黎明
10
――昨晩、いや数時間前の出来事を思い出していた俺は、彼を起こさぬようにそっと身をよじる。
既に感覚がなくなっている左腕をそっと頭から引き抜いた。痺れていない右腕でベッドサイドテーブルの上からスマートフォンを手に取る。
充電は百%、緑のランプが点滅している。最後の記憶が曖昧で不安だったが、きちんと充電ケーブルを繋いで寝たようだ。
適当に幾つかのSNSでエゴサーチをする。先日上げた動画はどうだったかな。
まずは高評価やコメントの数、視聴者層をチェック。そのあとにできるだけ多くの感想を読んでいく。読んだところで曲に反映するわけではないが、それでも大衆の意見は聞いておきたい。自分の性格や感性が独特なのは分かっているから。
毎回絶賛する熱狂的なファン、好きな曲だけ反応するリスナー、全てを否定してくるアンチ。沢山のコメントと想いで溢れている。ちなみにアイからもコメントが来ていた。ちょっと笑った。
時刻は、まだ七時半。思っていたよりも随分早かった。全て片付いてようやく寝られたのは四時近くだったから、睡眠時間はたったの三時間半と少し。睡眠不足なのは否めない。けれど、自然と目が覚めたせいか頭はスッキリしていた。
「……んん……」
隣から聞こえてきた小さい唸り声。起床の合図かな。そう思って視線を下げると、薄く目を開けつつも、まだ眠そうに目を擦っている藍斗の姿があった。
黒と赤の髪が日に焼けていない白い肌にとても映え、ぼうっとしている横顔は彫刻のように美しい。野性味の欠片もなく中性的な顔立ちは、喉仏や骨格で男と判断できるが、顔だけ見れば戸惑うほどだ。
しなやかな筋肉を纏った肉体は、無駄な脂肪もなくうっすらと腹筋も割れていて、肌はスベスベと手になじむ。時代が時代なら傾国の美少年とでも謳われそうだ。
「……起きた?」
「ん」
「おはよ」
「……はよ」
藍斗の覚醒を確認すると、その僅かに開いた唇に触れるだけのキスをする。唇はちょっとだけ乾燥していた。水分不足。かつ、冬のせいで湿度も低い。これは水分を多めに取らせないと。そう頭のメモに留めておく。
エアコンが切れた室内は日が昇っているとはいえ寒すぎる。布団から出たくない。しかも互いに一糸纏わぬ姿。
「……いま、なんじ?」
「七時三十三分。身体、大丈夫そう?」
「んー……大丈夫、だと思う。なんかお腹空いたかも……」
「もし藍斗が動けそうなら、モーニングでも行くか」
「行く」
俺の誘いに迷わず即答した彼は、うーんと背伸びをしながら自身の状態を確かめている。
いててて、と言いながらも恥ずかし気もなく腰を揉み解している姿は、彼の見た目以上に男くさい仕草だ。
うん、やっぱりこいつ慣れてる。悟った。
「あ、下着……」
「未開封のやつあるよ」
「マジ?サンキュー」
氷のような床と身体に纏わりつく冷気に思わず息が詰まる。その辺に放っておいた服を素早く着ると、隣のウォークインクローゼットに下着やインナーなどを取りに行く。
寝室から直線距離で行けるウォークインは、仕切りの扉がなく使いやすい。四帖の空間にハンガーパイプや可動式の収納棚が最初から設置してあり、家賃に見合った造りになっている。
空いたスペースに置いている三段の収納ケースは、未使用品限定のスペースだった。上段に靴下やインナー、下着などがタグ付きのままきちんと入れてある。ちなみに中段にはトップス、下段はボトムスだ。
俺はケースから袋に入ったままの下着と冬用の薄手のインナーを取り出して、未だベッドの中で暖を取っている藍斗へと持っていく。
「これ、多分サイズ大丈夫だと思う」
「ありがとー。あ、こっちも良いの?」
「今日寒いしね。あげるよ」
「ありがと!これ一番温かいやつじゃん!CMでやってんの見たことある」
俺達の身長差は少しあるが、大は小を兼ねるというし小さいよりは良いだろう。
