久丸雪(ひさまる・ゆき)の手記より

●久丸雪(ひさまる・ゆき)の手記より

 僕は、チビでデブ。

 これだけでもうアウト。

 中学時代、いろんなイジメにあってきた。

 どんなに牛乳を飲んでも背は伸びないし、どんだけ走っても簡単には痩せない。

 毎日牛乳一リットル飲んで、3キロのランニングを中学時代、ずっと続けても身長は三年間で5センチ伸びただけ。体重は20キロも増えた。

 原因は遺伝子。

 騎士だったお爺ちゃんの血が隔世遺伝する際に変質して、僕の成長ホルモンに悪影響を与えた。

 その結果、体の成長が遅いのに、栄養を蓄える信号を体に出し続けているため肥満体になった。

 これって、ちゃんと医学上の名前もある「特異体質」なんだ。

 お医者さんから聞かされたから間違いない。

 長ったらしくて病名はさっぱり覚えていないけど、


 “打つ手無し”


 その診断結果だけははっきりと覚えている。


 病気だからって、周囲には関係ない。

 学校ではみんなから散々に扱われて、時にはボール扱いされて蹴り飛ばされた。

 悔しかったし、哀しかったけど、僕にはどうしようもなかった。

 勉強以外に現実から逃避する方法なんてわからなかったし、何より、母さんを悲しませるのがイヤだったから。

 天国にいる父さんはともかく、母さんには、学校でイジメられていることはひた隠しにした。

 お昼代としてもらうお小遣いは全部学校で巻き上げられたから、お昼にご飯をちゃんと食べることが出来た覚えはない。

 怯えながら登校して、お腹をすかせて、暴力と恐怖の嵐が過ぎ去るのをじっと待ち続けて、それから逃げるように家に戻る。

 そんな毎日。

 それだけが中学校時代の思い出。

 

 転換点になったのは、中学三年生の春。

 その日、僕はサッカー選手のマネをした同級生に蹴り飛ばされて階段を転げ落ちた。

 これまで、何度か経験があること。

 でも、この日は打ち所が悪くて、救急車で運ばれた。

 その後、僕は三日三晩、集中治療室から出ることが出来なかった。

 本当なら警察のお世話だろう。

 でも、結局、騒ぎは親同士の話し合いで事件はもみ消された。

 同級生の親が、母さんの勤務先にとって大きな取引である会社の幹部だったせいだ。

 定年まで絶対に解雇しないとか、役職を与えるとか、そんな会社からの働きかけに母さんも乗ったんだ。

 本当、大人はズルい。

 階段を降りようとした所まで覚えているけど、目が覚めたら病院の天井。体中が死ぬほど痛かった僕にとってはいい迷惑でしかない。


 ……それで?


 ああ、そうだったね。

 この騒ぎと、僕がこんなところにいる関係について―――だったね。

 ごめんね?

 きっかけは、脳波測定を受けたこと。

 仕組みはよくわからないけど、脳波の中に特殊な波長があって、よくよく調べたらこれがMC(メサイア・コントローラー)の能力保持者特有のものだってわかったんだ。

 検査でこの波長が出たら、すぐに国に報告する義務があるそうで、僕の検査結果も国のどこかに送られた。

 まるで伝染病だか狂犬病みたいだなんて突っ込んでる余裕はなかった。

 僕がそれを知ったのは、意識が戻ってからだから。

 革ベルトでベッドに固定され、鎮痛剤がしこたま打たれた理由は、頭蓋骨のヒビの他に、右肩と左の肋骨二本折っていたから。

 全治二ヶ月。

 そんな診断が医師から下された。

 やれやれと思う余裕も無かった。

 翌日、僕はベッドごと救急車に押し込められて、都内の病院へ強制転院させられたんだ。

 何が何だかさっぱりわからない。


 精密検査を行います。


 そう聞かされたけど、何のことだかさっぱりわかんない。

 なにより、思ったところでどうなるわけじゃない。

 検査のジャマだから。

 そんな理由で、骨折その他はすべて療法魔導師って人達がすぐに直してくれたのは、ケガの功名なんだろう。

 

 さて?

 僕の測定結果は?

