狐と狸のもふりあい
緑月文人
第1話
狐と狸。ともに『化ける獣』であるとされながら、外見が醸し出すイメージが対照的なせいか、昔話や民話の類では、対立して化かし合う話も少なくない。
これは、そんな対照的な存在がほんの少し、触れ合うだけの話。
深い山の中を、とぼとぼと一人の少年が歩いていた。
木々が纏うのは、深い緑だけではなく燃えるような真紅と黄金色。
その鮮やかな色には目もくれず、少年は身を丸めながら、俯いてひたすら足を動かし続ける。
「……あれ?」
木々の群れが唐突に途絶え、その先に一軒の古めかしい洋館が立っていた。
足を止めて眺めた後に、おそるおそる近づいてみる。
「……どうかしましたか?」
「わうっ!」
声をかけられて思わずびくりと身をすくめて声を上げる。
「驚かせてしまってごめんなさい」
声は静かに詫びる。上等な鈴を転がして鳴らすみたいに、透き通ってよく響く声。
声が聞こえた方向に目を向けると、そこに綺麗な女の人が立っていた。
ほっそりとした体に薄紅の着物と緋色の袴。足は黒いブーツ。大正時代の女学生めいた格好だが、古めかしい洋館の雰囲気と相まってよく似合っている。
まっすぐに垂れた髪は、透き通るように色が淡くて艶やかだ。淡雪のような色合いの髪と肌は日本人離れしているが、意外なほどしっくりと身にまとう和装になじむ。
切れ長の眼の中で、硝子玉をはめ込んだような瞳が少年をまっすぐに見つめる。
「君、狸ですか?」
びくっ。
出会い頭に正体を言い当てられて、少年の身体が大きく震える。
「え……え……あの……?」
おたおたしていると、隠していた尻尾が出てしまった。狸の丸っこい尻尾を慌てて手で覆うも、それでは隠しようがない。
「大丈夫、私も人に化けた獣ですよ」
するりと女の人の腰から何かが出てきた。ススキのように白くてふさふさした毛におおわれた尻尾。狸のそれより、細く優美に見えるが一本だけではない。
「いち、に、さん……九本」
白い火炎のように揺らめく尾の数を数えて、少年はおそるおそる問いかける。
「九尾の狐?」
「はい」
びくん、とはねた少年の体が縮み、ふわふわとした茶褐色の毛におおわれる。
「ふー!」
「狐は嫌いですか?」
少年の姿を消して本来の姿に戻って威嚇する子狸に、秀麗な女の姿をした狐は問いかける。鼻筋の通った白い細面に表情は浮かんでいないが、ほんの少し困っているように見える。
「き……狐は好きじゃない!」
「理由を聞いてもいいですか?」
「だって、狸は狐に比べてお下品で間抜けなイメージがあるって……人間の友達がいっていたもん」
「……はい?」
女は首をかしげる。
「俺、人間に化けて人間の小学校に通っているけど……学校の図書室にある昔話を読んだ友達が……そんなこと言っていた」
「……いえ。そんなことはありませんよ」
「でもでも!狐はきれいな女の人に化けて人間と子供までできるお話が多いって。狸はそんな話ないのに!別の友達は、かちかち山のお話でお婆さんを殺してその死体をお爺さんに食べさせるなんてひどいことするから、狸は嫌いだって言ってた。狐ばっかり人気者でずるい!」
「ず……ずるいですか?」
ほっそりとした綺麗な白い面に、淡く苦笑が浮かぶ。
その顔を見て、ちくりと子狸の胸が痛む。こんなこと、この狐さんに言ってもただの八つ当たりだ。そう自覚はできても、常日頃から抱いていた気持ちは消えない。
狐のすらりとした優美な姿や、狸よりも色素が薄い美しい毛並みを見るたびに、苦しい気持ちになる。
自分が欲しくてたまらないのに、手に入れられない。そんなものを生まれつき持っている相手を見るだけで、胸の内が痛みを伴うほど熱くて苦しい。
「い……いえ、ですが、狸の異類婚姻譚というものも全くないわけでは……」
「それでも狐の方が有名だもん!人間の友達もそういってた!それで腹が立って友達と喧嘩になって、お母さんに怒られて、家飛び出して……」
「帰りたくなくて歩き続けているうちに、ここにたどり着いた……と?」
「……うん」
話しているうちに、涙が盛り上がってきて俯いた。不意にきゅうと腹が鳴る。そういえば、家を飛び出してから何も食べていなかったと気づいて、秋風にさらされた体がいっそう冷える。
「……少し上がっていきますか」
狐は、白い手で洋館を指し示す。
「ここに住んでいるの?」
「はい。私一人だけではありませんが」
狸は少しだけ迷った後にこくりと頷いて、狐の後についていき洋館の中に入る。
内装は古めかしいが掃除が行き届いている清潔な廊下を眺めて歩いていると、不意に声がかかった。
「どうしたの、その子?」
若い男の声だ。びくっと身をすくめて狸が顔を向けると、ドアが緩やかに開き、そこから二人の男が顔を覗かせる。
一人は燃えるような赤毛と大柄な体躯。もう一人は流れるような黒髪と細身の体躯。顔立ちが整っていることを除けば、対照的な外見だが、二人に共通しているのは頭部に生えている角。
「……お、鬼っ!」
「あ、ごめんね。びっくりした」