藍斗が反応したインナーは有名ファストファッションブランドが出している、寒さを感じにくいという画期的な肌着だ。
肌着と聞けば少し古く感じるが、デザインや生地は現代風でカラーバリエーションも豊富。国民全員が持っていても可笑しくはないというほど爆発的に普及し、それに漏れず俺もデザインや色違いで数枚所持していた。流行りに乗るというよりも、寒さという強敵に抵抗するために、最も良い武器を選んだだけのことである。
「布団の中で良いから着替えちゃいなよ。俺、その間にリビングのエアコンつけてくる」
「はーい」
カサカサと袋を開けだした藍斗を見て、俺はリビングへと足を運ぶ。人感センサー搭載の最新エアコンは、昨日の夜中に早々と役目を終えたせいで、部屋の中は息が白くなるほど温度が下がっていた。
くしゃみを一つ。ティッシュ片手にリモコンを操作する。微かな機械音と共にエアコンが仕事を始めた。俺はそれを確認したあと、洗面所へと足を運び洗顔や歯磨きなどを終わらせる。もう少しすれば藍斗が来るだろうから、その前に身支度を終わらせておきたい。
「俺も顔洗わせてー」
ちょうど全ての支度が終わったころ、着替えを終えた藍斗が洗面所の入口から顔を覗かせた。
「俺もう終わったから、ここいいよー。あ、これタオルね」
洗面台の引き出しからフェイスタオルを取り出して、藍斗に差し出す。
フユのファンからオススメされた高級ホテル御用達のブランドタオル。何度洗ってもフワフワで、ゴワゴワになる気配がない。その辺に売っている普通の洗剤と柔軟剤なのに、凄すぎる。タオル自体の値段こそ安くはないが、肌触り抜群なのでこれ以外を買う気は今のところない。ちなみに家中のタオルは全てこのブランドで統一している。
凝り性なのか怠惰なのか判別しづらいって昔からみんなに言われる。そんなの俺が一番よく理解している。
「そこ置いといてくれるー?」
「おっけー」
俺がタオルを出した短い間に、藍斗は洗顔を始めていた。目を開けられない彼に指示された通り、洗濯機の上にタオルを置いた。
そのついでに、仕事を終えたばかりでまだ温かみのある衣類をドラム式洗濯機の中から丁寧に取り出して畳んでいく。
二人分の服は量が少なく、思ったよりも時間が掛からなかった。家を出るまでに乾燥が終わらなかったらどうしようと少し不安だったから、正直胸を撫でおろす。
まだスタジオまで時間があるとはいえ、早めに家を出てモーニングを食べに行きたい。
機会があれば俺の洋服を藍斗に着せるのも、それはそれで楽しいかもしれない。服装が真逆なのは分かっているが、きっと藍斗なら何だかんだ言っても着こなしてくれるだろう。
洗濯物を畳み終え、出掛ける準備をしていく。
リビングの電気を消し、エアコンのスイッチをオフにする。カーテンは元々閉まっていたので大丈夫。掃除用ロボットをセッティングしたあと、寝室へ戻って簡単にベッドメイキング。これで夜すぐに眠れる。
仕事用具を入れたトートバッグの中にノートパソコンがあることを確認する。曲のデータが入ったUSBも忘れない。念のためスマホ用のモバイルバッテリーも入れておく。これで鞄の用意は完了だ。
リビングのガラステーブルの上に無造作に置いていた財布をデニムの尻ポケットに入れた。黒の長財布はハイブランドとまではいかないが、それなりの価値はある。初めて曲がヒットしたときに記念として買ったその値段は五万円。五年使えば元は取れる、そう思ったのは秘密だ。
「おまたせ」
「準備できた?」
「うんうん。もう行ける」
「じゃ行こっか」
そう会話をしながら、玄関クロークでダウンを羽織った。チョイスしたのは、勿論昨日着ていた黒のシームレスダウン。お気に入りというよりは、これしか選択肢が無い。アウターは一着あれば十分だろ。
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