 

 聞くまでもない。

 

 僕みたいな「歩く肉団子」が、何か目立つ才能なんて持っているはずはない。

 こんなぶよぶよした体を精一杯、動かしたところで、出てくるのは汚い汗だけ。

 そうだよね?

 僕は実際、迷惑をかけまいと小さくなっていたのに、階段から蹴り落とされたじゃないか。


 何もありませんでした。

 君は、ただのゴミです。


 そう、そんなこと言われて検査は終わり。

 僕は家に戻って、また学校(じごく)へ行く。

 卒業(かいほう)まではまだまだ先のこと。

 

 それまでただ、変わらない毎日が待っている。

 階段から突き落とされた件だって、誰も気にもしないで、同じ事さえ冗談気取りでやってくるだろう。

 誰も反省しない。

 何も変わらない。

 僕が―――地獄にいるってことも含めて。


 そう思いこむしか、僕には何も出来ない。

 何かを変える力はない。

 取り組もうとする勇気もない。

 やってやろとする覚悟もない。

 何もない。

 つまり―――

 僕は―――無力なゴミなんだ。

 

 そこまで自分を言い聞かせた僕は、大きくて清潔な病院の待合室で自分が呼ばれるのを待った。

 自分の決めつけが正しいことを裏付けてもらう時間が来るのを待っていたんだ。

 

 もうお昼になる。

 待ち続けて2時間。

 もう疲れた。

 そんな頃、やっと名前が呼ばれた。

 

 入ったのは近所の病院と大差ない、ただの診察室。

 そこで待っていた測定担当医の口から告げられたのは、僕がそれまで考えていたのとは全く違う、僕の中に眠る可能性の存在だった。


 MC(メサイア・コントローラー)の高い素養有り。

 測定結果―――AAマイナス


 メサイアの動的なコントロールを担当するメサイア使いを支える女房役こそがMC(メサイア・コントローラー)。

 この測定結果は、僕にその素質があることを教えていた。

 それからすぐ、近衛府からスカウトが来た。

 先生に叱られたとかで機嫌の悪いいつものグループに袋だたきにされた後、汚れた制服のまま、校長室に入っても、誰の心配さえしてくれなかった。

 お昼飯代は巻き上げられて、お腹がグーグーなる。

 恥ずかしい。

 そんな僕のことなんてお構いなし。

 スカウトだというスーツ姿のおじさんから、僕は富士学校への進学を勧められた。

 高校卒業からでも遅くはないが、飛び級制度もある。


 キミの居場所を自分で作ることが出来るんだよ?


 その一言で、僕は学校へ行くことをやめて、自分の部屋で勉強に没頭するようになった。

 合格したら、僕はイジメから逃げられる。

 そんな希望だけがあった。

 希望があれば、人間はどんな辛い境遇でも耐えられる。

 勉強に勉強に勉強を重ねる毎日。

 時々、睡眠不足でフラフラになることもあったけど、最後まで勉強して、僕は富士学校の合格通知を勝ち取った。


 近衛兵団付属富士学校メサイアコントローラー養成課程第44期候補生。


 それが、僕の免罪符。

 

 合格通知を手にした時、僕は声を上げて泣いた。

 嬉しくて、嬉しくて―――。


 僕の未来には、希望がある。


 そう、はっきりわかったから。



 ……。


 ……で。

 

 富士学校に入った僕は、少しだけ、特異な立場にいる。

 MC(メサイア・コントローラー)は何故か、能力保有者に女性が多い。

 男のMC(メサイア・コントローラー)と三毛猫のオスは同じだと言う。

 貴重って意味で。

 富士学校に在籍するMC(メサイア・コントローラー)養成課程の生徒は40人。

 男は僕だけ。

 ちなみに、ここ10年間で養成課程に入った男は僕だけ。

 しかも、飛び級15歳入学でとなれば、富士学校開校以来の快挙になるそうだ。


 当然―――目立つ。


 周りは、年上のお姉さん達ばかり。

 飛び級で入った同い年の女の子もいるにはいるけど、いつも女の子に嫌われていた僕から近づくことは出来ない。

 入学式から奇異の目で見られて、ひそひそと語られる容赦のない批判が耳に届く、針のむしろ状態が続くこと一週間。

 周りがどんなに美人や美少女(MC(メサイア・コントローラー)=美人は世間の定説)でも、僕には周りを見回す勇気はなかった。

 綺麗な女の人同士の声は小鳥のさえずりのようだけど、それさえ恐怖だった。

 その内容がどんなものであれ、時に年頃の男の子にとって刺激的すぎるものでも―――だ。

 僕はどうしても周囲にとけ込むことが出来なかった。

 女子。しかも、年上の女の人となれば、どう話しをしたらいいのかわからない。

 どう、視線を向けてよいかさえわからない。

 何より、


 アイツ、変な目でこっち見てる。


 中学時代、同級生の女子を何気なしに見るだけで散々言われた言葉が脳裏にこびりついて離れない。

 怖い。

 クラスの中でどう振る舞って良いかわからない。

 折角の希望が崩れるような気がして怖い。

 友達もいない中、僕が出来ることはせいぜい、机に座ってテキストに没頭するガリ勉役に徹するだけ。

 とにかく、じぶんが浮いていることは自覚出来た。


 女子校に間違って入ったデブの男の子。


 入学から一ヶ月。

 僕の中で、自分の立ち位置がはっきり固まってきた頃。


「久丸候補生」

 僕に声をかけてきたのは、何と教官だった。

 佐渡(さわたり)教官。

 別名―――サド教官。 

 メガネの清楚系。

 メリハリのきいた大人の容姿と優雅な物腰はソフトで気品にあふれ、女性の所作を学ぶ上で格好のお手本。

 入学からしばらく、周囲の女子達は、教官の授業の度にキャーキャーと騒いでいた。

 ……最初だけ。

 今、佐渡教官の授業前となれば、全員が予習に余念がない。深刻な顔でテキストをめくり、ノートを読みあさる。


 理由?


 簡単。


 ……入学して3日目のことだ。

 先生の授業で居眠りしていた女の子がいた。

 先生が目の前に眠り続ける女の子を前に、笑顔を絶やさない先生が最初にやったこと。

 グシャッ。

 セロリをへし折って作った効果音さながらの音がクラスに響き渡った。

 先生が拳を寝ている生徒の後頭部に振り下ろした音だ。

 周囲が唖然。いや、指一本動かせない中、先生はよどみない、ほんとうに心地よい口調で手にしたテキストを読み上げ続ける。

 殴られた生徒はピクリとも動かない。

 彼女の髪を掴んで動かない生徒を教壇まで引きずっていくと、教壇の中からとりだしたのはロープ。

 授業を続けながら、先生は生徒の両足をそのロープで縛り上げ、天井に刺さったスクリーン用のフックを使って彼女を逆さにつるし上げた。

 スカートの中身が丸出しになった気の毒な生徒は、鼻血を出したまま、両手ぶらり状態。

 先生の授業は一切、止まらない。

 先生は、教室の隅に置かれていた防火用のバケツをもってくると、生徒の顔めがけて中身をぶちまけた。

 冷たい水を浴びてようやく意識が戻った生徒が我に返った時、待っていたのは、残り時間の間、ずっと続くムチの百たたき。


 ―――このように、軍隊における階級というのは絶対的な。


 ビシッ!

 バシッ!


 ギャッ!

 ヒギイッ!


 ―――従って、上官と相対する際は、敬礼が必要なのですが。


 ビシッ!

 バシッ!


 アギィッ!

 イダイィッ!


 先生の静かな声。

 ムチの音。

 悲鳴と命乞いが、授業中、ずっと続いた。

 逆さにされた生徒の顔は真っ赤。

 ゲポッという音と一緒にはき出されたゲロが顔を汚した。

 それから少しして、ゲロの洗い流すように襟元から液体が流れ出たのは、失禁したせいだろう。

 綺麗な顔はぐちゃぐちゃだ。

 写真でも撮られたら、もう二度と逆らえないだろう。


 今時の娘らしい、態度の悪い人が多いクラスにとって、これは文字通りのみせしめとなった。


 居合わせた生徒は顔面蒼白。

 中には恐怖に負けて泣き出す生徒もいる。


 佐渡先生の授業は簡単に地獄に変わる。


 それだけは誰の目にもはっきりとわかった。

 

 チャイムが鳴ると、先生は静かに授業の終了を次げ、生徒達に礼。


 吊された生徒がいなければ、本当によい授業だと思う光景。


 生徒を吊していたロープが外され、生徒は顔面から床に落ち、ゲロと失禁と血の塊に顔から突っ込んだ。

 もう、ぴくりとも動かない。

 30分近く、逆さづりにされてムチで叩かれ続けたんだ。

 死んだんじゃないか?

