2
蛇口を捻ってヤカンに水を注ぐ。ヤカンに蓋をして、コンロで火にかける。シンク下の扉を開けて、中から先ほど買ってきた十円カップラーメンを取り出して置く。容器のフタを半分まで剥がし、キッチンの引き出しから箸を二膳取り出す。
「座ったらどうです 」
そこで初めて、立ったままの彼女に声を掛ける。彼女は小声で「失礼します」と言ってから静かに椅子をひいて座った。
「あなた、倒れるまでして何をやっていたんすか」
俯いていた彼女がゆっくりと顔を上げる。髪が重力に従って頬の上を流れる。顔色は幾分か良くはなったが、まだ血色が良いとは言えない。でも、不思議な事に、こちらを見るその瞳は、光があった。多分、今の俺よりも瞳に光を含んでいる。
「すいません……。それはちょっと……言えないです……」
相変わらず間の多い喋り方で、やんわりと誤魔化された。
「ふーん」
まあ、言いたくない事を無理に訊くのも悪いと思った。
「なんか……すんません」
彼女は焦ったように、お気になさらず、と繰り返した。気まずい沈黙の時間が流れる。いつの間にか彼女はまた俯いている。何か話題はないかと探したが、結局見つからないまま時間が進み、ヤカンが甲高い音が静かな空間に響いた。
コンロの火を止め、ヤカンを持ち上げる。容器にお湯を注ぎ、フタの縁を折り曲げてフタを固定し、待つ。卓上にある、掛け時計代わりの腕時計を見て、出来上がり時間を確認する。またも沈黙。腕時計の秒針が呆れたようにコチコチと動く。向かい合った二人が、自身のカップラーメンを見つめ続けるという異様な状況が生まれてしまった。
「今日は寒いですね」
この状況を変えたのは、俺の前に座っている彼女だった。
「そうですね」
絶望的に下手な会話をした。しかも、一ターンしか続かなかったため、また先ほどの沈黙に引き戻される。その後、約三分の沈黙をやり過ごした俺は、「もういいでしょう」と言って、カップラーメンのフタを開けた。彼女もそれに続いて、フタを開ける。互いに一言も発さずに箸を動かした。
味は、あまり期待していなかったが、そこそこだった。金欠でもなければ、進んで買おうなどとは絶対に思わないが。
箸は、彼女が「これぐらいは、やらせてください」と言い、洗ってくれた。
その後、彼女は自身の財布から、カップラーメン代を支払う、と言って幾らか出そうとしたが、さすがにそれは受け取らないことにした。代わりに少しばかり賭けに出ることにした。
彼女が何度もお金を渡そうとするのを、やんわりと断りながら、玄関まで進んでもらった。申し訳なさそうにする彼女は、先ほどと比べてだいぶ顔色も良くなったように思う。靴を履いてドアノブに手を掛けた彼女を呼び止める。何事、という顔でこちらを見てくる。俺は思いきって言った。
「あの、明日も来てくれませんか?」
またも沈黙。やってしまった。きまりが悪くなって、俺はさらに口を開く。
「カップラーメンのお礼、としてです」
俺は誰かと摂る食事が久しぶりすぎて、頭がおかしくなったのかもしれない。だが、また、明日から一人、静かな部屋で食事をするのかもしれないと思うと、少し、少しだけ憂鬱になっていた。たとえ、何も会話をしなくても、誰かと同じ空間で食事をするのは、とても暖かいものだった。 だからといって、今日あったばかりの人に頼むのは、あまりに無謀な賭けだが。
「わかりました」
「え?」
「だから、わかりました」
はっきりとした声で返事が返ってきた。先ほどとはあまりにも違う声色に、一瞬、幻聴かと疑いもしたが、二度も返事をされたことで、紛れもなく目の前の彼女から放たれた言葉だと分かった。彼女は
「また、明日来ますね」
と言って、扉を開けた。そして
「ちなみに、隣の部屋です」
と言い残して、扉は閉まった。
「は?」
予想はついていたが、まさか隣だとは思いもしなかった。名前も知らない、何をしているのかも知らない。そんな人間が明日もここに来る。自分で頼んでおいてだが、不思議な気分がした。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます