6

「……俺もそう思ってたんだよね」

「え?」

「母さんは強いんだって当たり前のように思ってた」


 俺が自分の想いと向き合っているあいだ、彼は彼で何かを考えているようだった。

 藍斗はちょっと遠くの空間をぼうっと見つめながら呟いた。


「実家から引っ越すって決めたあたりだったかなぁ」

「ん?」

「夜中トイレ行きたくて起きたらさ、母さんリビングで泣いてたことあって」

「うん」

「すげぇ小さい声だったから最初気付かなくて」

「……」

「リビングの前の廊下まで来てやっと気付いたくらい」

「ん」

「俺びっくりしちゃって、ついそーっと覗いちゃったんだけど」

「……」

「母さんってあんなに小さかったんだっけって」


 彼はその光景を思い出しているのだろう。クスッと笑ったその音は、あまりにも切なくて心細い。

 あぁ、藍斗はまだ自分を許せていない。きっと己を責め続けて生きている。


「いつも俺を引っ張ってくれてた母さんの背中が、その時は本当に弱くて小さくてさ」

「……うん」

「その時、俺もどうしたら良いのか分かんなくて」

「だよな」

「結局その話は母さんに言えてないんだけどね」

「……そっか」


 俺は、顔を前に向けたまま横目でチラリと隣を窺う。彼の口角は僅かに上がっていた。けれど、瞳は揺れている。こんなにも不安定な存在を目の前にして、どうしたら良いのか分からず正直持て余していた。


「俺もうそこで色々なもの溢れちゃってさ。うーん……言葉にするのマジで難しいんだけど……」

「ゆっくりでいいよ」

「んー……全部要らないなって」

「要らない、か」

「そうそう。もう全部無くして消えたいって感じ。ほんと不思議な感覚でさぁ。なんかこう……スイッチが変に切り替わったっていうのかな……んーうまく言えないや」

「……なるほどね」


 何が『なるほど』なんだろう。

 藍斗の言葉を心から理解できていないくせに、納得したように頷いた。そんな自分が滑稽で笑えた。だけど、彼に寄り添いたいと思った気持ちは本物だった。

 藍斗は俺を見なかった。淡々と話す彼の表情は、また人間から生命の無いボーカロイドへと変わってしまったよう。


 感情があるから人間は期待する。

 だからこそ裏切られたって思う。

 ほんとしんどいよね。


 そう言った彼の視線はドアから床へと落ちていた。ポタリ。床が水滴を弾く。無垢な雫は、照明に反射してキラキラしていた。苦しいほど美しかった。


「俺さあ、そんな母さん見たあとに衝撃的なもの見ちゃったんだよね。不倫と同じくらいショックっていうか、ぶっちゃけショック通り越して笑っちゃったんだけど」

「そんなに?なに見たの?」


 急にテンションを変えて明るく話し始めた彼の姿に、俺は少しだけ戸惑った。彼の眦に浮かんだものを、見て見ぬフリをした。


「偶然入ったスーパーで元父親が買い物してたんだけどさぁ、誰といたと思う?」

「誰とって……その不倫相手は確定だろ?」

「うんうん」

「……まさか、子ども、とか?」


 恐る恐る答えてみたが、正直外れてほしい。でも一方で、正解だろうなと思う自分もいる。こんなにも当たってほしくない質問ってあるか。やりきれない。


「ビンゴ。まぁ離婚して一年半以上経ってるわけだし、百歩譲って赤ちゃんなら状況としてはありえるとは思うわけ」

「てことは、大きい子だったってこと?」

「そう。なんか明らかに幼稚園児くらいの可愛い女の子」

「それは……」


 藍斗が見た事実に、開いた口が塞がらなかった。同じ男として、それはどうなんだろう。

 最も愛を語るに一番遠いところにいるのは俺だけど、それでもそれは道徳的によくないと思う。


「ツインテールがよく似合ってた」

「そうなんだ」

「いかにも、愛されて育ちました!って誰が見ても分かるくらいニコニコしてたよ。両親の間で手ぇ繋いでてさぁ……あー俺そんなことしてもらったっけ?って一瞬考えちゃったよね」


 ばかみたい。


 言葉にならない彼の想いは掠れていた。今にも霧散し消滅しそうなほどに、儚い。

 今でこそ藍斗は笑っているけれど、それを見た瞬間どんな気持ちだっただろう。自分のアイデンティティが崩壊されるほど衝撃だったのではなかろうか。両親の不仲など疑っていなかった少年が経験するには、残酷な現実だったはずだ。

 俺は衝動的に藍斗の頭を撫でていた。髪を染めているのに柔らかく指通りが良い。サラサラしている。きちんとケアしてるんだな、なんて場違いなことを考える。


「慰めてくれるんだ?優しいね」

「いや、なんか柔らかそうだなって」

「ええー?そんなこと言われたことないけど?」


 言い訳苦しいよ、なんてクスクスと笑われた。それでも彼の笑顔を見れたことに安堵する。彼にそんな悲しみは似合わない。ボーカロイドと遜色ない歌声は確かに魅力的だけど、藍斗という存在を知ってしまった俺には、常にボーカロイドとしてのアイを求めているわけではないと自分自身が知っている。


