第13話 しっぽを失くした禽獣たち(1)

 築後半世紀は経っていようかという古びたマンション。かつては公営住宅の団地に建ち並ぶもの一つであったことを示す棟番号の数字が外壁に残されているが、今や周りは駐車場用地にさえなっていない砂利砂利の空き地となっていて。建物として残るマンションは、それが最後の一つとなっている。


 集合玄関はオートロック式などでなく、とはいえ一応は鉄筋コンクリート造であり、外観的には少しデザインが古臭いというぐらいで、見るからにオンボロというほどではない。だが少なくとも、その内の一室――一〇八号室には、リフォームやリノベーションの一切されていない、修繕さえも最低限度という有様だった。床は畳でなくフローリングだが、それも傷み切っていて。


 パシイィ


 乾いた音が響き、頬を腫らした童女が床に倒れた。明らかに就学前であろう年端もいかない彼女を、見目三十そこそこの男が躊躇なく更に殴り続ける。口からのみならず、身体中から酒の匂いを漂わせながら。強迫観念にかられたように、無言で何度も何度も。対する童女の方も声一つ上げず、無表情なまま抵抗の素振りも見せない。


 ピンポーン

 

 唐突な呼び鈴に、童女は表情には出さないまでも期待の光明を得た。集合玄関はオートロック式でなく入りたい放題で、集合玄関機すらないようなマンション。だからその呼び鈴は、部屋のすぐ前に、今まさに誰かがいるという証拠。そんな呼び鈴に男が出たことはただの一度もなかったし、現に今も無視し続けているのに、そこへ対する童女の落胆は別にない。では何を期待したのかと言えば。


「…………」


 息を潜めた男が殴る手を止めて、代わりにその手で童女の口を塞いだ。酩酊状態でもその程度の理性は残っている。この時間――痛みが止む束の間が、童女にとって期待通りの、ささやかな幸せであった。根源的な救いなど望んでいない。諦めからではなく、そもそもそんなものがあることを知らなかったから。


 この家において玄関の敷居が跨ぐことが出来るのは男とそのパート―ナーだけ、つまりは鍵を持つ者だけと決まっていた。少なくとも物心着いてからは、彼らの娘であるはずの童女は一度たりとも境界を超えたことがない。つまり、一度も外へ出たことがない。彼女の世界はここで完結していた。

その日までは。


 Prrrrr


 鳴り響いたのは、床の上に直接置かれた固定電話。まだ呼び鈴が鳴ってから数秒というこのタイミングでは、男が出るはずもなく。無視を決め込んでいると、いかにもな合成音声の留守電メッセージへと切り替わった。

『タダイマ ルスニシテオリマス。ハッシンオンノアトニ メッセージヲドウゾ』

 そして甲高い発信音が鳴り響いて続け様に。

『いるなら逃げて! はや――』

 童女も知る女性の叫び声が、間髪入れずに巻き起こった爆発によってかき消された。電話ごと。いや、部屋もろとも。



   ◇



「……う」

「よう、やっと起きたか」

「……あ」


 榛からの呼び掛けを受けたあやめの、ぼやけた意識と視界が徐々に鮮明になっていく。壁も天井もシンプルな真っ白いクロス。床は薄茶色のフローリング。何一つの家具もない殺風景な四畳半の部屋に布団だけが敷かれ、その上に彼女は寝かされていた。


「っ、あっ」


 半覚醒した勢いそのままに起き上がろうとしたあやめは、しかし上体を起こしたところで全身に鈍い痛みを覚えて顔をしかめる。結局、立ち上がるまでには至らず。布団の上で上体だけを起こしたまま、低い声とともに一息を吐くに留まった。


