第4話

「拳!今日はとことん飲むぞぉ~!」


そう言った本人は既に千鳥足でフラフラだった。


「いや、もう帰った方が良いと思いますよ…フラフラじゃないですか!」


「いや、拳!俺はお前に恨みがある!俺の好きだった女がことごとくお前に取られて悔しかったんだから…」


ろれつが回ってない同僚を相手に矢崎拳は肩を貸して歩いていた。


「それは俺のせいじゃないですよ…あなたを好いてる男がいるからと説得したんですから…」


「だけど結局お前が良いって俺をフッたんだから…やっぱりお前が悪いよ…」


「そうだぞ拳!お前は根こそぎ女かっさらってズルいんだよ!」


他の同僚も加勢してきた。


「俺は別にみんなの女を独り占めしてきたつもりはないっすよ!女ってのは実に厄介だ…」


「それはモテる男の特権だってか?そういうところが許せねぇんだよ…」


酔っ払いに何を言っても切りがないと思い、矢崎拳は苦笑いしていた。拳はかつて英雄と呼ばれ皆から慕われていた。手の付けようのないグレた不良達をヤクザ達から救いだした伝説は数知れない。オマケになかなかの男前だから女達は皆拳に想いを寄せていた。そんな拳が25歳、当時勤めていた会社の忘年会で人生を大きく変えてしまう過ちを犯してしまう。既に透は2歳、妻の真紀は薫をお腹の中に身ごもっていた。同僚達は日が変わって酔い潰れてしまい先に帰ってしまった。拳は呑み直そうと一人あるスナックへ立ち寄った。


「あら、拳さんいらっしゃい!」


そこには店のママと女の子が一人、そして客は、美知子という女性だけだった。美知子は拳の二つ後輩だったが、当然拳の噂も知っていたし、想いを寄せていた一人でもあった。カウンターに座っている美知子をチラリと見て


「ママ、この綺麗な女性に一杯」


「あら、拳さんほんと女たらし!そんなに女落として地獄見るわよ?」


そう笑いながら言った。拳は美知子の隣に座り


「こんばんは、今日はお一人ですか?」


渋く落ち着いた声で優しく語りかける。


「はい…忘年会の後にちょっと飲み足りなくて…ママに会いに来たんです…」


「そうですか。これは奇遇だ!俺も同じです」


そう言ってお互い笑った。


「あの…拳さん…私…学生の頃あなたに憧れてました。いつもあなたの姿を見に…」


「ほう?俺と同じ学校でしたかね?」


「いえ、私は女子高だったので…皆でキャーキャー見に行っていたギャラリーの一人です…」


「いや何とも恥ずかしい…そんな話をここでしないでくださいよ…」


「あ~あ、拳さん絶対地獄堕ちるわよ!男前だし、優しいし、ケンカは最強って噂だし…奥さん居るんだからダメよ!」


「ママ、そんな心配要らんよ。俺をそんな遊び人みたいに言わないでくれよ…」


「へぇ、違うの?拳さんに泣かされたって話は嫌ってほど聞こえてくるけど…」


「ママ、変なこと言ったら真に受けちゃうじゃないか」


そんな話をしながらこの場のムードは盛り上がりを見せる。そして店を閉める時


「美知子さん、タクシー拾って上げよう」


そう言って二人が店を出て歩いてタクシーが通るのを待つ。タクシーが通りかかったのを拳が手を上げて止めた。


「さぁ、これでお帰りなさい」


そう言って財布からお札を取り出し手渡す。


「いえ、そんな受け取れません!」


「良いから受け取って、これも何かの縁だ」


美知子は少しためらって口を開いた。


「あの…拳さん…もし良かったら…もう少しお付き合い頂けませんか?」


「え?でも…俺には…」


「わかってます…」


美知子は昔憧れていた学生の頃とは違い大人の魅力溢れる拳を今まさに目の前にお酒の力も後押しし、一歩踏み出してしまっていた。

一方の拳も、素敵な哀愁漂う美知子の誘いに、つい出来心で乗ってしまったのだった。この夜の出来事が不幸の始まりになるとは思いもよらずに…



透は母との再開のあと、モヤモヤした気持ちで家に帰った。真紀の優しさや、自分達への愛情の深さは十分知ることが出来た。しかし、なぜ母が一人家を出なきゃならなかったのか…その理由を聞くことが出来なかったのだ。

その日の夜


「兄ちゃんただいま~」


「おう、薫。今度の日曜日可奈子姉ちゃんが遊園地連れてってくれるって。だから予定入れるなよ?」


「ほんと~?やったぁ!わかった!」


あっ…天斗どうしよう…


「ねぇ兄ちゃん、天斗は?」


「うーん…それなんだけどさぁ…やっぱりあいつの親にちゃんと聞かなきゃならないから…多分連れていけないだろう…だからあいつには言うなよ?」


「そっか…そうだよね…」


翌日、放課後に薫が天斗に


「天斗、日曜日はちょっと用事あるからゴメン…」


「うん、わかった。ねぇかおり?鬼バットじゃなくて一人で出来る特訓て何かないの?」


「…あるよ…でも、これは教えられない…」


「どうして?」


「天斗には無理だから!鬼バットもかわせない天斗には到底無理だから…」


「教えてよ!俺…強くなりたい!かおりと…ずっと友達で居たいから…」


「天斗…」


薫は天斗の目を見て少し考え込んでいる。


「付いてきて」


二人は近くのバッティングセンターに入った。


「天斗、これ…ほんとは兄ちゃんに絶対人には教えるなってきつく言われてる特訓なの!私だって鬼バットがちゃんとかわせるようになってから始めたやつだから…天斗には絶対無理!」


そう言って薫はバッターボックスの方へと向かって歩く。


「天斗、横でよーく見てて。」


薫がお金を投入して設定ボタンで何かやっているのを見つめる。そして薫がストライクゾーンに立って真剣な顔つきになるのを見て天斗は鳥肌が立った。


バシュッ!