 本当に、心配になった。

 僕たちのそんな心配をよそに、先生は生徒の襟首を掴んで、

「この子は本日、体調不良で休みます。以降の先生にはそう伝えてください」

 そう言い残して教室を去っていった。


 後の教室は半分パニックだ。

 机に突っ伏して泣き出す生徒。

 抱き合って恐怖に震える生徒。

 とても、普通に授業が終わった後の光景とは思えない。


 ちなみに、後の授業に入った教官の命令で、床に残った生徒の血やお漏らしやゲロを掃除が僕の仕事になったのは、言うまでもない。



 ……話を戻そう。

 あの時、生徒に振り下ろしたムチを手に、佐渡教官は僕の前に立っていた。

 いつ、目の前に立ったのかさっぱりわからない。

 驚く僕の視界一杯に入るのは、教官のでっかいおっぱい。

「は、はいっ!」

 椅子を蹴って席を立ち、直立不動の姿勢をとる。

「何でしょうか!?」

「……うーん」

 教官は、その形の良い顎に細くてしなやかな指をあて、少し考える様子。

 香水を付けているんだな。

 すごく良い匂いがする教官は、視線を彷徨わせた後、言った。

「いいでしょう」

「はっ?」

 何が?

「久丸君―――こっちの方が呼びやすいわ」

「……はぁ」

 えっ?

 それ、まずくない?

 僕達は、入学後、すぐに言われている。

 曰く、お互いをニックネームで呼んではいけない。

 一人称は「自分」、二人称は「貴官」もしくは姓の後に「候補生」と付けろと規則で命じられている。

「教官が呼ぶなら問題ないのよ」

 考えを読む力でもあるのか、佐渡教官は言った。

「そ、そういうものですか?」

 もう、驚くしかない。

「そう。それでね?」

 教官は、脇に挟んでいたバインダーから何かを取り出し、机の上に置いた。

 一枚の紙。

「これが辞令」

「は?」

「それと、これからはこの腕章を付けてね?」

 紙の上に載せられたのは、「従兵」と書かれた腕章。

「これは?」

「今日から私の専属従兵になることが決まりました。泣いて喜んでも良いんですよ?」

 教官は、にこりと笑って言う。

 こんな美人に微笑まれた経験なんて無いから、それだけでドキドキしてしまう。

 ……まぁ、よく考えたら、言ってることは滅茶苦茶だけど。


 従兵


 将校の身の回りの世話をする兵卒のこと。

 富士学校では生徒がこの任にあたることがある。

 これは知っていた。

 でも、成績優秀な生徒が就任する名誉職に近いとも聞いている。

 入学前に渡された「富士学校の解説 サバイバル編 傾向と対策」という、すごいタイトルのテキストには、確か、「特に教育を必要とせず、すぐに任官するに足る程の素養を持ち合わせた生徒」が従兵に抜擢される。と書いてあったはずだ。

 でも、入学して一ヶ月も経っていない。

 しかも、僕が選ばれるはずはない。

 何の冗談だろう。

 僕、佐渡先生の気に障るようなことでもしたんだろうか?

「久丸君」

「は、はいっ!」

「次の授業があります。私物をまとめなさい。十秒以内に」

 教官は、ヒールの音と一緒に綺麗なお尻――じゃなくて背中を見せた。

 僕は机に広げたテキストをバッグに放り込むと、腕章を掴んだ。



 それから……数ヶ月。

 課業の間、僕は、常に教官と行動を共にすることになった。

 授業中は、テキストの配布からお茶の準備、しばき上げた生徒の吐き散らした汚物の後始末までやって、授業の合間には、コピーをとったり、教官同士の連絡に走り、ついでに教官の食事やおやつの手配して配膳して―――。