「勿論さ、不倫相手の連れ子って可能性もあるわけじゃん」


 彼は一つの可能性を口にする。相手をフォローしてるわけじゃないけど、そう付け足して。決めつけてしまうには決定打が無いのも事実でしょ、なんて笑っていた。


「そりゃそうだ」

「……ぶっちゃけ、連れ子にそんな顔するか?ってくらい優しい顔してたからさ……正直疑ってるよね」

「ん」

「まぁ……不倫してた時の子どもなんだろうなぁって。勘だけどさ」

「そういう勘って当たるしな」

「そうなんだよね。まぁそれでどうにかしてやろうとは思ってないんだよ」

「うん」

「子どもは悪くないしね。……将来自分の両親かどういう人間だったか、それを知ってあの女の子が苦しまなきゃ良いけど……とは思うけど」


 複雑そうな顔をしながらも、笑顔を浮かべている彼の表情と言葉には嘘が一つも見えなかった。全てを見て、感じて、受け入れて、それでもその子の将来を願える藍斗こそ、幸せになってほしいと強く思う。


「優しすぎるだろ。普通もうちょっと捻くれても誰も怒んないじゃん」

「偽善者っぽいってこと?」

「そこまでは言ってない」

「うーん……でもさあ……俺ほんと悪意を誰かにぶつける気は全くないんだよね。ただ単純に悲しくて泣きすぎて全部痛いなって、全部疲れたなって、ただそれだけなんだよな」

「……まぁ、分からなくもないかな」

「……どういうこと?」


 俺が何も考えずに放った言葉に、藍斗は即座に反応してきた。今まで全然目を合わせようとしなかったくせに、急にパチッと目が合う。つい小さく仰け反ってしまった。


「あー……じゃ俺も話そうかな。昔語りね」

「え」

「いい?俺も割と暗めの話持ってるよ」

「聞きたい」


 苦笑する俺と、ぐいっと前のめりなる彼。

 そっと彼を押し戻して、肩が触れ合う距離を保つ。


「……俺の両親ね、交通事故で死んだ」

「……え」


 目を丸くした藍斗を見て、少し気持ちが和らいだ。


「俺はそのとき学校にいたから無事だっただけ」

「……」

「当時ニュースにもなったっておばあちゃんが後から教えてくれたよ」

「そんなに大きい事故だったってこと?」

「らしいね。俺はそこまで記憶ないんだけど」

「……それって、いつ?」

「小学校入学して、三日後くらい」


 ――あの日のことが頭に甦ってくる。

 初めて『さんすうセット』の箱を開けたとき、パタパタと廊下を早歩きする音が聞こえてきて、俺も隣の席の子も教室のドアへと顔を向けた。先生も不思議そうに見ていたっけ。

 ガラッと思い切りドアを開けた事務の人が『先生、緊急です!』そう言い放って先生の耳元でこそこそと話したあと、俺の元へ来た先生の顔があまりも真っ青で、俺は怖くなったんだ。

 そのあとは、怒涛の勢いで全てが進んだ気がする。気付いたときには病院だったし、涙目で下手くそな笑顔の看護師に『お顔は見せてあげられないの。ごめんね』ってしゃがんで言われた。

 登校班の集合場所に母さんが送ってくれたのが最後の記憶。父さんはニュース見てたけど、俺が『いってきます』って言ったら『いってらっしゃい。頑張れよ』って笑ってくれたのが最後かな。


「そんな……」

「入学式は両親揃って来てくれてさ。それは今でも覚えてる。まぁ、その後はランドセルも見るのすら辛くなっちゃったんだけどな」

「そりゃそうだよ」

「それでさ、確かにその事故も酷かったんだけど……その後も結構修羅場続きでね」

「え」

「親戚に拉致されたりとかね」

「は?」

「学校帰り急に車乗せられたり、どっか連れていかれたりとか。警察沙汰にも何回かなってるよ」

「え、どういうこと?たらい回しとかなら……よくある……いや、よくあるって言い方もあれだけど……」

「うちの両親が割と財産残してくれてたからね。大学も医学部とか行かなきゃ余裕で卒業できるくらいの金あったから、そういうの狙ってたんじゃないかとは思うんだけど……」


 藍斗の方を見れば、彼は俺を見てはいなかった。だから、俺も顔を正面に戻す。


「でも当時はそこまで分かんないじゃん。とにかく大人が怖くてさ……さすがに人間不信になったよ」

「……冬哉も色々あったんだね」

「あったね。だからこそ人間が歌ってる曲がいまいち嘘くさく聞こえて、何も感動とかしなくてさ」

「うん」

「偶然ボーカロイドを知って一気にハマって、今に至るって感じかな」

「あーあの機械っていうか感情が無い感じだよね?わかるわかる」

「それそれ。心がないからこそ、そこに安寧があったのかもな。設定さえきちんとしときゃ絶対裏切らないから」

「すっごく分かる」


 うんうん、と藍斗は大きく頷いた。

 俺が語った出来事はもう十数年前のこと。胸の痛みはまだまだ癒える気配は無いが、事件を伝えるときに涙を流すことはなくなった。

 乗り越えたわけではないけれど、それでも時間が解決してくれたことだって多くある。

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