5

「……使われたい?」


 さっきまでの様子と違う彼に、俺の声色は意図しないで硬くなった。そして、聞きなれない言葉に首を傾げる。

 動画のコメント欄や直接のメールでは、『フユさんに曲を書いてもらいたい』と言ってくる人がいる。もしくはフユさんの曲を歌いたい、とか。

 フユさんに使われたい、と言われたのは初めてだ。そもそも『使われたい』とはどういう意味だろう。


「そう。使われたい。……俺さあ、よくフユさんの曲を歌った動画出してたじゃん?それは知ってるよね?」

「勿論。だってそれ聞いて俺から声掛けたしな」

「ふふ、そうだね。んー…なんて言えば良いのかなぁ。……フユさんの曲が好きっていうのは勿論なんだけど……俺、ボーカロイドが特別好きってわけじゃないんだよね」

「ん?そうだったんだ?」

「……俺さ、ボーカロイドになりたかった」


 そう言い切った藍斗の顔には迷いが無かった。


「いや、今でも自分がボーカロイドだと思いながら歌ってる」

「……なるほど」

「なんかさ、無機物になりたかったんだよ」

「無機物?」

「無機物」


 ――生きていくのが辛い瞬間が数え切れないほどあった。心が無い存在になりたいと強く願った。そんなある日、偶然ボーカロイドの存在を知った。知れば知るほど、ボーカロイドが羨ましくて羨ましくて、ボーカロイドそのものになりたいと思った。

 そう矢継ぎ早に語った彼の表情は明らかに『無』だった。


 感情がゴソッと抜け落ちた顔。

 生気のない唇。

 濁った瞳。


 これは一体誰だろう。先ほどまで目をキラキラさせながら曲を聴いてくれていた彼は、一体どこに消えたのだろう。こんな表情、彼には似合わないのに。

 俺は久々に得体の知れない恐怖を感じた。このまま闇に呑まれそうな感覚。暖かい部屋が何故だか寒い。背中に冷たい汗が伝う。ぞわぞわと鳥肌が立ってきた。


「それさ……理由聞いてもいいやつ?あ、言いたくなければ全然構わないんだけどさ」

「別に大丈夫だよ。割と昔の話だし。あ、先に言っとくね。全然面白くないよ?寧ろ胸糞悪い話だと思う」

「それは気にしない。藍斗が良いなら教えてほしいかな」


 俺は、深淵に身体を持っていかれようと、心を染められようと構わない。今そう決めた。

 椅子からおりて、藍斗の手元からマグカップをそっと取る。彼はきょとんとした顔で、それでも何も言わずに俺にされるがまま。ようやく人間の光が灯った瞳。まだ濁りはあったけど、それでもマシだ。ほっと胸をなでおろす。

 二つのマグカップをデスクへ置いた。そして俺は椅子に戻らず、藍斗の隣へ腰を落ち着ける。

 こんな話をするときは、向かい合わせよりも隣り合わせの方が良い。互いに相手を直接見ないで済むから、きっと何かあったときは都合が良い。それに、どんなに微かな温もりでも、それに縋りたい時だってあるものだ。


 中学二年生という多感な時期に、父親が家に不倫相手を連れてきていたこと。

 部活が急遽休みになった土曜日の午後、まぐわう二人を藍斗が見てしまったこと。


「呆然。裸の女。間抜けな父親。一瞬の沈黙。……こんな感じで未だに断片的にしか言葉にできないんだ。きっとそれ以上は脳が拒否してるんだと思う」

「そりゃその年齢だったらかなりショックだよな」


 曖昧な笑みを作った藍斗の話は、そのまま続いていく。

 その場から走って逃げた藍斗の携帯には、父親から沢山の着信があったこと。

 夜遅くに河川敷でぼうっとしていたら、警察官に保護されたこと。

 少なからず同情もされて、迎えに来てくれた母親と、そのまま母の実家へ行ったこと。


「まさか警察に同情されるとか思わないじゃん?」

「……でも補導されたり怒られたりするより良かったんじゃない?」

「まぁ場所も場所だったしね。俺一人だけだったし、訳ありなのは想像ついてたと思うんだよ。声掛けられた時、妙に優しげだったよなーって今だから思うし」

「そりゃあな。で、その後は?離婚は……したんだろ?」

「そうそう。思ったよりも超すんなり離婚してたよ。うちの母さん、キャリアウーマンそのものって感じだから、俺の話とか警察の話聞いてガチギレして速攻弁護士たててた」

「それは凄い。そして強い」

「役所からの紹介とかじゃなくて、友人の弁護士用意してた。あ、女性の人ね。大学の同級生らしい」


 そう話した藍斗は、その後の過程までも詳しく俺に伝えてくれた。俺はそうなんだ、と頷くだけに留めておく。吐き出したいときは吐き出すべきだし、彼の話を極力遮りたくなかった。

