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 空になった容器と割りばしをゴミ箱に捨てて病室に戻ろうとしたが、足を止め少し考えてから病院内のコンビニに向かう。

 病室に戻った俺は、先ほどコンビニで買ったスケッチブックと鉛筆と鉛筆削りを、寝泊まり用に病院から貸してもらった簡易ベッドの上に置く。そのまま俺は簡易ベッドに腰掛ける。箱に入っている十二本の鉛筆から一本抜き取る。それを鉛筆削りで削って、スケッチブックを開く。病室に、紙と鉛筆の先が擦れる音が鳴り始めた。

 数時間後、定期的に病室に来て容態確認をするおばちゃんの看護師が来た。俺はそれに気づかずに夢中で描いていたので、入ってきた看護師が隣に立ち、「あんた、何描いてるの」と問うてきたことに情けないほど驚いた。いつも眉間にしわが寄っている、そのおばちゃん看護師が俺に話しかけるのは初めてだったから、さらに驚いた。俺は人に描いてるものを見られるのは恥ずかしいので、さりげなく絵を隠しながら「ちょっとした暇つぶしに、と思いましてですね……」と妙に丁寧な日本語で返す。が、俺がさりげなく隠したのを知ってか知らずか、おばちゃん看護師は鋭い目つきで「見せてみ」と言った。眉間のしわがいつもより深い気がする。逆らったら何をされるか分からないのでおとなしく絵の描いてある面を見せた。

 一瞬、目を見開いたおばちゃん看護師は、その眉間のしわを緩め、優しい笑顔で「あんた、いい絵を描くじゃないか。わたしゃ、あんたの絵を気に入ったよ」と言った。俺は予想外の事態に少々呆けてしまった。気付いたらおばちゃん看護士は病室からいなくなっていた。

 俺は、人に自分の絵を見られた恥ずかしさと、その絵を人に褒められた嬉しさが混ざって口元の筋肉が緩んでしまう。ベッドで横たわる彼女の顔もなんとなく嬉しそうに微笑んでいるように見えた。

 それから、俺は一日一枚、彼女を描いた。人物を描くなんてあまりやってこなかったから、初めは顔を描くだけで精一杯だったが、次第に体、と言っても布団に隠れてしまっているので、想像だが描けるようになってきた。背景も描き込むようになり、今では、記憶の中だが彼女が笑ったり、怒ったり、歩いたり、座ったりしている姿まで描けるようになった。

 今日もいつも通り彼女を描く。そして描き終わった絵を彼女の閉じた瞼越しに見せながら説明する。話のネタにいいと思ったんだ。初めは恥ずかしかったが、今では閉じた瞼越しでも分かるようにと細部までこだわって説明する。今日も説明が終わり、一息つく。スケッチブックを見ると、ページが残り一枚になっていることに気づいた。買いに行かなきゃな、と思い「すぐ戻ってくるから」と眠ったままの彼女に告げ、病室を出て病院の一階にあるコンビニへ向かった。

 レジに並んでいると、館内放送のチャイムが流れた。何だろう、と思って聞いていると俺の名前と共に、至急病室まで来るように、との連絡が入った。俺は悪い予感がして、商品を落とし並んでいる列から駆け出した。病院の廊下を走る。途中何度か人とぶつかりそうになってよろける。が、無我夢中に走った。

 病室の扉を勢いよく開ける。驚いた医師や看護師がこちらを見る。その中には、あのおばちゃん看護師もいた。表情が曇っているように見えるのは気のせいだろうか。緊迫した空気の中、細身の中年医者が固い顔をしてしきりに動いている。

「どうしたんですか、なにか……、あったんですか……」

 医者が口を開く。

「意識が戻りました。今のところ異常なしです」

 思考が追いつかなかった。ベッドのまわりにいた看護師たちが安堵の表情を浮かべる。呆然と突っ立っている俺の傍に、おばちゃん看護師がやってきて「よかったねぇ」と聞いてくる。他の看護師たちは、この人が誰かを思いやる発言をするとは珍しい、といった顔でこちらを見ている。中年医者も驚いたような顔をしている。このおばちゃん看護師は今までどんな風に振舞ってきたんだよ、とつっこみたくなる。すると「大丈夫かい?」おばちゃん看護士は俺に言う。俺は、おばちゃん看護師が何のことを言っているのかが分からず「え?」と聞き返す。すると、

「あんた、自分が泣いているのが分からんのか」

 と柔らかな声で言った。その時になって初めて、自分の頬が涙で濡れていることに気がついた。目に力を入れても止まらないそれを俺は強引に袖で拭う。

 ぼやける視界でベッドの上にいる彼女を見る。不明瞭な視界越しでも、彼女がこちらを見ていることを感じた。心配そうな声で「大丈夫? 」と聞いてくる。俺は、「別に泣いてないし……」と情けない声で返す。彼女はしてやったりという風に「別に、君が泣いてるなんて言ってないけどね」と言ってクスクスと笑った。

 そして彼女は、俺が今までで見てきた中で中で一番暖かい声と表情で

「ただいま、奇人さん。生き返ってきたよ」

 と笑いながら言う。生き返ってきたよ、という言葉に彼女らしさを感じる。俺はその言葉を大事に胸にしまい込んだ。両親が死んでから久しぶりに自分に訪れる幸せは、どう受け取ればいいか困ってしまうほど暖かくて、甘くて、柔らかくて……。

 俺は、もう一度袖で涙を拭い、それから彼女をしっかりと見てこう返す。

 「お帰り、不思議さん」

 それを聞いた彼女は一瞬照れたような表情を見せたが、それを隠すようにはにかみながら、もう一度

「うん。ただいま」

 と言った。

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