御陵衛士編 10話 散りてあとなきⅡ 散るために咲く
[1]
角屋の二階、青貝の間
伊東の希望で座敷の窓が大きく開け放たれる。
座敷の壁に埋め込まれた螺鈿細工、部屋に差しこむ月明かりが反射し僅かな揺らめきを見せる。
それを楽しむためにわざと灯も控えめにしている。
吹き込む風が心地よい。
江戸から帰ってきたばかりの頃は、まだ夜風が身に染みたが……
季節はすでに春なのだ、それを改めて感じながら平助は月を見ていた。
自分だけが前に進めていない……
そんな気持ちを持て余し、月から目を逸らした。
伊東が手にする紅色の盃、艶やかな衣装を身にまとった花魁が蠱惑的な笑みを浮かべて酌をしている。
その花魁は島原では必ず宴席に呼ぶ、伊東のお気に入り花香太夫。
『絶対に呼ぶのを忘れてはいけない』と三樹三郎に言われている。
「花香がいないと……兄貴の機嫌が悪くなる 」
伊東先生に限って……平助は苦笑する。
そのようなことで機嫌を損ねるような先生ではない……そう思ってる
そう思うが兄の前でだけは、礼儀正しく兄上と呼ぶ三樹三郎が示す兄への気遣いなのだと思って言われた通り、今夜も花香の手配を一番にしておいた。
「伊東先生、明日の成功を祈っております。」篠原が自分の盃を軽く伊東に向けて上げた。
皆がそれに倣うように盃を軽く持ち上げると口に運ぶ。
「毛内さんもよろしくお願いします。」平助は毛内にも声をかける。
毛内は緊張した顔つきで盃を口にしていたが、恥ずかしそうに皆に会釈を返す。
明日は今までより大規模に勉強会が開かれる。
伊東の後に毛内も自分の研究について講義することが決まっている。
今からもう緊張が隠し切れないようで先ほどからずっとそわそわしている。
今回は西本願寺、寺侍の西村もぜひ参加したいと言ってくれた。
西本願寺敷地では大砲調練をしないことを約束した伊東のことを評価しているからだろう。
この勉強会のために膨大な資料を揃え、間違いが無いかを確認する作業を行った平助も明日が無事終わることを願っている。
「毛内、今から緊張していたら明日どうするのだ? 」服部がぼそっと呟く。こちらは酌のために隣に座る女から銚子を奪うと自ら酒を注いで飲んでいる。
「……服部さん。明日みたいに大勢の前で話すことになったら、あなただって緊張するに決まっているよ」毛内が笑いながら言い返す。
「毛内さん、大丈夫ですよ。あれだけしっかり準備したのです。念のため屯所に戻ったらもう一度資料を確認しておきます。 」
平助が励ますように声をかける。
「ああ……今回の準備では藤堂君にずいぶん助けられた。
その礼と言ってはなんだが……
大砲調練も頭では理解できているつもりだから。手伝えることがあったら言ってほしい 」
「おっ!出るか!剣術以外はなんでもできる毛内さんの百人芸が!」囃し立てる加納に篠原が眉を顰める。
「加納、先生の前だぞ。控えろ。……藤堂、無理な時は先に言え。
あとから『できませんでした』では伊東先生が恥をかくことになる 」
「はい……承知しております。」真剣な顔つきで平助が答える。
「篠原…… 」服部がわずかに皮肉な笑みを見せる。
「先生の前だ、さっき注意されたことをもう忘れたのか 」
「……先生っ!失礼しました。」篠原は袴をさっと整え、座りなおすと伊東へ頭を下げた。
「篠原君も服部君も……いつまでも堅苦しいのはよさないか
私は今は道場の主ではない。新選組の同志、という立場なのだから…… 」
皆の顔を一通り見回す。
「皆で日頃の労をねぎらい、明日が無事に成功するよう祈ろう。
篠原君も柔術師範になってから忙しすぎていらいらするんだろう。
明日が終われば一度まとまった休みを取るといい……藤堂君も 」
そう言うと機嫌のよい顔で二杯目の酒を口に運んだ。
[2]
「特に、藤堂君は巡察か私の供をするときくらいしか外出もしていないように見えるが…… 」
江戸から戻ってひと月近くになるが……ずっと仕事にかかりきりでいた
婚礼祝いを届けに左之助さんの新居を訪れた、あの時が唯一自分のために使った時間かもしれない
仕事に集中していないと……抑えている気持ちが大きくなる
あの人を憎みそうになってしまう……
座敷の空気が重く、暗くなった気がして窓の外へ視線をやるが、月は雲に覆われ姿を消している。
暗くなったのを月のせいにした……
最近は非番といえば伊東先生の部屋で過ごしていることが多くなった。
