君の 色を描き 心を書く

冬気

1

 喉が焼けるように痛む。重たいだけの体を起こし、洗面所へと向かう。蛇口をひねって水を出す。次の瞬間、腹と喉元を襲ってくる不快感に身構えたが、結局何も出なかった。もう吐いても何も出ない。冷水で顔を洗い、硬いタオルで拭く。鏡を見ると死んでいるのか、生きているのか分からない顔をした男がこちらを見ている。頬はこけ、髭は伸び、目の下にはうっすらと、隈が現れ始めている。あまり鏡の向こうの男を見ないようにしてキッチンへ向かう。二日間ほど食事を摂っていない自分の体は前より軽く感じた。キッチンにある小さな冷蔵庫を開けるが、味噌以外は何も入っていなかった。冷気が足元を冷やして消えていく。冷蔵庫の扉を閉める。仕方がなくシンク下の扉を開ける。そこにはカップラーメンが一つだけ残っていた。外装のフィルムを破き、フタを乱雑に剥がす。もうお湯を沸かすのも面倒になってそのままの麺をかじった。塩辛く感じたが、空腹には敵わず全て口に押し込んだ。視界の端に一枚の絵が入る。それを見ると視界が滲み始める。それを必死に抑えるため、目を強く抑えうずくまった。



 彼女は、冬の空気のようだった。冷たく澄んでいて、でも、太陽の光をたくさん含んだ色をしていた。

 当時の僕は絵を描いていた。夢をただ追い続けていた。小学、中学、高校、大学と絵を描き続け、コンクールに応募すると決まって最優秀賞だった。だが、大学卒業後から、状況は一変した。様々なコンクールに応募をしたが、何度も落選を経験した。描いて落ちて描いて落ちて描いて落ちて描いて落ちて描いて落ちて描いて落ちて描いて落ちて描いて落ちて……。職にも就かず金もなく、食事が日を追うごとに質素になっていく。でも絵を描くためには生きねばならなかった。

 俺には夢があった。絵を描き、売る度に価値が上がっていく。それで得たお金で両親を幸せにするという幼稚な夢。だが、その両親も三年前に亡くなった。飲酒運転をしていた車にぶつかり、搬送先の病院で死亡が確認された。「絵を描いていなかったらこんな事にはならなかったかもしれない」そう思ってしまった。夢は、自分を高みへ連れていってくれる風船から、一気に冷たい水底へ引きずり込む重りになってしまった。無意味な後悔を重ねた。もしかしたら絵を描くことに多少の罪悪感があったのかもしれない。でも、いまさら後には退けず、意地になって絵を描き続けた。

 ある冬の日。俺は寒さに震えながら、軽い財布を持って近所のスーパーへ買い物にいった。さみしい財布の中身と相談をして、割引で十円になっていた怪しげなカップラーメンを買った。相当不人気な商品なのか、これだけ格安でも棚に多く残っていた。一日に一つ食べていけば七個で一週間はもつ、などと考えながら次々にカゴの中へカップラーメンを入れていく。一か月分の 量を持って、レジに行こうとすると、隣でもう一人、不健康そうな女がカゴの中に、俺が買ったのと同じカップラーメンを大量に入れていた。物好きなヤツもいるんだな、程度に思ってその場を去った。

 当てもなくあたり散歩しているうちに、空が暗くなり始めた。気温はぐっと下がり、先ほどよりも体が震えた。足早に家に向かう。風が吹いて、スーパーのビニール袋をカサカサと鳴らした。アパートの錆びた階段を上って自分の部屋の方を向いた。

 次の瞬間、体が動いた。後ろでカップラーメンの落ちる音がしたが、気にせず駆けた。人間が一人、うつ伏せに倒れていた。体を仰向けにさせる。呼吸があることを確認してひとまず安心する。

「ん……」

 どうやら意識が不安定なようだ。しかしなぜこんなところで倒れているのか、と疑問に思いつつ声を掛ける。

「大丈夫ですか」

 落ち着いてきたおかげで様々な事が分かった。倒れていたのは女性だった。そして、スーパーで十円カップラーメンを大量買いしていた人と同じ人だった。かなり血色が悪い。隈がひどいことから、恐らく何日も寝ていないのだろう。起きる気配もない。この寒空の下に放置でもして、翌日、玄関前で死なれていても困る。仕方なく自分の部屋に入れることにした。「とりあえず俺の部屋いれますよ」と確認をとったら、「うぅ……」と帰ってきたので了承をいただいた事にして、買ったカップラーメンと共に部屋に入れた。

 とりあえず、寝室にある簡易ベッドの上に寝かせて目を覚ますまで放置することにした。俺はアトリエという名ばかりのリビングに行き、描いていた絵の続きに手をつけた。

 夜八時。机の上に置いてある腕時計の秒針が進むコチコチという音が静かに部屋に響く。絵の具の乗ったパレットを手に持ったまま上を見て、首の筋肉を伸ばす。そういえば、あの倒れていたヤツをすっかり忘れていた。

「もう、起きたかな」

 廊下に通じる扉を開け、る必要も無かった。扉が少しだけ開いていて、その隙間から覗く目は泳いでいる。

「えっと、その、あのです……ね……」

「なんすか、起きたのなら声を掛ければよかったのに。いつからそこに?」

 もともと泳いでいた目がさらに泳ぐ。

「いきなり上を見始めた頃から……です……」

 倒れてから約二時間。結構、回復早くないか? と思ったがそんな事はどうでもいい。

「目が覚めたならもう帰ってくださ――」

「絵を、描いているんですか?」

 見られていたか。まあ、そりゃそうか。覗いてたってことは見えても不思議じゃない。

「えぇ、そうですが? 悪いですか」

「いえ! そのっ、すごいなぁ、と思いましてですね」

 正直、あまり他人に触れられて嬉しいものではない。絵を描く事によって嫌な思いも沢山したから。さりげなく絵を壁に向けて、見えないようにした。

「あの、もう元気になったのなら帰って――」

 ――ください、と言おうとしたが、それより先に目の前のヤツの腹が鳴るのが先だった。全く、こんな展開、ベタもベタだ。あまりのタイミングの良さに、言葉も出なかった。目の前の腹ペコ女は、決まりが悪いのか俯いている。長い髪で表情は分からないが、わずかに見える耳は茹でダコのような色をしていた。さすがにこの腹ペコを追い出す気にはならなかった。仕方なく、本当に不本意だがこう言う。

「飯、食います?」

 小声で、「カップラーメンしかありませんけど」と付け足して。

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