5

 翌日、陽が落ちるまで絵を描いた。案の定、色は塗れないままだが。モノクロの風景画を抱えて、寝室の棚にしまう。腕時計を見る。彼女とは、時間的な約束をしているわけではない。だが、大体同じ時間にやってくる。まだその時間にはなっていないのだが、妙な胸騒ぎがした。その得体の知れない気持ちをなんとか消そうとして俺は立ち上が――

 ――ドンッ

 壁からにぶい音がした。こんな安アパートだ。隣の部屋との壁の厚みなんて普通の家と比べて薄い。隣室の音がよく聞こえる。

 隣室?

 足が動いた。靴も履かず、裸足のままで玄関を開け、共用廊下に飛び出す。すぐに右の部屋のインターホンを鳴らす。反応はない。ただの留守という可能性はいくらでもあったが、ここで踏み出せず取り返しのつかなくなる事だけは避けたかった。試しに玄関のドアノブをひねってみる。予想とは違ってあっけなく回り扉が開く。玄関から続く廊下の先に、足が少しだけ見えた。「入ります!」と叫びながら、廊下の奥へ走る。

 そこには、不思議さんが壁にもたれるようにしてうなだれていた。先程の音は、壁に頭をぶつけた音だったのだろうか。すぐに駆け寄り、「不思議さん! 不思議さん!」と呼びかける。一拍おいて、涙目になりながら「聞こえてるよ……」と反応が返ってきた。ひとまず安心する。

「大丈夫ですか?」

「倒れて、頭を軽く、打ったみたい、です」

 と言って、不思議さんはゆっくりと立ち上がる。出血はなさそうだ。だが、目の下には濃い隈ができていた。恐らく、数日間寝ていないのだろう。

「すいません、お騒がせしました。実は、最近寝ていなくて……。今から、そちらに伺いますね」

「今日はやめておきましょう」

 ふらつきながら彼女は返す。

「大丈夫ですよ、これぐらい」

「だめです。今日はちゃんと寝てください。明日、また見せますから」

 そんな、ふらふらの状態で来られても困る。彼女は、大丈夫ですから、と答えてすぐ、体のバランスを崩した。間一髪で俺が支える。

「寝室はどこですか?」

 俺がそう聞くと、不思議さんは諦めたのか、もう、「大丈夫ですから」とは言わなくなった。代わりに、廊下の脇にあるドアを力無く指さした。そこまで不思議さんを運び、ドアを開け、ベッドの上に乗せた。不思議さんはぐったりして、数秒後には静かな寝息が室内に鳴り始めた。寝てしまった彼女に布団を被せ、部屋を出ようとする。が、このまま黙って出ていくのもまずいと思った俺は、室内にあるメモ用紙とペンを借りる。紙に『玄関を閉めるため、一時的に鍵をお借りします。鍵を閉めたら、玄関ポストに入れておきます。』と書く。ペンを戻し、その紙をベッドの傍にある、パソコンの置いてある机に置く。その机の前の壁には、大量のメモ用紙が張り付けられていた。部屋に入った時には気付かなかったが、そのメモ用紙には文字が、なんと書いてあるかわからないぐらいに激しく殴り書きされていた。部屋を出て静かにドアを閉める。玄関ドアにフックで掛かっていた鍵を手に取って玄関を出る。ドアを閉めて鍵を掛け、鍵を玄関ポストに放り込んだ。

 自分の部屋の玄関ドアを開ける。古びたドアの蝶番が甲高い音を立てる。暗い室内にドアの閉まる音が響く。リビングの窓から明るい月の光が差し込む。窓に近づき鍵を開け、そのまま小さなバルコニーへ出る。二階にあるこの部屋は、小さいながらバルコニーがついていて、春や夏にはそこに出て絵をかいたりもする。目の前にはパチンコ屋の看板を照らすライトが光る。白昼色の光は、電気代を節約したい俺にとってありがたいものとなっている。おかげで夜でも電気をつけなくて済む。大体夜の十一時ぐらいまでライトがついているが、それ以降は消えてしまう。結果としてそれぐらいが俺の就寝時刻となる。

