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 寝室まで行く。棚に入ったままの絵を見て、そういえばまだ絵を見せていなかったな、と思う。ベッドに体を乗せると暗闇に体が沈んでいった。

 久しぶりに夢を見た。母と父とともに食卓を囲んでいる。テーブルの上には、子どもの頃好きだったグラタンが置いてある。その周りを囲むようにして、唐揚げや、フライドポテト、トマトサラダ、パスタなどが置いてある。そうだ。これは俺が小学生の時の思い出。学校で写生大会があって、中庭の池を描いたら担任の先生に褒められたんだっけ。学校内での選考を通過し全国コンクールへの応募が決まって、結果最優秀賞を受賞したんだ。当時小学二年生の俺は、授業で描かなければいけなかったから描いただけだった。だから最優秀賞が決まったとき、心底驚いた。確か、一週間ぐらい学校へ行っても放心状態だったな。両親は俺が最優秀賞を受賞したことを知ったら大喜びして、その日の夕食は予定していた料理を変更して急遽お祝いとなったわけだ。その次の年の写生大会もコンクールで最優秀賞を受賞した。その次の年も、また次の年も。高校までは普通科に通っていたが、両親が芸術大学に進学してはどうかと提案してきた。俺も、高校でもコンクールでは常に最優秀賞、また、周囲の評価も高かったから芸術大学に進学しようと考えていた。第一志望の芸術大学に進学した後もコンクールに応募し続けた。また、日本国内に留まらず、世界規模のコンクールにも応募した。さすがに最優秀賞とまではいかなかったが、上から片手で数えられるレベルにはいた。審査員からの評価も高かった。俺は卒業後も絵を描き続けてそれを売って生活しようと考えていた。

 その矢先、俺の人生を変える出来事が起きる。両親が死んだ。その日は、コンクールで受賞した俺を祝うため、母が近所のスーパーに食材を買いに行こうとしていた。そこに珍しく父がついていくと言い出した。俺も一緒に行こうか、と言ったが父は留守番をしていてくれ、と言って二人は車で出かけていった。数十分後、俺の携帯電話が鳴った。聞こえてきたのは、知らない男の声で、近所の市民病院を名乗った後「お母様とお父様が事故に遭われました。至急お越しください」と言った。一瞬意味が分からなかった。ただ、呆然と「はい……」とだけ言って電話を切る。数秒後、状況をようやく理解した俺は走って家を出た。靴も履かずに、家の鍵も閉めずに、外に飛び出た。ただ必死に走った。病院に着くころには、足の裏の皮はめくれて血が出ていた。だが、そんなこと今はどうでも良かった。驚き心配する受付の看護師に、両親の居場所を問い詰めた。看護師が困惑していると右から俺の名前が呼ばれた。

 「高野さんですね」

 医師だろうか。俺は質問に答えず「父と母は……?」と問うと、医師が「こちらです」と俺を案内した。

 案内された部屋は薄暗かった。だが、その中に両親がいることはすぐに分かった。ただし、白い布を顔に掛けられた状態で。認めたくない現実が一気に心に押し寄せる。

「お母さん……、お父さん……」

 上手く声が出ない。ふらつきながら二人の近くまで行く。冷たくなった両親を見た。あまりの現実感の無さに困惑した。数十分前まであんなに温かかった二人が今、目の前で冷たくなって横たわっている。

「幸い、お顔は原型を留めています。差し支えなければ、本人確認のため、お顔の確認を――」

「――もう……いいです……」

 医師の言葉に被さるようにして返答する。

「分かりました。足をお怪我なされているようなので、よろしければあちらの応急処置室で手当てを受けてください」と言い、「私は次の診察があるので、これで」と言って、そそくさと去っていった。残された看護師が「こちらです」と言い、俺は応急処置室へ案内された。その後、警察が事故の状況を俺に説明した。現実感の無さに、話の半分以上が頭に入ってこなかったが。両親の死因は、飲酒運転をしていた車との衝突事故だった。交差点で、信号無視をして横から突っ込んできた車との事故だった。また、父の手には丁寧に包装された箱が握られていたらしい。それを事情を説明していた警察官から渡された。開けてみると中には腕時計が入っていた。皮肉なことにその腕時計には傷一つ入っていなかった。恐らく、父が珍しく外出したのはこの年になっても腕時計を持たない俺に、受賞祝いとして腕時計をプレゼントしようとしていたのだろう。俺はその腕時計を掌で強く包んでむせび泣いた。

 両親の葬式が終わると俺は住んでいた家を売った。そこに住んでいると、両親との記憶を思い出してしまって苦しくなると思ったから。そして、少し離れたところにある古めの安アパートに引っ越した。家具のほとんどは売った。自分の描いた絵と、一人分の食器と調理器具。新たに買った小さな冷蔵庫。そして、家族写真を一枚とあの腕時計を持って引っ越した。そして両親の死後、引っ越しの片づけも落ち着いて初めて絵を描こうとして俺は違和感に気付いた。このとき初めて色を塗れなくなった。

 「はっ……」

 布団を跳ね飛ばして上体を起こす。全身冷や汗をかいていた。まだ外は暗い。久々に夢を見た。嫌な夢を見たものだ。今日はもう、これ以上寝る気になれなくてベッドを降りる。人はいつ消えてしまうか分からない。その時に後悔したくない。

 ふと、視界に自分の描いた絵が入る。彼女に言ってしまったことを無かったことにできたらどんなに良いだろう。俺は久しぶりに寝室の電気をつけ、棚を漁り始めた。

 朝日は昇り、今は午前九時。俺は彼女の家の前にいる。インターホンを鳴らすために伸ばした指が細かく震えている。思い切ってインターホンを押す。数秒後、ガチャッと音が鳴って玄関が開く。ドアの向こうから彼女は気まずそうな顔を覗かせた。俺は意を決して言う。

「昨日はごめん。いきなり勝手なことを言って。成功した君に嫉妬した。本当にごめん」

 僕は深く頭を下げる。この後にどんなに罵られようと、俺はそれに言い返す権利はない。彼女が共用廊下に出て俺の前に立った。どんなことを言われるのだろうか、と思っていたが、予想とは違う言葉が返ってきた。

 彼女は俺の顔を両手で挟む。そのまま俺と彼女が向き合う形になるまで俺の顔を持ち上げる。

 「私こそごめん。勝手に一人ではしゃいじゃって。君が苦しい思いをしているのを知っていたのに。本当にごめん」

 完全に予想外の結果に俺は思わず笑ってしまった。目の前には少し不満そうな顔をした不思議さんが「謝ってきた側が笑い出すなんて……」と言ったが、結局彼女も笑い出してしまった。俺は彼女の笑った顔を見るのは初めてで、なんだか新鮮に感じた。すると、彼女はおもむろに

「そうだ、今から君の絵を見せてよ。この前結局見れなかったじゃないか」

 と言った。俺はもちろん、「いいよ」と返した。いつの間にか、二人の会話は敬語ではなくなっていた。

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