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俺は不遇だった少年時代をぼんやりと思い出しながら、足早に歩いていく人の群れをベンチに座って眺めていた。
右手にブラックコーヒー、そして左手に最新のスマートフォン。
天気予報によると、今日は真冬日だったらしい。強すぎるビル風が、頬に容赦なく叩き付けてくる。ピリピリして痛い。右手だけが温かいけれど、直ぐに冷めるだろうな。
スマホで確認すると、もう少しで二十二時になろうとしていた。
不意に顔を上げたら、残業終わりらしいサラリーマンが俺を横目でチラリと見てきた。顔も服装も何もかもヨレヨレだ。草臥れすぎだろ。
向こう側からコツコツとヒールを響かせて夜の蝶が顔を出す。行く先は繁華街だろうか。目の周りが黒すぎる。そう思っていたら、一瞬で顔を逸らされた。
マスクで顔の半分が覆われた今の俺は、目元しか出ていない。そして今の服装は黒のシームレスダウンとダメージジーンズ。ちなみに頭は根元まで綺麗に染めてあるプラチナブロンド。ちょうど昨日美容院に行ったばかりだ。
少し俯くだけで左耳からチャリンと音が鳴る。耳を縁取るように等間隔で飾られたピアスは、耳たぶ以外の場所にもついている。おかげで、気を抜くと左に頭を傾けている癖がついてしまった。
わりと俯瞰的に俺の格好を見直せば、顔を逸らしたくなる気持ちも分かる。アンダーグラウンドな出で立ちの奴と関わる人間なんていないだろう。
待ち合わせは二十二時。あと五分。顔も本名も知らぬ待ち人は来るだろうか。
俺の心は十数年ぶりに感じる『人間』に対しての淡い期待と、そんな感情を嘲笑う冷淡な理性との間で揺れていた。
――偏差値が上から数えた方が早い有名私立大学を主席で卒業した後、就活なんて一度もしないままにインターネットの世界へ飛び込んだ。同じ学部の奴がキャンパス内のカフェテリアで聴いていた音が何故か耳に残ったせいだ。音漏れしたイヤホンから微かに聞こえる声が人間のものとは思えなくて、でも人間じゃないという確信もその時は持てなくて、妙に気になったのを今でも覚えている。
聞こえてきた歌詞の一部を羅列して検索かけて出てきたURLをクリックした瞬間、ボーカロイドという存在に出会った。そして全てを奪われた。
俺、何でこんなに鳥肌立ってんの?
無意識に口から出た言葉と共に、頬を涙が伝っていた。衝撃だった。
今までの俺は、どんな音楽を聴いても感動どころか全く良いとも思えなかった。流行りのポップスもロックもジャズも、クラシックやミュージカルだって俺の心を動かせなかった。それなのに、生命が無いボーカロイドの声こそがクレバスのような心の隙間をピッタリと埋めた。
あの頃の俺は、ありとあらゆる全てに期待をしていなかった。きっと歪んでしまった心には、無機質でただメロディをなぞるだけの人工音声がちょうど良かったんだろうな。
兎にも角にも、そこから俺はボーカロイドプロデューサー『フユ』として動き始めた。
俺は自慢じゃないが、頭の回転は割と速い。音楽ソフトを使いこなせる自信はあったし、実際一日で完璧に使いこなせた。次の日にはもう何曲か完成していたんじゃないかな。歌詞だってそんなに悩んだ記憶はない。
アップロードした曲のほとんどが百万以上再生されたけど、別に他人の評価はどうでも良かった。ただ単に自分が作ったメロディをボーカロイドが歌ってくれることに意味があった。
気付けばいつの間にかプロアマ問わず色々な歌手やバンドマンが俺の曲をカバーしていたし、手続きや法律関係があまりにも面倒くさくて一番初めに連絡してきた事務所に所属していた。
その中で一人。
偶然見つけたのは、宇宙に漂う小さな塵。
『これ、なんだ?』
その声を、その歌を初めて耳にしたとき、俺の手はキーボードを打とうとしたままピタリと止まった。
作業をしながら自分の曲のカバー動画をランダムで見ているときは、いつもなら一回再生をタップしたらあとは放置するだけ。その俺が、スマートフォンの画面を凝視するほどなんて。こんなの有り得ない。
顔は映していない。
でも間違いなく人間が歌っている。
喉仏がある。
きっと男だ。
でも声が高すぎるだろ。
高音で作ったはずなのに、原曲キーそのままかよ。
本当にこいつは男なのか。
モノクロが色付いた瞬間だった。
突き抜けるハイトーンヴォイスと脳髄に響くファルセット。変に感情を入れるわけでもなく、淡々と歌っている。身体だって揺れていない。
