第12話 私だって恋をしてみたい!


 宿舎の風呂場は大浴場であり、温泉が湧いている。男女別れており、深夜帯でなければいつでも入浴が可能だ。飾ってない簡素な造りではあるけれど、それが落ち着ける雰囲気となっている。



「ツバキよ。そなた、良いのか」



 そんな大浴場で身体を流していたツバキにロウが問う。ロウは掃除前の時間帯でという条件のもと、入浴の許可が降りている。


 ツバキはなんのことだろうかとロウを方を見遣れば、彼はなんとも言い難い表情を見せていた。



「あの男のことだ。そなたに向ける好意を隠す気のない」

「イザークね。まぁ、いいのかなと」

「ツバキよ。そなた、男に裏切られていることを忘れてないだろうな?」



 ロウに言われてツバキは顔を顰める。確かに自身は婚約者に裏切られているのだが、それはあまり思い出したくはない。彼はきっと心配しているのだ、また悲しむ結果になるかもしれないことに。


 信じていた人に裏切られるというのは想像以上に辛い。それは実際に経験しているので痛いほど理解しいている。



「だからと言って彼を疑う理由にはならないでしょう?」



 誰もがそういった存在とは限らない。女癖が悪い男もいれば、男に溺れる女もいる。恋に積極的な人もいれば、臆病な人もいるように。


 元婚約者のように簡単に寝取られる人もいるだろうけれど、それとは逆に強い心を持っている人もいるだろう。ツバキは「あの方と一緒にするのはよくないわ」とロウに言う。



「あの男は論外だ。そなたの婚約者としては失格だった。女に現を抜かすだけでなく、ツバキを裏切ったのだからな」


「少なくとも、イザークはあの方とは違うと思うわ」



 隠すことのない正直さと、戦いにおいての冷静さと判断力、危険なことへの注意と叱る優しさ。それらは元婚約者とは違っている。同じ部屋で過ごしているがイザークは特に何かしてくることはない、たまに視線がうるさいぐらいだ。



「悪い人だとは思わないのよ」

「まだ分からぬだろう」

「そうだけれどね。だったら、まだ見定めるべきでしょう?」



 まだ相手のことを知らないのならば、知っていけばいい。どんな人なのかを見定めればいいのだ。そうツバキに言われて、ロウはまだ何か言いたげに見つめていた。


 娘のように可愛いと言っているぐらいなのだから余程、心配なのだろう。これは確かに高い壁だなとツバキは小さく笑う。



「それにね、ロウ」

「なんだ、ツバキ」

「私だって、恋がしてみたいの」



 ツバキの言葉にロウが目を丸くさせる。それを見つめながらツバキは「私、したことないのよ」と言う。


 恋というのをする前から婚約は決まっていた。だから、恋をするという感覚というのがよく分からない。この人は私の婚約者なのだ、ならば愛さなければとそう思って接してきた。


 それが無理をしているように見えたのかもしれない。自分でもちゃんと愛せているのかは分からなかった。けれど、それでも婚約者のことを好きだとは思っていたのだ。


 こうやって自由になってから思うのだ、恋というものがしてみたいなと。人を好きになっていく過程を、愛するという感情を体感してみたい。ツバキは身体を流すと石鹸を泡立ててロウの毛を洗い始める。



「決められた結婚から解放されたのだから、恋ってしてみたいじゃない」


「だからと言ってあの男を選ぶのはどうなんだ」


「イザークが私を恋に落ちさせてくれるかもしれないじゃない。私、彼のこと嫌いじゃないからありえるわよ?」



 今のところ、イザークを嫌いになる様子は特にない。突っ込みどころが多い点はあるけれど、悪い印象がないのだから恋に落ちる可能性はあるのだ。そう言われて、ロウは毛を洗われながらむーっと唸る。



「……まぁ、ツバキには新たな恋をしてほしいとは思うけどな」

「そうでしょう? 私もしたいのよ。恋ってどんな感じなのかしらね?」



 よく、好きな人に会うと胸が高鳴るとか、緊張するとか、嬉しくなるとか。そういったことを聞くけれど、実際はどんなものなのだろうか。考えると気になってしまうのか、ツバキは目を輝かせる。