びっくりして目をむいた狸に、赤毛の鬼が笑いかける。もう一人の黒髪の男の方は無言で眉を顰める。
「……この子に何か温かいものを食べさせたいのですが」
「温かいものねえ……あ、君インスタント食品とか嫌い?」
「あ……え……ええと好きです」
赤毛の鬼から聞かれて、身を固くしたまま狸は答える。
「赤いきつねと緑のたぬき、どっちがいい?」
有名なカップ麵の名前を聞いて一瞬考えこむも
「えーと……赤いきつね」
「分かった。ちょっと待ってね。旦那も食う?」
「いらぬ。というか、前から疑問に思っていたがその商品名はどういう由来なのだ。何故狐が赤で、狸が緑なのだ?」
「ん~、確か狐は『お稲荷さん』のイメージが強いから赤、狸はその赤の補色である緑だから……だったと思うけど」
赤毛の鬼が奥に引っ込んで、黒髪の鬼とあれこれ話をしている。
「……なんで鬼と狐が住んでるの?」
「いけませんか?」
「……いけなくはないけど」
(狸の俺だって、人間の中で暮らしてるし)
などと呟いているうちに、隣の部屋に案内される。目の前を歩く狐のふわりとした尾の群れが目に入る。尻尾以外は、ほっそりとした優美な人間の女の姿を保っているのに、なぜかちぐはぐな印象はない。
「……触ってみますか」
不意にかけられた声にびっくりする。狐はこちらを振り返ることさえしていないが、子狸が尻尾を凝視していることに気づいたようだ。
「い……いいの?」
「かまいません」
目の前に雪のような色合いの尾が差し出される。しばらくためらった後に、おそるおそる前足を差し出す。
「……ふさふさしてる」
降り積もった雪のような白さに反して、柔らかくて温い。しばし夢中でその感触を味わっていると、九本の尻尾が揺らめき、毛布のように柔らかく身を包み込む。
「わあ……」
冷えていた全身に、じわじわとぬくもりが浸透していく。ささくれていた気持ちがゆっくりとほぐれて、胸の内の熱い痛みがすうっと引いていく。
「……あの」
「どうしました?」
尻尾にくるまれたまま言うと、狐が尻尾を離して問いかける。離れてしまった柔らかいぬくもりを名残惜しく感じながら言う。
「えっと……触ってみませんか?」
ひょいと自分の尻尾を差し出しながら言うと狐はかすかに目を見張る。
「いいのですか?」
こくりと狸が頷くと、白い繊手がゆっくりと子狸の尾に触れる。
愛くるしいほど小さな体と同じく、温かそうな茶色の毛に包まれた尻尾。もふもふと柔らかな手触りをゆっくり味わうように、細い指がなでさする。
(ちょっとくすぐったい)
子狸がそう思いつつ、短い足をばたつかせたくなるのを堪えていると、狐がぽつりと呟く。
「ふかふかです」
「でしょう」
「おーい、できたよー」
えへへ、と得意げに狸が胸を張っていると、不意に先ほどの赤毛の鬼の声が耳に届く。
太い腕が差し出したカップ麵を受け取り、香りが鼻から入りこむとともに
「いただきます」
と言って自然と口をつけていた。もちもちとした食感の油揚げと麺をちゅるちゅると吸い上げ、温かく柔らかな味わいのスープをのみ込み、瞬く間に胃の腑に収めていく。冷えていた体が内から熱に満ちていく。先ほどの胸の痛みとは違う、優しい熱だ。
「ごちそうさまでした」
食べ終えた子狸が礼を述べ、視線を窓に転ずると淡い薄闇が訪れていた。
「あ……あのそろそろ帰らないと。お邪魔しました」
「送ります」
狐が静かに告げて立ち上がり、指先までほっそりとした手を差し伸べる。
子狸がその手を握ってみると、白磁のような白さなのにほのかに温い。
外へ出ると、紫がかった夕暮れが周囲を包み込んでいる。せっかく体に灯った温もりが逃げてしまう気がして、思わず子狸は狐の九尾にそっと手を触れる。
先ほどと同じ柔らかさとぬくもりに、ほっと安堵する。
「大丈夫ですよ」
すいっと、狐が手をかざすと青みがかった月のような色合いの炎の玉――狐火が生まれ出る。色合いに反して温かいそれは、薄闇と冷気を押しのける。
時に熟れた果実のような朱色に、時に朝日のような黄金色に――変幻自在に色彩を変える狐火に照らし出される道を進み、山を出る。
周囲に人の姿はないが、街灯が淡くともっている。
「あ……あの、ここからはもう一人で帰れます」
山を下りる最中に、少年の姿に戻った子狸が告げると、狐は
「もう少し先まで送りましょうか」
と言ってくれるが、
「大丈夫です。ありがとうございました……それとあの……」
と子狸は一瞬口ごもった後
「最初、失礼なこと言ってごめんなさい」
と小さな頭を下げる。
「いえ、気にしていません。それでは、気を付けて」
そう告げて、狐は踵を返す。ほっそりとした背中を眺めて子狸は、今度赤いきつねのお礼に何か持っていこうと決める。
狐さんだから、油揚げがいいだろうか。でも一緒にいた鬼さんへのお礼も油揚げでいいのかな。
などと考えつつ、子狸は帰路を急ぐ。
まずは、家に帰ってお母さんに謝ろうと決めて。
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