 父も離婚をしたがっていたようで、養育費一括と慰謝料を多めに貰いすんなり離婚できたこと。

 父のローンで買った家は勿論住めず、たった半日だけ荷物を纏める時間を貰い、母と二人で実家へ出戻りしたこと。


「思春期だったのに俺がやさぐれなかったのは、きっと母さんと爺ちゃん達が俺のフォローをしてくれたおかげだと思うんだよね」

「言い方悪いかもだけど、荒れても仕方ないよなっていう出来事だしな」

「そうそう。確かに今でも女性のこと信用できないし、愛だの恋だのっていう感情がよく分かんないんだけどさ、それでも別に生きてはいけるわけじゃん」

「周りの人に恵まれたね」

「……まぁ一番近い人には裏切られたけどね」

「俺折角フォローしたんだけど……」


 藍斗の自嘲には俺も苦笑を禁じ得ない。口調が軽かったから、ああ冗談なんだろうな、とすぐ理解はしたけれど。ブラックジョークはやめてくれ。

 よいしょ。そう小さく言いながら、藍斗は一度足を崩して膝裏を伸ばす。その後は片足を立ててもう片足を胡坐のように膝を曲げていた。


「こっちの足痺れちゃった」

「突っついていい?」

「馬鹿か。怒るぞ」


 人差し指で触れる仕草をすれば、眉間に皺を寄せられた。一瞬だけ目が合って、ぷっと二人で噴き出す。

 重苦しい話をしているのに、二人の空気は何故か穏やか。藍斗の表情だって今は悪くない。


「実家、いつ出たの?」

「ん?」

「最初会った時、母親と暮らしてるって言ってたじゃん?」

「あー……そうそう。よく覚えてんね」

「記憶力は割と良い方だよ」

「ハイスペックだなぁ。……高校入学と同時に母さんと引っ越したよ。一年半くらい爺ちゃんの家に住んでたのかな?なんかその期間で母さんの仕事が割と起動に乗ったし、後は……やっぱり出戻りした人間がいると世間体が悪いって」


 そう苦笑する藍斗の瞳は悲し気な色を湛えていた。


「世間体?今時そんなこと言う人いんの?」

「爺ちゃん達は気にするなって言ってくれたんだけどさ、近所のおばさんでそういうの五月蠅い人がいたんだよね」

「うざいね」

「うざいよねぇ。明治?大正?いつの話?って思った」


 世の中が多様化したとはいえ、まだまだ古い価値観や固定観念にとらわれている人が多い。ジェンダーレス、ステップファミリー、同性愛者――少し考えただけで社会的に少数派マイノリティだろう言葉が幾つか出てくる。

 人間は、いつまで同じ民族同士で傷付け合うのだろう。人に刃を向けるときは、自分も刃に貫かれる覚悟を持ったときだけ。そんな簡単なことすら理解できずに、空き缶をポイ捨てする感覚で軽く他人の心を抉っていく人が多すぎないか。


「母さんさ、自分のせいで両親が周りから言われるってことに耐えられなかったみたい。まぁ仕事は順調だったから金銭的な面は全然クリアしてたし、俺も家事するから二人暮らしでもやっていけんじゃないかって」

「なるほど。でもお母さんの仕事が上手くいってたのが本当に良かったよな。金銭的に安定してるのは強い」

「そうそう。元々バリバリ働いてたし……まぁ結局今は起業してるんだけど」

「自分で会社やってんの?それは凄いね」

「離婚の時に世話になった友人弁護士を会社の法律顧問にしてる」

「藍斗の母さんしっかりしてるんだな……」

「超強かな人だと思うよ。私の人生最大の失敗はあの男を選んだことだ!って言ってたくらいだし」

「……母親って強いな」


 もうぼんやりとしか思い出せない母の笑顔が、一瞬だけ頭を過った。同時にツキンと胸が痛む。刃物で刺されたように、そこからドロドロ血が噴き出すように、心臓から胸部まで鋭い痛みがじわじわと広がっていく。

 辛くなるから、思い出したくない。けれど、母との記憶は消したくない。忘れたくない。二律背反の感情が俺を常に苦しめる。

 一瞬で家族を失ったあの日から、俺の時計は未だ進まない。

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