 そんな楽しげなツバキにロウは止めるのもよくないかもしれないと思ったようで、「ちゃんと気をつけるのだぞ」と返した。



「もちろんよ。それにロウがいるのだから大丈夫よ」

「ワシへの信用が大きな、嬉しいが」

「私を助けてくれたのだから信用もするわ」



 助けてくれて、側にいてくれて、心配をしてくれるそんな相手を信用しないほど捻くれてはいない。ツバキはロウの身体を流してやる。


 汚れを綺麗に落としたロウはぶるぶると身体を振って水気を飛ばした。ツバキももう一度、自分の身体を流してから立ち上がる。うんっと背伸びをしてから大浴場を出た。



「でも、恋ってどういったものか分からないから、どう接したらいいのか分からないのよね」


「普段通りでいいとワシは思うぞ」



 態度を変えるのではなく、普段通りに何も変わらずに接するほうが相手も安心できるだろう。ロウの意見に確かに急に態度を変えられるのは嫌だなとツバキは納得した。


 服を着替えて、ロウの毛を拭ってやる。毛質なのか、ロウの毛はすぐに乾くのだ。長毛だというのに不思議だなとツバキは思いながら毛を触る。もうすっかりと乾いていたので、ツバキは使ったタオルを畳んだ。


 そのまま部屋へと戻るとイザークはもう湯浴みから上がったらしく、剣の手入れをしていた。戻ってきたツバキに気づくと顔を上げる。



「早いのね」

「俺一人だからな」

「なんだ、ワシに喧嘩を売っているのか」

「そうではない」



 イザークは「他意はない」とロウに言うが、彼はじとりと見つめるだけだ。困った様子を見せながらイザークは剣を鞘に収めて壁に立てかける。


 ふと、イザークの髪が濡れていることに気づいた。まだ上がったばかりなのか、それとも乾かすのを怠っているだけなのか。ツバキはそのままだと風邪を引くかもしれないなと自分の肩にかかっていたタオルを取る。



「イザーク、ちょっと座ってくれる?」

「なんだ?」



 イザークは言われるがままにベッドに腰を下ろす。ツバキは彼に近寄るとタオルで髪の毛をわしわしと拭ってやった。



「まだちゃんと水気が取れていないじゃない。それじゃ風邪を引いてしまうわよ」



 そう言ってタオルで拭っているとイザークの頭が少し下がる。どうしたのだろうかと見遣れば、彼が顔を覆っていた。



「どうかしたの」

「……不意打ちはよくない」



 一人、呟くイザークになんだろうかとツバキは首を傾げる。そんな彼女に「気にするな、ただの発作だそれは」とロウが言う。彼の琴線に触れたということなのかと、ツバキはそう思っておく。


 肩にかかる長いワインレッドの髪は洗い立てだからだろうか、艶がありサラサラだ。触り心地が良いなとツバキは拭っていた手を止め、水気を確認するがてら梳いてみる。


 さらりと指にかかることなく梳かれて、女性が羨ましがりそうな毛質だなとツバキはまた触る。



「綺麗な髪ね、ほんと」

「そうだろうか」

「触っていて飽きないぐらいには綺麗よ」



 ツバキはそう言って指でイザークの髪を梳く。うん、やはり良いなと頷くと腰に手を回された。


 イザークの額が胸に当たって抱きしめられる。この構図は前にもあったなとツバキは思い出した。



「反則が過ぎる」

「……そう」

「また体当たりを喰らいたいようだな、そなたは」



 どんっとそう言ってロウはイザークに体当たりをする。「もうすでにしているだろう」と言う彼の抗議には耳を傾けない。


 解放されてたツバキはタオルを畳みながら、そういえば嫌じゃなかったなと思った。イザークに触れられるのは特に何か思うことはなかったなと。


(少しは気になっているってことかしら?)


 うーんと考えるも、前もされたことがあったというのもあるので、耐性ができているだけかもしれないなと思わなくもない。ツバキはよく分からないなと考えながら、ロウに叱られているイザークの様子を眺めていた。





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