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 いつも通り、不思議さんは俺の部屋に入る。どこの部屋に進めばいいか戸惑う彼女を、「こっち」と言って寝室に案内する。そこに、先ほどまで並べていた俺の絵が飾ってある。と言っても床に置いてあったり、壁に立てかけられていたり、といった程度だが。

 部屋に入るなり彼女は目を輝かせて、

「おぉ……」と漏らした。自分の絵を、人にまじまじと見られて恥ずかしくなった俺は「ど、どう?」と訊いた。彼女は「すごいよ……!」と返した。そこまでまっすぐに褒められるのが久しぶりすぎて俺は顔が赤くなる。

 その後、彼女は二時間ぐらい俺の絵を見た後、いつものように食事をして、いつものように帰っていった。彼女が帰ったあとも、彼女の「すごいよ……!」と言う声が耳から離れなかった。

 その夜、俺はもう一度色鉛筆を握った。案の定、色を塗ることはできなかったが、心が少しだけ軽くなった気がした。

 不思議さんとの日々が一か月過ぎた頃、彼女が突然来なくなった。前のように倒れているかもしれないと思い、大家さんに頼んで鍵を開けてもらったが中には誰もいなかった。だが、家具や生活に必要なものは全て残っていた。嫌な予感がした。その後、アパート周辺を探したが彼女は見つからなかった。空も暗くなり、仕方なく家に帰る時だった。下校中の高校生二人組の話声が聞こえた。

「おい、これみろよ」

「ん?」

 片方がもう片方にスマホの画面を見せる。

「このあたりで人と暴走車の衝突事故があったってよ」

「まじで? やばいな」

 俺はすぐさま、その高校生に声をかけた。

「なあ、君たち。そのニュース少し見せてくれないか?」

「なんだよ、おっさん。まあ、いいけど」

 ほい、と見せられたネットニュースの記事の見出しにはこう書かれていた。

『身元不明の女性 暴走車と事故』

 その文字列を見た瞬間俺は走り出していた。確証なんてないが、俺の足は近所の市民病院へ向かっていた。

 病院の自動ドアをくぐる。両親が死んだ日のことを思い出す。白い壁、嫌に静かな空間。にこやかにこの建物を出ていく人もいれば、表情一つ変えないで目を閉じて出ていく人もいる。そんな場所。病院の受付カウンターまで走る。ここで彼女に名前を聞かなかったことを後悔する。が、このままでは埒が明かない。

「し、深 解さんの病室はどこですか」

 病院の受付でペンネームを言うやつが世界のどこにいるだろうか。そもそも、ネットニュースでも身元不明だといっているのだから、病院側が知っているはずがない。言ってから自身に呆れてしまう。不審者を見るような目で俺を見る受付の看護師。その視線が今、すごく痛いです。

「あ、あの、この近くで事故が起きてですね、女性が運ばれてきませんでしたか? 」

「すみませんが、患者様の情報をお教えすることは……」

 やんわりと、しかし強く断られる。こうなったら病院内を探しまわるか……、と考えたとき、背中から声がかけられた。

「君、もしかして今日事故に遭った女性のことを知っているのかい? 」

「知人が突然いなくなって、もしかしたらと思ってきたのですが……」

「分かった。なら、ちょっと来てもらえるかい? 身元が分からなくて困っているんだ。知っている人なら教えてほしい」

 そう言われ、俺は白衣を着た細身の中年ぐらいの医者についていった。

 集中治療室と書かれた自動ドアが開く。医者の後に続きドアの向こう側へと進む。中は長い廊下があり、廊下の左右にはガラスを隔てて病室がある。その中に、様々なチューブや機械につながれた人が一部屋に一人ずつ、無機質なベッドに横たわっている。俺は医者についてゆき、奥のほうの部屋の前に案内された。医者は「どうですか、ご存じでしょうか? 」と俺に問う。

 ガラスを隔てた向こう側には、女性がベッドの上に横たわっていた。ほかの人と同じように様々なチューブや機械につながれている。彼女のベッドわきには、その人が生きていることを証明するための、メトロノームのように一定のリズムを刻む装置がある。それを見て、彼女がまだ生きていることにまずは安堵した。

