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 こんな日々を二週間ほど繰り返したある日、少しの変化が訪れた。

「こんにちは」

 今日も不思議さんはやってきた。ただ、いつもと少し違う。ノートパソコンを両手に抱えて立っていた。

「ああ、これですか。見ての通りノートパソコンです。まぁ、お気になさらず」

 俺の視線に気付いたからなのか、頼んでもないのに説明してくれた。いつものように、カップラーメンを食べ、不思議さんが片づけをしてくれた。普段なら、ここで彼女は帰るのだが、今日は違った。

 「もうしばらく、ここにいてもいいですか?」

 どういう目的か知らないが、残念なことに、納得してくれそうな断る理由が見つからなかったので「……いいよ」と言った。不思議さんは、先程机の上に置いたノートパソコンを手元に引き寄せ、電源を付けた。

「どうぞ、お気になさらず。奇人さんは奇人さんでご自身のすべき事をなさってください」

 ここは、俺の部屋なのだが、そんな事は気にしていないかのように、さらりと言ってのける。

 だが、このまま彼女を気にしていれば、自分のやるべき事ができないままというのは困る。幸い、彼女はキッチン横のテーブルでパソコンと向き合っている。対して、こちらのアトリエ兼リビングルームは彼女の背中側。これなら、彼女に見られずに絵を描ける。仕方なく、寝室にイーゼルごと隠しておいた絵をリビングまで運ぶ。リビングにイーゼルを置き、椅子を持ってくる。それと、ケント紙と呼ばれる滑らかな紙と鉛筆、消しゴム、それと色鉛筆も持ってくる。紙と、モデルとする風景の写真をイーゼルに置き、鉛筆を持つ。不思議さんは、イーゼルにのっている紙に隠れて、ここからは見えない。が、パソコンのキーボードを打ち続ける音はが室内に響く。それを聴きながら、俺は鉛筆を握り紙と向かい合った。

 鉛筆が紙の上をひたすらに駆ける。時々消しゴムを手に取り、余分な線を消す。そしてまた、鉛筆が紙の上を駆け始める。脳内に描きたい世界がぼんやりと映る。それは次第に像を結び、俺の感覚はその世界につながる。俺はもう線を描いてはいない。そこにあるべき線をなぞっている。どんどんと、紙上に線が浮かぶ。その線が互いに繋がり、交差し、重なる。消しゴムを軽くかけて線の濃さを調節していく。紙を指で擦って、薄く淡い灰色を広げる。紙には、脳内の景色が映し出されている。最初はただの線だったものが、次第にビル群に、車に、夕陽に反射するガラスに姿を変えていく。黒と白と灰色の世界。脳内に映る景色を逃すまいと必死になって線を引き続ける。急いで、でも丁寧に。零れ落ちる汗も気にせずに。でも、風景は零さぬように。

 そして、最後に色鉛筆で仕上げをする。この絵の主題である車道に架かる歩道橋。それだけは、他の部分と違って、線画状態だ。夕日に照らされているそれに、今から色をつける。脳内の歩道橋と同じ色にするために、慎重に色を重ねていく、はずだった。突然プツリと脳内の風景が消え、闇が広がる。手が強張り震える。背中と額に冷たい汗が流れる。色鉛筆を持ったまま、線画のままの歩道橋を見てため息をつく。まただ。

 静かに色鉛筆を戻し、そのまま瞼を閉じる。

 昔は、こんな事は無かった。自由に自分の思うように絵に色を付けられた。だが、ある時から、色を付けることができなくなってしまった。色を付ける前までは、鮮明な像が脳内に浮かぶのだが、色を塗ろうとした瞬間に、その像は消え、ただ、闇が広がるようになってしまった。一度だけ、無理やり色を付けようとしたが、不快感に襲われてトイレに駆け込み、胃の中身を全て出してしまった。だから、今の俺の絵は全て、白黒のままで時間が止まっている。その絵の主題が、色を持たないままま、眠っている。今回もその例に漏れず、主題の歩道橋が線画のままだ。

 闇から抜け出すためにゆっくりと瞼を開く。目の前には未完成のままの絵、ではなく不思議さんの顔があった。

「わっつ」

 俺は変な声を発しながらのけぞった。不思議さんも「にょんっ」と謎の声を出して驚く。なんだその声、と思ったときにはもう遅かった。背中に衝撃が広がる。のけぞったせいで、椅子から床に落ちたのだ。思わず「痛ってぇ」と声が出た。痛みに耐え目を開くと、目の前に手が飛び出てきた。

「大丈夫……ですか?」

 不思議さんが、掴め、と言うように手を差し出す。その手を掴んで立ち上がる。「ありがとうございます」

 色の薄いその手は、冬の空気のようにひんやりとしていた。

「すいません、驚かせてしまって。もう、帰ろうと思って声を掛けたのですが、ずっと目を閉じたまま黙っているので大丈夫かな、と思いましてですね」

「なるほど。それで、見たんですか?」

「な、何をでしょう?」

「この絵、見たんですか?」

「そ、そ、そんなに見てませんよ?」

 意味不明な日本語を喋りながら焦る不思議さん。ただ、目が泳いでいるのを俺が気付かないとでも思ったか。

「はあ、見たいなら見てもいいですよ。そこの寝室にしまってあります。まぁ、全て出来損ないですが、それでも見たいというのなら」

 予想外の反応だったのか、不思議さんは驚いたように目を見開いていた。

「いいんですか?では、早速……」

 その部屋に行こうとする不思議さんを、「もう、遅いので明日にしてください」と言って制す。不満そうな彼女を玄関まで押しやる。しぶしぶ諦めた不思議さんは、靴を履き、ドアを開け外に出る。そしてこちらを向き、「明日、絶対に見せてくださいよ。絶対ですからね?」としつこく繰り返し、隣の部屋に帰っていった。やれやれと思いながら、俺はドアを閉めた。

 こんなことを言ったのは、本当に気まぐれだった。一方では見せたくない、見られたくない、と言っていても、もう一方では誰かに見て欲しいと思っている。こんなことを言ったのはたぶん、久しぶりに人との交流があったから、浮足立っていたからだろう。

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