょっとオシャレなレストランまで揃っている。


「さむっ!」

「晴れてるだけマシだな。雪も積もってないし、歩けて良かった」


 道路わきの水溜まりにも氷は張っていないし、路面も凍結していない。気温は下がっているが、空は快晴で太陽が眩しい。雲一つない青空は気分が良い。


「息白いよ。みてみて……はーっ」

「これだけ寒いとほんとヤバいね。凍死するかも」

「じゃ早く店入んないとね」

「ほんとそれ。取り敢えず頑張って歩こ」

「……はーい」

「こっちね」

「うん」


 二人並んでゆっくりと歩きだす。閑静な住宅街を少し進むと、大通りに出る。その後は道に沿って歩いていくだけ。

 反対側に渡るのは面倒だから、出来る限りこちら側で店を選びたい。ちなみにスタジオはこの通りを真っ直ぐに行くと着く。

 今は朝八時を過ぎたばかり。スーツ姿のサラリーマンが足早に歩いている。寒さが厳しくとも自転車の数は変わらない。色とりどりの自転車が、歩く二人の側を何回も追い抜いていく。その度に風が強くなって、反射的にぶるぶると震えてしまう。まだまだ春は遠い。


「ねぇ、冬哉は何食べたい?」

「んー……朝だし、重いもの以外」

「わかる。今の時間に牛丼とかトンカツとか死にそう」

「中華もしんどい」


 俺は朝ラーメンと描かれたのぼりを横目で見て、さっと視線を逸らした。


「藍斗の希望は?」

「そうだなー……取り敢えず俺はコーヒー飲みたい」

「それ何処でも飲める」

「二杯以上が良いな」

「ドリンクバー確定か」

「あ、あのファミレスにしよ。二十四時間オープン?……モーニングやってんのかな?」


 藍斗は立ち止まって、数メートル先の店を指差した。


「あそこモーニングやってる。七時から十時半まではモーニングメニューだよ」

「じゃちょうど良いじゃん。ていうか冬哉詳しいね。常連?」

「結構よく行く。スタジオの帰りとか夕飯だるいなーって時は大体行っちゃうね」

「ファミレスってメニュー豊富だしね。その気持ちはちょっと分かる」

「ドリンクバーあるし便利だよな。SNSチェックとかつい外でしちゃうんだよね。アップ直後とか尚更」

「わかるわかる。俺もついチェックするもん。そわそわするよね」


 ぽんぽん会話が弾む。心地良いテンポに、まるでずっと一緒にいたような感覚になる。

 俺は前後から来る自転車や歩行者から彼を庇うように隣を歩く。あくまでさり気無く、気付かれないように。

 明け方まで無理をさせた自覚はある。これから歌うのに、随分喉を酷使させてしまった。

 情事の最中、頭の中では『もう止めとけ。明日に響くぞ』と何度も理性が忠告してきた。

 これで最後ね。そう告げた俺を引き留めたのは何だったか。

 物足りなそうな視線、淫らにくねる肢体。陥落するのは簡単だった。

 理性なんて、藍斗の前では塵と同然だ。


「雰囲気めちゃくちゃ良いじゃん!中もこんな感じ?」

「そう。オールドアメリカンっぽい感じ」

「へえ。ここなら確かに居座る気持ち分かるかも。こういうコンセプトレストラン最高」


 土地が少ない都会には珍しく、駐車場は店舗の隣にある。人口密集地においては、駐車場が一階で二階が店舗という形態が多いけれど、ここはコンセプトに重きを置いているようだ。

 広大な砂漠地帯、そして真ん中に伸びるアスファルト。日が暮れ、宵闇の中輝き出す美しいネオンサイン。アメリカ大陸を横断している有名なルート六十六を思い出す。

 日本では珍しいプラムとサンセット色の屋根と壁。一見奇抜な色合いだが、窓枠のホワイトが上手くそれらを調和させている。ネオンこそ朝ゆえに点灯していないが、それでも異国情緒は十分感じられた。