そうしていれば……試衛館の人たちと顔を合わせないですむ
避けている……そう思われても当然の俺の態度
それでも新八さんや左之助さんが気にかけてくれ、源さんが心配してるのも知っている。
山南さんの介錯をした沖田さんのほうが、俺よりずっと辛いはずだ……
ちゃんと皆と話さなければ
そう……あの人のことも憎んだり恨んだりしてはいけない
わかっている
それでも頭でわかるということと気持ちはまた別だった……
心が……あの人のことを拒む
あの人に認められたいと思っていた自分自身をも……拒んでいる
「……祇園へもまったく行ってないようだが 」ふと思いついたという口ぶりの伊東が平助を見る。
祇園……
もちろん一度も行っていない……
「一力……だったかな? 近藤先生のお気に入りの芸妓がいる店 」
「……はい 」目を伏せたまま短く答えるが声がかすれてしまったかもしれない。
「たしか君尾……藤堂君といい仲だそうじゃないか。加納君に聞いて驚いたよ 」
伊東先生が苦笑混じりなのは君尾に酒をぶちまかれたことを思い出したせいかもしれない。
「きみが京へ戻ってくるのを待ってるだろうに……なぜ会いに行かないのだろうと思ってね 」
「それは…… 」
……戻ってからひと月になるというのに一度も君尾に逢いに行ってない。
帰ってきたことすら知らせもしない恋人のことをきっと怒るだろう……いや、悲しむのか
山南さんのことがあったのに……
江戸へ行く前からずっと山南さんが悩んでいた
そのことを知らないわけではなかった
知っていたのに……
それなのに何もできなかった
俺だけが恋人を猫と呼び、浮かれていることなどできるはずがない
明里さんを残して一人逝ってしまった山南さん
山南さんは最後に明里さんに逢えたんだろうか……
お土産のお茶を明里さんに持っていくことも考えたがきっと辛くさせてしまう
そう思ってずっと押し入れにしまったままのお茶
押し入れを開けるたびに目にするのがたまらず、今日みなで飲んだ。
そして渡す当てのなくなった簪だけが残った……
答えることができない俺に伊東先生が「実は……加納君と花香から気になる話を聞いたものだから 」
先生が花香太夫と意味ありげに視線を交わす。
[3]
「藤堂君が祇園へ行かないのはもしかしたらそれが原因なのかと……関係ないなら別にいいのだが」
「なんのことでしょう…… 」
俺は顔を上げた。
花香太夫が伊東に許可をもらうように一瞬視線を送る。
「……ほんまは、こんなん言うてええんかわからへんのどすけど 」
それでもまだ口ごもる花香に続けるよう促す。
「ここは島原どすけど……花街のことはどこの噂でもすぐ入ってくるんどす 」
「……ええ」話が見えず戸惑う
「実は祇園の君尾はんのことで気になる噂、聞いたんどす…… 」
「君尾の噂?…… 」
うちもようは知らんのどすけど……
そう前置きして花香が語った。
『祇園に君尾あり』と謳われる祇園一の華。
美貌だけでなく、その芸においても一流を極める。
君尾の舞の見事さは見るものを魅了し、贔屓にする旦那衆が後を絶たない。
旦那衆たちは当然座敷の後の艶事を期待してしまうが、惚れた男以外にはどれだけ金を積まれても体は許さない君尾
それが逆に粋だとますます人気を集めていたはずが
『君尾が新選組のなんたらいう偉い先生に……一晩二百両で買われた……』
その噂に悋気を起こした旦那衆らが真偽を確かめに一力へ押しかけ一騒ぎとなったらしい。
一力では上手く話を治めたつもりでいたがこういった話はすぐに広まるものなのだ。
話はそれで終わらない。花香太夫の話はさらに続く
「……えらい無茶されはったんやろうなぁ。
君尾はん、しばらくお店休まなあかんほどの怪我させられたみたいで……ほんまひどい話 」
新選組の偉い先生……
「……それは…… 」
君尾に執心していた近藤先生の顔が浮かぶ
「……近藤先生のことですか 」
伊東が難しい顔で黙っている。
平助は立ち上がると、そのまま部屋を突っ切り襖に手をかけたところで
「藤堂、勝手は許さんぞ。どこへ行く!」篠原に呼び止められるがそのまま座敷を出る。
慌てて後を追おうとする篠原を伊東が制する。
篠原の代わりに加納に顎で平助の出て行ったほうを示す。
「かしこまりました! 」加納が勢いよく立ち上がって青貝の間を出て行った。
[4]
「もうお帰りどすか! 」
木札を渡すと番頭が帳場の脇の刀箪笥から預けていた刀を出してくる。