 俺は数分の沈黙の後、医者の質問に、震えた声で小さく「はい」と答えた。

 その後、俺は彼女の身元を話した。本名は知らないが、ペンネームを伝えると病院は彼女の所属する出版社に問い合わせ、すぐに担当者を向かわせると返事を貰ったようだ。話をした医者は、俺と彼女の関係について少し驚きの表情を浮かべたが、何か言ってくることは無かった。

 「大丈夫かい? 」

 病院内のベンチに力なく座っている俺に先程の医者が声をかける。すでに外は暗く、昼にはあんなにいた人たちが幻のようにいなくなっていた。きっと俺は今見ていられないぐらいひどい顔をしているのだろう。

「彼女の、意識は戻るんでしょうか……」

「分からない、この先ずっと今のまま、ということも……」

 最後まで言い終わらずに、また静寂が戻ってくる。それから逃れるように俺は口を開く。

「俺、数年前に両親を事故で亡くしましてね、それからずっと一人だったんです。絵を描いてたんですけど、ショックで描けなくなっちゃったみたいで。もう、いいや、って諦めかけていた時に彼女と出会ったんです。希望を失った人生でも、彼女のおかげで楽しかったんです。もう少し、頑張っても、いいかなって……」

 最後は声にならなかった。視界が滲みだす。ああ、これが寂しいって気持ちなんだな、と今になって理解する。

「もしかして、ご両親の事故の時、大学生で裸足で病院に駆け込んできた子かい? 」

 俺は、「え? 」と返す。

「いや、答えたくないならいいんだ。つらい記憶を思い出させてしまってすまない。彼女のことは全力で治療するよ」

 そういって医者は立ち上がった。

「これは、私の苦い記憶さ。まだ、未熟で人の心を慮る余裕がなかった、私の後悔だよ」

 そういって医者は去っていった。去り際に「すまなかった」と寂しげな顔で言ったような気がした。

 後日、彼女の事故のことは内密に、と彼女の出版担当者から念に念を押された。また、同じ日に彼女は集中治療室から個室の病室へ移動した。相変わらず意識は戻らないが、だいぶ容態が安定してきていると担当の看護師から聞いた。その日から、細身の中年医師の計らいで俺は彼女と同じ部屋で寝泊まりすることが許可された。恐らく、精神の不安定なこの男を放っておいたら何をしでかすか分からない、だから、いっそのことまとめて管理しようというつもりだろう。もしかしたら、別の理由があるのかもしれないが。まあ、どっちにしろ俺には好都合だった。手の届く範囲にいることで、突然目の前から消えてしまうなんて事態は起こりにくくなるからだ。俺は毎日彼女に話しかけた。天気の話。病室に飾ってある花の話。彼女との思い出話。自分の過去の話。たとえ、反応がなくても俺は毎日彼女に話しかけた。だが、次第に話のネタも尽きてくる。なんせ、俺はスマホを持っていない。インターネット、テレビ、ニュースとは縁のない生活をしている。病院の親切で与えられている食事の感想も、代わり映えのない言葉が毎日続くだけ。

 ある日、俺は薄味の病院食に飽きて、病院の近くのスーパーに行った。店に入ると、入り口付近にカップラーメンが乱雑に置かれていた。値札を見ると割引で十円になっていた。よっぽど人気ないんだな、この商品、と思いながら二つ手に取る。

 思えば彼女と最初に出会ったのも、この不人気なカップラーメンがきっかけだった。俺たちの出会いはこんな十円ぽっちのカップラーメンで成り立ったんだな、と思うとおかしくなってくる。と、同時に彼女との思い出に寂しくもなってくる。俺はそんな寂しさを振り払いたくて足早にレジへと向かった。

 さすがに病室で食べるのは気が引けたので、給湯室でお湯をもらって病院の中庭の隅で食べることにした。

 中庭に出ると、入院患者とその家族だろうか、何組か楽しそうに中庭を散歩していた。中庭の隅のベンチに腰掛け、カップラーメンのフタを全て剥がす。熱湯を注いだはずなのに、どこか冷たく感じた。

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