 入口や店舗の周りに植えられている木々は何という名前だろう。あまり見たことがない。これもアメリカではポピュラーなのだろうか。

 俺には見慣れた光景も、藍斗にとってはそうではない。もっとじっくり観察したそうな藍斗の手を引いて、入口へ向かう。

 ドアは木製で、ローズ色に塗られていた。所々剥げているところは味があって良い。自動ドアではないのも好感が持てる。

 カラン、中に入った瞬間ドアベルが小さく鳴った。それとほぼ同時に、店員が奥から出てくる。白シャツに黒のスキニージーンズ、そして腰には膝丈のギャルソンエプロン。これも黒だ。店内の派手さと店員のシンプルなスタイルが調和している。

 いらっしゃいませ、と掛けられる声。そしてピタリと合った視線に小さく頭を下げて、俺はいつもの場所へと足を進める。モーニングの時間帯は席を自由に選べると知っていた。

 店内最奥で、窓側のボックス席。ここが俺のお気に入り。席と席の間はパーテーションではなく壁で区切られており、半個室に近い。

 四人掛けではあるが、そもそもこの店はほとんど四人掛けなので一人で使っても特に気にならない。この店にきたときはほぼ九割の確率で俺が座る。窓からは駐車場ではなくミニ庭園が見えるところもポイントだ。時期さえ良ければラベンダーや低木のバラが楽しめる。


「これモーニングメニューね。俺大体同じのしか頼まないから、藍斗が決まったら店員呼ぼ」

「マジで?え、冬哉いつもどれ頼んでんの?」

「これ」


 驚くようにメニューを見つめる藍斗の視界を遮って、俺は人差し指で写真をトントンと軽く叩いた。

 五種類あるモーニングメニューの一番上に載っているAセット。スクランブルエッグとウィンナーにベーコン、そしてマッシュポテトとサラダつきのワンプレートだ。そこにパンがつく。これはトーストかロールパンから選べる。スープとドリンク付きで六百五十円。


「美味しそう……マッシュポテト付きか……朝からボリューミーだねえ」

「スクランブルも美味しいよ。べちゃべちゃしてない」

「でも六百五十円ってモーニングしてはちょっと高め?」

「そう言うと思ったわ。ここ、スープ飲み放題だよ」


 俺は、スープバーの方を視線で促しながら答えた。


「え!あ、あっちか!うわー超良いじゃん。今日みたいな日は絶対スープ飲みたい」

「しかもスープ二種類ある」

「絶対両方飲まないと駄目なやつね。ん、でもドリンクバー無くない?」


 スープバー付近を確認した藍斗は、ドリンクバーのスペースが無いことに気付いた様子。店内をぐるっと見て探しながら、首を傾げている。


「ドリンクバーじゃないけど、こっちもドリンクおかわり自由だよ。ほら、これこれ。このドリンクメニューの二百九十円のやつは何でも頼んで良い」


 俺はクスッと笑いながら、テーブルの上にあったメニューをひっくり返して裏面を見せた。


「あ、このマークついてるやつ?え、種類豊富じゃん。うわー六百五十円が安く感じてきた……」


 どれにしようかと目をキラキラ輝かせながらメニューを見ている藍斗に、俺は小動物を愛でるような気持ちになってくる。今までペットを飼いたいと思ったことは一度もないのに、目の前の彼があまりにも感情表現が素直すぎて、あれこいつ動物だったんじゃないかと思えてくるほどだ。それほど素直で可愛すぎる。


「決めた?」

「うー……ちょっと待って……」

「まだ八時十五分だし、時間はあるからゆっくり悩みな」

「ありがと……うーん……んー……これ!決めた」

「おっけー。じゃ店員呼ぶよ。あ、ドリンク決めた?」

「店員さん来るまでに決めるから、もう呼んじゃって!」


 急いでドリンクメニューに目を通し始めた彼に苦笑しながら、端にあったベルボタンを押す。よくありがちな、ピンポーンと高い音は鳴らなかった。

 この店では、レジ前の電光掲示板に席の番号が表示される仕組みだった。店員は皆片耳にイヤホンをつけている。きっとそこでは音が聞こえているのだと思う。こういうところは現代の利器を申し分なく採用しており、客への配慮が素晴らしいといつ来ても感心する。

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