9

 朝。カーテンの隙間から朝日が差し込む。もう十分に太陽は昇っていた。

 左腕の痺れと、その原因。斜め下を見れば、穏やかな顔で寝息を立て、すやすやと熟睡している藍斗がいた。

 誰かと朝まで寝たのは家族以外では初めてだ。俺は寝起きで回らない頭のまま、目の前の藍斗をぼうっと眺めながら考える。


「……ん」


 藍斗の口から小さく吐息が漏れる。

 明るいときに見る彼は、やはり同い年とは思えない。

 きめ細やかで滑らかな肌は、下手すると女性よりも瑞々しい。これで手入れをしていないと言っていたのだから、世の女性から恨まれても可笑しくない。ていうか刺されるぞ。


 ――昨日の夜、俺が衝動的に藍斗を抱き締めたあと、俺達の間には甘く痺れる空気が流れていた。

 偶然を装って藍斗の首元に唇を寄せてみると、彼は拒むどころかピクリと身体を反応させて、強請るようにぎゅっとしがみついてきた。その仕草が、初々しくも全ての男を虜にする毒婦のようで劣情が煽られる。

 元より、俺は性に対して一般的な欲求はきちんと持ち合わせている。人間不信と性欲処理は全く別の話である。俺の見た目はウケが良いようで、男女問わずアプローチが来る。身体だけでもと言われて、関係を持った数は約十数回。勿論相手は選んでいる。後腐れないのが必須条件。そんな俺が、惹かれている相手にそんな仕草をされて、煽られないわけがない。

 理性とは何か。哲学だ。正解がない。そうやって、仄かな熱を冷まそうとしていたときだった。


「……フユ、さん?」


 か細く震える藍斗の声。その言葉を聞いたとき、俺は頭に冷水をぶっかけられたようにサッと自分の熱が引くのが分かった。


「あ、ごめん。びっくりしたよな」


 そう言いながら慣れない笑みを形作ると、そっと胸元から藍斗を離す。俺に優しく引き離された彼は、困惑した様子で下から覗き込んでくる。けれど俺はそのまま何も言わずに首を横に振り、否定の意を示した。


「……あ、もう十二時回ってたわ。時間経つのってほんと早いよな。バスタオル出すからシャワー浴びてきなよ」

「……なんで?」


 早口で言い訳しながら準備のためにと立ち上がりかけた俺の動きを止めたのは、袖口をグイと引っ張られた感覚と怒りに近い強張った声。

 つい彼を見てしまった。じっと俺を見つめる鋭い瞳とぶつかった。


「……なにが?」


 体勢はそのままに、掴まれた袖をやんわりと引いてみる。けれど、びくりともしなかった。余計に藍斗の指先に力が入ってしまったように見える。


「なにって……」


 袖口を掴んでいた腕がストンと落ちる。酷く傷付いた顔と、続く言葉が出ない様子の藍斗。俺は自分の答えが間違いだったと理解した。

 つい質問を流してしまったが、それは悪癖だった。彼は今まで触れ合った人間とは違うのに。気持ちを預けたいのに、その一歩をつまらないプライドで踏み出せなかった。最低だ。

 俺なんかとは比べものにならないほど美しい魂を、完全に踏みにじってしまった。

 自分自身に酷く失望した。息が詰まる。こんなにも胸が痛いのは初めてだ。どう切り抜けたら良いのだろう。こんなところで人間関係の経験値の低さが出るなんて。


「……ごめん」


 僅かな逡巡と重い沈黙。これ以上黙り込むのは無理だった。

 俺の口からポツリと言葉が漏れる。何を言うべきか散々考えたけれど、結局どこにでもありふれた言葉以外は思い付かなかった。今は何を言っても取り返しがつかないのだから。


「……それは、どういう意味?」

「どういう意味って」

「どれに対して謝ってんの……?俺のこと拒絶したことに対して?それとも……俺を勘違いさせたって?そういうこと?」

「違う、そういうわけじゃない」

「じゃ、どういうわけだよ……!」


 藍斗の口から次々と言葉が吐き出されるたびに、その澄んだ瞳が苛烈な色を滲ませていく。泣くまいと必死に嗚咽を耐える藍斗を見れば、あの時守りたかった自分のプライドなんて本当にちっぽけだったと死にたいくらい後悔した。