 従兵の仕事について、教官は別に細々とした指図はしない。

 最初だけ。

 プリントの配布を。

 お茶を。

 そんな命令を短く伝えるだけだった。

 コツはすぐに掴んだ。

 イジメられっ子が、イジメっ子に敏感なのと根は一緒だ。

 コツを掴めば後は簡単。

 情けないけど、過去の経験がこんな時に役立つとは思わなかった。


 常に教官に意識を集中していればいい。

 教官の仕草から全てを判断すればいい。

 いつ、お茶を用意して。

 いつ、椅子を用意して。

 いつ、プリントを配布し始めて……。

 みんな、教官の雰囲気から知ることが出来る。

 肝心の授業は、先生の声色に集中している分、自然と耳から入って覚えてしまう。

 必要なら、自由時間にテキストを読むだけ。

 

 そんなこんなで半年が過ぎた頃―――。


 この頃になって、ようやく、僕は周囲を見回すことが出来る余裕を持ち始めていた。

 そして、学校内で僕の立場が変わっていることに気づいた。


「ぶー君」

 教官がトイレ(“ご不浄”とか“はばかり”と呼ぶよう躾けられている)に行っている間、廊下で待っていたら、不意に声をかけられた。

「えっ?」

 次の授業の時に出すお茶は緑茶かアプリコットティーかを考えていた僕は、自慢じゃないけど、周囲に声をかけられたことなんて経験、ほとんどない。

 驚いて振り向くと、そこに立っていたのは、あの時、逆さに吊されてムチで叩きまくられた女生徒だった。

 確かあの時は、数日間、教官の監視下に置かれてたっけ……。

「ご主―――じゃなくて」

 最初は態度が大きい、何かと雑な子だったと覚えているけど、最近は違ってきたかな?

「佐渡教官は?」

「はばかりです」

「はば?」

「―――お手洗いです」

「ああ。そう。この後は?」

「お昼まで45期の授業です」

「そう……残念」

「……それで」

「何?」

「何です?今のぶー君って」

「あれ?君の名前じゃないの?」

「僕、久丸(ひさまる)です」

「似たようなもんじゃない」

 絶句。

 人の名前をそんな風に間違えて、そんなドきっぱり? 

「ってか、みんな言ってるよ?」

「みんなっ!?」

「うん。ぶー君、かわいいって」

「かわいいっ!?」

 うそっ!?

 僕がっ!?

「でさ」

「はいっ!?」

「そのカワイイぶー君にお尋ねします」

「か、からかわないで下さいっ!」

 女生徒は、目をぱちくりした後、ニマァッと意地悪そうに笑った。

「キミねぇ?」

「はいっ!?」

「そういうんだから、からかわれるんだよ?」

 頭をナデナデされたけど……嬉しくない。こういうの。



 最近、変わったことは?

 45期の教室までの途中、不意に教官に訊ねられて、僕は素直にさっきのことを話した。

「成る程?」

 教官はさも楽しそうに微笑みながら、

「ぶー君、ですか」

「失礼だと思います」

 憮然として僕は言った。

「自分達は、ニックネームの類の使用は禁止されているのに」

「まぁ、大目に見てあげなさい」

「で、でも」

「どっかの海兵隊みたいに、“微笑みデブ”なんて呼ばれるのとどっちがいいですか?」

「そ、そりゃ」

「デブはデブでも、愛されるデブってのもあっていいじゃないかしら?」

「……」

 やっぱり、先生も僕のこと、デブだと思ってるんだな……これ絶対。

「世の中、皮下脂肪の下には内臓脂肪があるものよ?」

「意味わかりません」

「学習しなさい」

 教官は言った。

「ここは学舎なんですから」

「……はい」

「半年間、私の名誉ある奴隷という名の従兵をやっている間に、あなたは私の玩具から家畜、もう少しで執事の百万光年手前まで成長―――いえ?進化と言っても言い過ぎではないでしょう。

 それだけの変化というか変態を成し遂げたのです。

 喜んで良いと思いますよ?