黙ってそれを受取ろうとした時、すっと伸びた手が刀を押さえる。
「加納さん…… 」
「……帰る前にもう少し話さないか? 藤堂ちゃん 」
そのまま平助の肩に手を回して屯所のある西本願寺とは別のほうへ歩き出す。
平助がそれを振り払っても、気にせずもう一度肩に手を回し先ほどより強めの力で平助の背を押す。
「それにしても……篠原さんは相変わらず藤堂ちゃんにきついよな 」
「いえ、気にしていません 」
「そういう生真面目でいい子風な発言がむかつくんだって 」
「……すみません 」
加納があきれ声で「ったく……俺じゃなくて篠原さんが、だよ。篠原さんはさ、伊東先生が大好きだからな。
先生が藤堂ちゃんをかわいがると嫉妬するんだよ 」
……そんなこと
先生は贔屓などしない
きっと山南さんを心から悼んでいるのだ……
そして……山南さんがかわいがっていた俺が落ち込んでるのが見るに堪えないのだ
「藤堂ちゃん、さっきの話だけど…… 」
「その話はしたくありません 」話を遮り足を早める。
「気持ちはわかるけど、そんなにカッカして帰らないほうがいい 」
「……冷静なつもりです。」
「まあ待てって……そっちの先生……じゃなくて近藤先生のことだけど、なんでも一力に『金を返せ』ってねじ込んだらしいんだ 」
「……金を? 」平助が立ち止まる。
「どういうことですか? 」
加納がもったい付けたように笑みを見せる。
「まったく……鈍くて困る。
何もなかったから金を返せって話だろ……そもそも金の出所が隊の経費だって話も 」
「それは本当なのですか 」
「……伊東先生が会計方に探りを入れたら二百両貸し出されて数日後には百両返されてた。」
加納が意味ありげな目を平助に向け、近くへというように手招きする。
「藤堂ちゃんの女が怪我をさせられたのは本当の話。
でも何もなかったはずだって伊東先生が……
だから心配しなくていいって先生は教えようとしたのに、最後まで聞かないで出ていくから……俺までせっかくのいい酒飲み損ねただろ 」
どこかいい店が無いかと、あたりを見まわしながら
「ただ……二百両出してでも欲しかった女と二人きりでいたのに、」
そこで言葉を切って平助の顔を覗き込む
「なんで何もなかったと思う? 」
「なにかご存知なのですか 」
「実は……その日が 山南さんが脱走した日なんだ 」
幹部全員が非常招集ということで全員集まっているのになかなか顔を見せなかった近藤。
土方がこっそり山崎を使って呼び戻したらしい。
ひどい話だよな……?加納はさらに小声で続ける
「しかも……土方ってどういうやつ? 近藤さんの言うことも聞かないらしいじゃないか。俺たちは伊東先生の言うことはちゃんと守るけどな…… 」
「土方さんもなにかあるのですか? 」
緊急の幹部会でみなが山南を心配こそすれ罪に問うことなど避けたい雰囲気。
そんな中、ただ一人土方だけが強硬に脱走を主張した。
江戸へ所用で出かけただけで脱走ではない……長期の休暇のようなもの、そう落ち着きかけたのを無理やり沖田に追わせた
連れ戻されたあと伊東と永倉が山南を再び脱走させるために奔走したが山南はそれを拒み静かに処分を受け入れたのはきっと土方の性格を知り尽くしているからだろう
加納がその後も何か話しているが耳に入らない
とにかく一人になりたくて理由をつけて加納と別れる。
山南さんが脱走した日……
山南さんがそれほど苦しんでいたという時に……
近藤先生がしていたことはなんだ
部下の恋人と知っていながら自分の物にしようと怪我までさせた……
そして……幹部全員が山南さんに罪を負わせたくない。
その思いで絞り出したであろう案をいっさい考慮してくれなかった、あの人
……土方
あてもなく京の町を歩き続ける。
いつまでそうしていたのか……
気づけば闇一色だった空に月が姿を見せている
俺は月を睨む……
鯉口を切るか切らないかの内に腰を落とす、すでに刀は鞘から抜き放たれ宙を水平に斬った
肩で息を吐く
まだ屯所には帰れない、今帰ったら……何だってできる
月に魅入られそうで慌てて目を伏せた。
美しく散ることを選んだ山南さん……
でも……俺は
……しがみついてでも咲き続ける
今はまだ……
俺は目を上げた
散る時ではない
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