それなのに、声から伝わってくる苦しいほどの熱情とどうしようもない諦めが、確かに俺の心を揺さぶった。
会いたい。それは直感だった。
俺の片割れはこいつだ。それは確信だった。
とても衝撃的だった。
「……こんばんは」
とっくに冷たくなったコーヒーをちょっとずつ飲みながら、視線をスマホの画面にやっていた俺の頭上から、若い少年の声が聞こえてきた。
声変わりすらしていないのか。こんな時間に、誰だろう。
頭を上げた俺の目に飛び込んできたのは、黒と赤メッシュの髪。そして顔のパーツが整いすぎた人形、いや人間。
ストップした脳が無理矢理動かした視線の先には、俺とは逆に右側だけ馬鹿みたいに多いピアス。
服装は、一言で言えば真っ黒。十字架やらチェーンがついていて、かと思えば一部ひらひらと切り刻まれている。オシャレといえばオシャレだ。こういう服装を好む人間はよく原宿にいそうだな。大学にもいた気がする。ああそうだ。ヴィジュアル系って言うんだっけ、なんて妙に冷静になってしまう。
「あのー……フユさん、で合ってます?」
言葉を失った俺を見て、目の前の少年は少し焦りながら小さく首を傾げる。
その問いで、ようやく自分の待ち人が彼だと理解した。
「そうだけど……アイくん?」
そう答えながらも、俺は焦っていた。こんな時間に待ち合わせしたのはどう考えてもまずい。
明らかに彼は補導されてしまう。運が悪ければこのまま交番や警察署に連れていかれるかも――。
「あ、はい」
「だよね。あー……何歳?いや、会ってすぐ申し訳ないとは思うんだけど、ほらこんな時間だし……」
スマホのロック画面で時間を確認すれば、当たり前のように二十二時は過ぎていた。
補導される時間って何時だっただろう。いや、そもそもお互い健全とは言い難い出で立ちだ。それは冬哉だって自覚している。これは補導の前に職務質問か。さすがにそれは怠すぎる。
「え、時間?まだ二十二時……あ、俺もう二十四なんで補導されないですよ」
「は?」
「ん?違いました?」
「いや、合ってる……いや、え……年齢?」
「年齢です。俺、こう見えても二十四ですよ」
「……タメじゃん」
「え!同い年なんですか!うわー、偶然!」
目の前の少年は俺と同じ二十四歳。ヴィジュアル系の恰好が似合っていて、美少年の枠から抜けていない、見た目がまだ十六歳くらいの子が――。世の中って広い。怖い。
「……ほんとか?」
「ほんとですよ!」
まだ疑う俺に、彼は朗らかに笑った。
「隣、良いですか?」
「あ、うん。ていうか同い年なら敬語じゃなくて良いよ」
「……じゃ、遠慮なく。これ見て、ほら」
綺麗に微笑んだアイは、手に持っていた鞄からパスケースを取り出した。そこに入っていたのは運転免許証。確かに俺と同じ生年月日――生年月日?
「……誕生日まで一緒かよ」
「え!十二月十四日?」
「十二月十四日」
「……マジで生年月日一緒?」
「一緒」
「うわあ……運命?」
「……かもね」
アイの心底驚いた顔に、ふはっと息が漏れる。つい笑ってしまった。成人したとは思えないほどくるくる回る表情に、知らず知らずのうちに頬が緩んでしまう。
俺が一瞬で捨ててしまった幻想みたいな希望を、アイは捨てずに告げてきた。その真っ直ぐな想いと素直さが、俺の瞳には余計に眩しく映った。
「本名、藍斗っていうんだ。あぁ、だからアイね」
「そそ。フユさんも本名もじってんの?」
「いや、俺は冬哉が本名」
「あートウヤのトウが冬って漢字なのか。だからフユ?」
「正解。冬哉って呼んでよ」
「じゃ俺のことは藍斗って呼んでね」
「わかった」
澄み切った星空の下、手は凍え切っていたけれど、俺の胸は満ち足りていた。
今まで一人きりで生きてきて、別段それを悲しいとか寂しいとか不幸だとか惨めだとか、自分自身を卑下していたつもりは無かったけれど、藍斗と出会った今、ああ自分は孤独だったのかもしれないと初めて感じた。
今まで何度も『可哀想』『慰めてあげる』と言われてきたけど、やっとその言葉を放った相手の気持ちを知れた気がする。どうしてそう言われ続けてきたのかも、何となく分かった気がする。
藍斗の隣にいると、何年も前から一緒にいる感覚になる。幼馴染のような、親友のような。実に不思議な気分だ。
衝撃を受けたあの日あの瞬間から、毎日その声を画面越しに聞いていたからなのかもしれない。
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