薫の顔面めがけてマシーンから野球ボールが飛んで来る。しかし薫は避けようとしない。


「危ない!」


天斗が叫んだとき、球は薫の顔をすり抜けていた。天斗が信じられない光景を目の当たりにして


「え?どういうこと?」


「天斗…私の顔…穴空いちゃった…」


「え?もしかして貫通しちゃったの?」


天斗の心臓が高鳴る。


「かおり?」


そのときまたバシュッ!という音が聞こえてきた。


「かおりーーーーーー!」


ガァーーーン!


後ろのフェンスにボールが当たりコロコロと天斗の方へと転がってきた。


「か…かおり…本当に穴が空いちゃったの?」


震える声で話しかける。そう見えてしまうほど刹那のタイミングで薫がボールを見切ってかわしたのだ。


「天斗…絶対真似しちゃダメだよ…これ…マジで危険だから!」


そう言って薫が天斗の方へ歩み寄る。天斗は無傷な薫の顔を見て腰が抜けてしまった。


「ほんとはね、これやるときキャッチャーが付けるマスクしなきゃダメなんだ。でも、私は天才だからかわせちゃうんだよねぇ~」


余裕の笑みでそう言った薫を見て天斗は心が折れる。


「かおり…君の兄ちゃんは…よく女の子にこんな特訓させるな…」


「でしょう?私の顔に消えない傷付いたらお嫁に行けないよー?」


「いや…そもそも…」


「何さ?何か言いたいことあるの?」


「いえ…ありません…」


そして日曜日


天斗は薫には内緒でバッティングセンターを訪れていた。フェンスの裏から人がバッティング練習をする姿をジッと観察していた。軽快な当たりを見せる者も居れば、全く当たらず空振りばかりの人もいる。

かおりは…こんな球を…あの紙一重でかわしたのか…出来るんだろうか…本当に人があんなことを…かおりは自分で自分を天才だからって言ってた。でもきっと…ほんとは凄くいっぱい特訓したんだろう…きっといっぱい痛い思いをしたんだろう…女の子がそれをやったんだ!俺にだって…


天斗は周りに誰も居なくなったことを確認してからお金を投入してベースに立った。ゴクリとつばを飲み込んだとき


バシュッ!という音が聞こえてきた。


ガァーーーン!後ろのフェンスにボールが当たって跳ね返る。


む…無理だ…とても無理だ…あんな速い球を顔に受けたら絶対死ぬ…やめよう…やっぱり無理だ…


そう思ったとき薫の言葉を思い出した。


「私は二年生の時に出来るようになったよ。天才だから!」


二年生…二年生に出来て三年生の俺に出来ないなんて恥ずかしい…俺は男だ!女のかおりに出来て俺に出来ないなんて恥ずかしい!よし!やるぞ!やってやる!


自分を鼓舞し構えた。


バシュッ!


かおりは当たったと思った瞬間にかわしたんだ!まだだ!


バコォーン!


天斗は気を失った。


その日の夜、薫と透が帰宅した頃には外は真っ暗だった。


「兄ちゃん楽しかったね!」


「良かったな!お化け屋敷ではギャン泣きしてたけど!」


そう言って透が大笑いしている。


「兄ちゃん!怒るよ!でも…天斗は淋しかったかなぁ…ねぇ兄ちゃん、天斗ん家行ってみようよ!」


「うーん、そうだなぁ~。ちょっと様子見てこようか」


そう言ってまた二人は天斗の家の前まで来た。


「天斗居ないのかなぁ。電気ついてないよ…」


透がインターホンを鳴らす。


「もしかして居留守か?」


しばらく待ったが誰も出てくる気配がない。二人は諦めて家に帰った。


かおりと…とおる君…ゴメン…


天斗は居留守を使っていた。それはとても見せられるような顔ではなかったからだ。


次の日、天斗は学校を無断欠席した。怪我の痛みで到底学校には行けなかったからだ。そして、欠席したことで学校から天斗の親に連絡が入った。急いで家に帰った母親が天斗の部屋に入ってきて


「天斗!お前何勝手に学校休んでんだよ!おかげで先生から電話来たじゃないか!」


天斗は布団にくるまってその罵声を聞いていた。


「全く!親に迷惑かけてんじゃないよ!休むなら休むでちゃんと連絡してよ!先生に色々追及されるのめんどくさいんだから!」


そして母親はそのまま外出した。


午後3時を回った頃に家のインターホンが鳴った。天斗は一階の玄関の方へ歩いて向かった。玄関越しに


「天斗~!天斗~!」


と薫が呼んでいる。


「かおり…ゴメン…ちょっと風邪引いちゃって…今日は遊べないんだ…」


「そうなの?大丈夫?ちょっと開けて!」


「いや、だから風邪うつすといけないし…ゴメン…」


「いいから開けて!天斗…天斗の顔が見たいんだ…」


かおり…ゴメン…ダメなんだ…君の言うことを聞かずに俺は…こんな顔は見せられない…


「天斗…お願い…少しでいいから…あんたの顔を見せてよ…」

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