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 不思議さんは小学生四年生の時に、初めて自作の小説を書いた。国語の授業で物語をつくる授業があり、そこで書くことの楽しさを知ったそうだ。その授業が終わった後も、誰かに見せるわけでもなく、ただ書き続けていった。初めはストレスを発散するために自身の不満、悔しさ、後悔を書いた。次第にそこにストーリー性が混ざっていった。

 月日は過ぎ中学二年生になった不思議さんは、ちょっとした興味で、ある出版社が開催する小説大賞に応募した。かなり大手の出版社による小説大賞だったので、あまり期待はせず、一次審査が通れば万々歳だと思っていた。

 しかし事態は思わぬ方向へ動く。一次審査を通過したという連絡が来て満足していたら、数日後、二次審査も通過したと連絡が来たらしい。あまりにも予想外の事態に当時の不思議さんは、とても困惑したそうだ。そして、困惑する彼女に、また数日後こんな連絡が届く。『あなたの作品を出版することに決定いたしました』と。そのメールを受け取って一週間は、驚きのあまり熱を出してしまい布団の中で放心状態になっていたそうだ。

 後日、今後についての説明があるからと訪れた出版社の本社でさらに驚きの事実を聞かされる。まだ公表していないが、あなたは小説大賞のうち、最優秀賞を受賞した、と担当編集者から聞かされたそうだ。彼女はその出版社のもと、小説を書くことを決めた。 その後、様々な本を出版した。本を出すたびに多方面から賞賛の声が寄せられた。また、売り上げ部数が年間最高数になるなどの様々な功績もうちたてた。

 もちろん世間でも話題になり、ニュースでも何度も取り上げられたほどだ。今、世の中のほとんどが彼女の存在を知っている。本を読まない人でも、本の題名ぐらいは聞いたことがある、と答えるぐらいだ。

 しかし、彼女はここ数年間一冊も本を出されていない。はっきりと公表されたわけではないが、彼女がひどいスランプに陥ったことが原因だとされている。実際、彼女の口からもたった今、その通りだと伝えられた。何も書けない日が続いた。しかし、彼女は書けないのを承知で書き続けた。無理にでも書き続けた。体がボロボロになっても、他の大切な何かを失っても。それでも彼女が書くのをやめなかった。

 神様なのだろうか。不憫に思ったのか、彼女に転機を与えた。彼女曰く、俺との出会いによってスランプを脱することができたそうだ。それから連日、睡眠を削ってまでして一つの物語を書き上げた。史上最速で書き上げ、すぐに出版社に小説のデータを送り出版することが決まった、ということだそうだ。

 彼女は小説家だった。俺でも名前を聞いたことがある。というか当時の俺は『深 解』という人が書いた、つまり不思議さんの書いた本を読んでいた。一作目の『流れ雲』は本屋で気になって買った。読んだときの衝撃は今でも忘れていない。そのとき買った初版が今でも本棚に置いてある。好きな小説を書いた人が目の前にいるというのは、実に不思議な気分だった。また、これで先日彼女が倒れたときに入った部屋の、奇妙なメモの正体が分かった。あれは、小説を書くためのアイデアをまとめた、というところだろう。

 彼女の説明を聞き終わると、いつも通り二人でカップラーメンを食べた。

 後日、彼女から、彼女の本『セピアのおもいで』が重版決定したと聞いた。しかし、満面の笑みの彼女に反して、俺の気持ちは渦巻いていた。彼女の成功を祝っている自分がいる反面、どこかすっきりしない自分もいた。自分が好きな作家の成功は嬉しい。が、それは、あくまで互いに顔など知らず、単に作家と読者という関係の上での話だ。だが実際は、俺と不思議さんは、互いの名前こそ知らないが、顔は知っている。なんなら共に食事をする仲だ。単純に、彼女への嫉妬が心に絡まっていた。彼女は自分で勝手にスランプを脱し、いつの間にか成功を収めている。今後も彼女は世間からの注目を浴び続けるだろう。しかし、俺は? いまだに一歩踏み出せないままでいる。過去にとらわれて、モノクロのを絵を描き続けている。

 翌日も彼女は訪れた。部屋に入ると、唐突に俺にスマホを見せてきた。画面の光に目を細める。そういえば、スマホなんて何年ぶりに見るのだろう。確か、二年前に解約をして、本体だけがいまも寝室のクローゼットの中にあったはずだが……。見せられたスマホ画面を見ると、そこにはニュースの検索ワードのランキング表が載っていた。第三位は、人の名前だろうか。恐らく、何か大きな功績をあげたのだろう、もしくは何か悪い事でもしてしまったかのどちらかだろう。続いて第二位は、どっかの歌手の新曲が発売されたのだろう。そのアルバム名だと思われるものが載っていた。だが、彼女はこんなものを見せたいがために、わざわざスマホ画面をこちらに向けているわけではあるまい。恐らく、彼女が伝えたいのは第一位だろう。そこには『深 解 セピアの思い出』とあった。それを見たとき、心が急に重たくなった。だが、なんでもないよう装った。

 いつも通りにカップラーメンを用意する。本来なら、もう彼女はここに来て安いカップラーメンを食べる必要なんてないだろう。本が売れたときのお金でもっといいものが食べられるだろう。ヤカンで湯を沸かしていると、彼女への嫉妬心がどんどん膨らんでいった。同時に、いまだに再起の兆しが全く見えない自分自身に、苛立ちを覚えた。どんどんと膨らむそれらは俺の心の中をドロドロと覆っていった。ヤカンがピーッと音を鳴らす。瞬間、心を覆っていた嫉妬と苛立ちはどこかに隠れてしまった。いつも通りに容器にお湯を注ぎ、いつも通りに三分間待ち、いつも通りに食べて、いつも通りに片付けをする彼女を見る。いつも通り、いつも通り。違う。違う違う違う。いつも通りなわけがない。いつも通りなら、彼女は眠たそうな目をしている。あんな、生き生きとした目はしていない。いつも通りなら、彼女は曇った顔をしている。あんな、

 晴れ晴れとした顔をしていない。

 また、さっきの嫉妬と苛立ちが戻ってくる。

 自分勝手な感情だって分かっている。自身では止められない感情に戸惑う。

 箸を洗い終えた彼女が、帰るため玄関に向かう。いつものように、俺はその後ろについていき見送る、はずだった。

 「あの、しばらく来ないでくれませんか」

 言ってしまった。口から出てしまった言葉は引っ込めようがない。着地点を失ったその言葉は宙を漂って冬の空気に溶けていく。言ってから後悔した。言わなければよかった、と。いまさら、思ってしまった。

 彼女は一瞬驚いた顔をした後、俯いた。数秒の沈黙を挟んだのち、彼女は顔を上げた。困ったような、言われたことが理解できずに苦笑いしているような、そんな顔で一言

「分かり……ました」

 とだけ言った。彼女は去り際に、「もし、気持ちが落ち着いたら、私の家にいつでもいいので来てください」と言った。ここで、彼女の優しさにうしろめたさを感じた。

 玄関ドアを閉める直前に彼女は、いつもの「またね」の代わりに「ごめん」と言った。ガチャン、とドアの閉まる音が響く。キッチンに戻りイスに座る。目の前に彼女がいないことが、窓から入り込む光によってはっきりと見せつけられる。いつもはありがたく思う窓から入り込むパチンコ屋の明かりが今日はうるさく感じた。

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