 ああ、また俺は間違えた。


「……フユさんって呼ばれちゃったからさ」

「……え?」


 疑問符を浮かべながら訝しげに俺を睨む藍斗の瞳は未だ揺れている。乾いた唇から漏れた吐息すら、独り占めしたい。


「あのとき、俺の名前じゃ無かったから……藍斗はフユの方が良いのかって」

「違う!そういうわけじゃない!ただ、つい……」

「うん、わかってる。ごめんな。俺のプライドが小さかっただけなんだ。藍斗のことを拒絶したわけじゃないんだよ」

「ごめん……本当にごめん……そっか……俺のせい」


 そうやって自分を責めないで。

 全部俺のせいにしてよ。


 そう言いたかったけれど、それが藍斗に伝わらないことは分かっている。彼は全部を自分の荷物にして背負うことに慣れてしまっている。

 口を開けて何か気の利いた言葉を掛けようとしたが、何も思いつかない。

 初手を間違えた俺の責任まで、持っていかないで。


「藍斗のせいじゃないよ。俺が悪い」

「……でも」

「もう泣くなよ……俺、藍斗の涙に弱いみたいだしさ」

「……へぇ……もっと泣いてやる」

「えええ……可愛いなあ……」


 お互いのすれ違いに気付いたあとは、その隙間を埋めるだけ。

 藍斗の隣に座り直すと、距離も目線も近くなる。甘えるようにくっついてきた彼に、自然と頬が緩む。

 言葉通り本当に涙を零してくるものだから、焦ってしまう。けれど、心は温かい。

 自分の一言で一喜一憂してくる存在を鬱陶しいと思ったことはあれど、愛おしいと思ったことはなかった。こんなにも全てが満たされる人間と一生の間に出会えるなんて、考えもしなかった。


「それ、男には褒め言葉になんないよ」


 むっとした表情すらも可愛らしい。頭が馬鹿になったみたいだ。脳内全部が『可愛い』で埋め尽くされる。魔性って男にも適用されるのか。そんな低俗な感想しか思い浮かばない。


「男にはならなくても、藍斗には褒め言葉になるよ」


 俺はそう言いながら藍斗の頬に右手を添える。彼は強請るようにじぃっと俺の瞳を覗き込んで、照れくさそうに小さく笑った。

 そっと顔を近付ける。互いの吐息が双方の唇に触れた。

 藍斗の両手が俺の背に回る。背中辺りをキュッと掴まれた感覚。逃がさないように。離れないように。

 先ほどのことで、俺への信頼は地の底らしい。

 ――こちらも逃がすつもりは無いけれど。


「……悔しいけど、冬哉に言われるとちょっと嬉しい」

「ちょっとだけ?」

「……いっぱい嬉しい」

「……いい子」


 今度は俺が藍斗の瞳を覗き込んだ。胸の中に灯る情欲が全部伝わればいいのに。そう思って見つめたら、彼の頬が赤く染まる。

 素直でかわいいね。そう言いながら、添えていた手で頬を撫でる。気持ち良さそうに擦り寄ってきた彼は猫みたいだ。更に胸が高鳴る。これを無意識でやっているなら、手練れだろ。

 そろそろ我慢の限界だ。俺にしてはよく抗ったと思う。

 今にも触れそうな彼の唇は、赤く熟れた苺のよう。喰らいつきたい。食い尽くしてやりたい。

 俺は僅かな理性を残したまま、藍斗の唇に自分のそれをそっと重ねてみる。触れた瞬間、すぐに離して反応を見る。彼は気持ちよさそうに、はぁと息を吐いて目をゆっくり開けた。その反応を見て、遠慮はいらない、そう思った。

 今度は衝動に身を任せて唇を奪った。小さく開いたそこから舌をねじ込む。

 彼の身体がビクリと震え、俺の舌と彼のそれが絡まり合う。コクリと飲み込んだ唾液は、俺のものか彼のものか。


 一度灯った男二人の欲情は、全て消化するまで収まることはなかった。

 体育会系と無縁の二人は、過酷な肉体労働にも匹敵するほど体力気力その他諸々を消耗し、あとはもう泥のように眠るだけだった。

 ちなみに、藍斗は自分がシャワーを浴びたのも俺が隣でシーツを交換していたのも気付いていない。事が終わった瞬間、パタリと気を失うように夢へと飛び立ってしまったからだ。

 そしてそんな彼の頭を優しく撫でていた俺のことなど、知らなくていい。こうやって温もりを与えてもらえるだけで、俺は世界一満たされていると胸を張れるよ。

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