 バルコニーの柵に腕を置き寄りかかる。休憩中だろうか。パチンコ屋の従業員が二人ほど、裏口から外に出てくる。しばらくして、その二人がいるところから煙草の白い煙が上がってきた。煙はライトの前を通ると、黒色の寒空に薄く広がり消えていく。寝室からイーゼルとまだ何も描かれていないケント紙、鉛筆などを持ってくる。開けたままの窓から寒風が静かに流れ込んでくる。昼間とは違って、紙上には夜間に光る電球が作り出す独特な影ができている。白昼色の電球のせいで、薄くオレンジがかる紙の上を鉛筆が走る。遠くから聞こえる電車の走行音、パチンコ屋の前を走る車の音。冬の風の色、夜の電球の色。それらを逃さないように感じながら、ひたすらに鉛筆を動かす。不安に気づかないふりをして。

 ただ、不安だった。怖かった。目の前で二度も倒れる彼女を見て。彼女と出逢ってしまって。死とは身近にあり、目前まで迫ってきてやっと感じられる。両親が死んだときは何の前触れも無かった。あまりにも突然だった。

 だが、逆に前触れがあったら? それはそれで恐ろしい。分かっているのに何も出来ないのは怖い。彼女と出会わなければ、彼女が世界からふと消えても微量の同情を一瞬だけ感じ、その後はすぐに忘れてしまうだろう。でも、彼女の存在を知っていたら簡単に忘れられない。別に彼女がいなくなるかもなんて馬鹿げた考えだ。確証も何もない。だが、妙に胸騒ぎがした。明日、彼女はベッドの上で静かに冷たくなっているかもしれない。そう思うと胸のあたりが寒くなった。

 消しようのない不安をどうにか消そうと絵を描いてみたが、結局黒と白だけの絵で止まってしまった。この絵には色がない。不安が心を占めていると、さらに別の不安が生まれやすくなる。

 俺は一体いつまで絵に色を塗れないままなのだろうか。無理やり色鉛筆を握り、紙に近づける。あと数ミリで紙面に色鉛筆の先が達するというところで手が強張り震える。深いため息をついて、体の力を抜く。腕がだらりと垂れ、手から離れた色鉛筆が乾いた音を鳴らして床に落ちた。あの時受け取った幸せのツケが、このような形で回ってきたのだろうか。

 翌日も彼女は訪れないのでは、と考えたがそれは杞憂だった。

 インターホンが、来客を知らせるために飾り気のない音を鳴らす。玄関ドアを開けると、この部屋のたった一人の来客である不思議さんが立っていた。体調が回復したことにひとまず安堵する。が、いつもと同じかというと、そうでもない。今日の不思議さんは、いつもと違って非常ににこやかだった。むしろ、にこやかすぎるぐらいだった。普段の彼女なら、もっと冷めた目をしているのに。今日はすべての不快を取り除かれたかのように、にこにことしている。いや、これは決して普段の彼女が愛想のない人間だなんて言っているわけでは……。まあ、とにかくこれは異常事態なのだ。底ぬけに明るい笑顔のまま、不思議さんは「おっじゃましまーす!」と言いながら部屋に入ってくる。おっじゃましまーす! だと? これではまるで別人ではないか。底抜けに明るい笑顔の彼女とは対照的に、俺は、表情こそいつもと変わらないが、内心この異常事態に、昨夜とは別方向の底知れぬ不安を感じていた。ダイニングのイスに座ってなお、にこにこと満面の笑みを浮かべる彼女に、俺は思い切って聞いてみることにした。

「何か、いい事でもあったんですか?」

 これに対して、彼女は、「ンフフフ」と気味の悪い笑い方をした後、こう続けた。

「そうだよー。いい事あったんだー」

 俺は、もう一度聞いて、と体全身で訴える彼女の要求通りに聞く。

「どんないい事があったんですか?」

 またも彼女は「ンフフフ」と気味の悪い笑い方をする。

「私の、本が、出ます……!」

「は?」

 一瞬、理解できなくて変な声が出た。何を言い出すんだこの人は。

 この時に俺は、彼女の職業を知った。そのあと、にこやかなご本人から、ご丁寧に説明された。その話をまとめるとこうだ。

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