 阿呆の腐りきった目から見ても、しがない歩くラードのキミに、わざわざ赤身を付けてぶー君と呼ぶ程には、もしくは、無意味に二酸化炭素を浪費する以外にも、キミには価値があると―――久丸君?ここは3階です。この高さでは、飛び降りても死ねませんよ?」



 それから、45期生の授業に入った。

 ……何だか、とてつもなく酷い評価を受けた気がする。

 僕は佐渡教官にとって何なんだろうか。


「人生最後のピケットラインと信じていた友人の結婚式に出席。同席した実家の母親から説教を受けまくった後、逃げるように参加した二次会において泥酔。お店に居合わせた男全員を正座させて閉店まで説教を続け、帰り際にお店の看板を粉砕。器物損壊で警察に保護されて以来、未だに都内から戻ってくることが出来ない二宮教官と、それを引き取りに言った長野教官に代わって、当面、私が授業を担当することになりました」


 僕は僕なりに精一杯、頑張ってきた。

 教官に怒られることも少なくなったと思う。

 でも、あんなこと言われるほど、僕は教官の中では価値がないのだろうか。

 単なる、足手まといなんだろうか?

 子供で、たった一人の男子だから、隔離するつもりだったとか?


「二宮教官は、戻ってきても査問委員会による譴責や始末書の作成や、民事上の賠償手続きや、その他諸々に忙殺され、授業なんて出来る状態にはならないでしょう。なお、この件は学校より生徒達に対して、箝口令が敷かれていますから、私の口からあなたたちに伝えることは出来ません。

 二宮教官は、あくまで「個人的理由」により、当面の間、お休みとなります。

 あなた達には、無意味に二宮教官の体なり、頭なり、酒癖の悪さなり、男運のなさなりが一日も早く良くなるように祈るという、無駄で無意味な事が許されています。

 ですが、余計な詮索は許されません」


 だめだ。

 いろいろ考えてる時じゃない。

 仕事に集中しよう。


 これからの授業を受けるのは、45期生徒。

 44期が一般試験で入学したとすれば、彼らは特待生入学した面々だ。

 最初、とてつもないエリート揃いかと思ってはいたけど……。

 何かが違う。

 何より、45期生徒は数が少ない。

 全員集めても44期の一つの分隊にも足りない。

 何でこんなに少ないんだろう。

 教室だって、席が二列埋まっているだけ。

 その席についた面々の顔が引きつっている。

 まぁ、内容が内容だから、仕方ないけど……。


 木製の窓を富士山からの吹き下ろしの風が揺さぶる。

 ガタついた窓枠から発する音が、冬の訪れを告げる。

 ああ。

 寒くなるぞ。

 僕は、持ってきたバッグから防寒着と膝掛け、それから毛布を取り出すことにした。


「久丸君?」

「はい」

 僕は教官にバッグから取り出した防寒装備を手渡すと、自分用のベンチコートをひっかけ、教室の窓を全部開けた。

 強烈な風が入って来る。

 富士の吹き下ろしは厳しいと、何かの本で読んだけど、本当だ。


 一瞬で体温を奪われた気がする。

 とりあえず、教壇横に据え付けたパーティションを風よけにする。

 それから、ストーブを教壇の前に置いて火力は全開―――よし。

 暖かいアプリコットティーをカップに注ぎ、椅子に防寒用の毛布を掛ける。

 これで先生には風はこないし、ストーブで温かさを確保出来て授業に影響は出ない


 これを平然と授業を続ける教官のジャマにならないように瞬時に行う。

 それが僕の仕事。


 今日はプリントはないから―――。


「ああ、そうね」

 椅子に座った教官は、不意に言葉を止め、居並ぶ45期生達を眺めた。

 つられて見ると、45期生は全員座ったまま微動だにしない。

 まぁ、そりゃそうだろう。

 寒くて動けないんだ。

「寒いわね」


 45期生の何人かが歯をガチガチ言わせながら、涙目で頷く。

 唇は紫色になっているし……。


「体操でもして、暖まりましょうか」

 教官はニコリと微笑み、45期生はホッとした顔を見せる。

 でも……それが大間違いだと、僕にはわかる。

「さぁ、全員」


 その後、45期生に待ち構えていた「体操」が何なのか、僕の口からはちょっと言えない。

 それでも、これだけは言っておく方が良いだろう。


 合掌。


  


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