「大丈夫かよ」

「アンタにだけは言われたくないんだけど」

「ケンカを吹っ掛けて来たのはお前だろうが。心配するだけありがたく思えって」 

「はんっ。……かび臭いな。ちゃんと掃除してんの?」

「してるわけねえだろ。俺の家じゃねえんだから」

「じゃあ、誰の家?」

「知らん。適当に選んだから。というか、今はもう誰の物でもねえか」

「ああ、そういうこと」


 つまりあれから遠くへ運ばれたわけじゃなく。ここも、あのゴーストタウンの中にあった一民家だということをあやめは察する。


「追儺に突き出さなくていいわけ?」

「いい歳こいた大の男が『子供に喧嘩売られたんで逮捕して下さい』って泣きつくのか?」

「すっげーバカにしてんじゃん」

「半分冗談だ。単なる私闘に付き合ってるほど『追儺局』も暇じゃないからな。私闘じゃないなら事情が変わってくる。だから見極めるためにも、先に俺が話を聞こうってわけだ」

「尋問でもしようっての?」

「お前の素性と事情を訊きたいだけじゃねえか。俺に恨みを持って個人的に挑んで来る奴は今もそう珍しくないし。お前もそういう手合いなら、わざわざ追儺に突き出すこともない」

「アンタやその仲間が人から恨まれてるのって、だいたい『八咫烏』のことで、でしょ」

「まあ、そうだな。当事者と関係者からの直接的な怨みもそうだし。『八咫烏』がなくなったことで、調子に乗った輩が蔓延るようにもなっちまったせいで」


 本来なら狙われるはずのなかった民間人の霊渉遺伝子持ちも、その多くが裏世界の毒牙にかけられることになった。榛が均衡の一つを破壊したことで、秩序を乱したのは紛れもなく言い逃れようもない事実。


「アンタ達はなんで『八咫烏』を潰したの? 私怨だって話は聞いてるけど」

「そんな大事なところ曖昧なまま、俺に直でケンカ売って来たのかよ。ヤバいなお前」

「仕方ないでしょ。こっちはほとんど野良みたいなもんだし。『追儺局』のことだって名前と存在を知ってるぐらいで、実際に関わったことなんて一度もないし」

「本当に珍しい奴だな、お前。まあ、別にいいけど。ややこしい理由なんてねえよ。私怨というか、ただ『ハヤト』を解放するためだ」

「ハヤトを解放? なにそれ。独善的な……カルト?」

「独善的なのは間違いない。というか。あのヒト達にとっては、そもそも自分がハヤトである自覚もないほどの連中になんて、仲間意識がなかったんだろうけど。片想いみたいなもんか」

「いや待って。意味が分かんない。仲間意識? 『八咫烏』を潰した連中って何者なの?」

「なんなのもクソも」何言ってんだこの子はという表情の榛が、勿体ぶる様子もなく二の句を紡ぐ。「ハヤトじゃねえか」

「はい?」


 今度はあやめが、何言ってんだこの男は、という表情をする番であった。それに対する榛の反応は、なんで何言ってんだこの男はみたいな顔してんだこいつ、という表情であり。つまるところ、なんだこの空気は。


「いやいや、逆でしょ? いや、逆でもないのか。ハヤトが『八咫烏』を潰したって。そうじゃないじゃん。『八咫烏』がハヤトの集まりでしょ? え、仲間割れだったってこと?」

「なんでだよ」


 榛のトーンは怒りというより、日常的な友人同士での会話におけるツッコミそのもの。そのものであったが、しかし。


「あ」


と、何かを察した声を発した途端に。逆上とまではいかないまでも、明らかに憤りを覚えた目付きになって。


(きな臭くなってきたな)

 と。声には出さないまま、思考を巡らせていた。


「あのさ、とにかく整理させて。まずアンタは、『八咫烏』を潰したのはハヤトだったって言いたいわけ? マジで?」

「俺がとか言いたいとかじゃなくて事実……いや、今はいいか。こっちも今すぐ証拠とか見せられるわけじゃねえし。うん。ああ、そうだ。『八咫烏』を潰したのはハヤト。あとちょっとした協力者だ。俺みたいな」

「で、それは仲間割れとかじゃない。つまり、『八咫烏』の中から裏切り者たちが出て、そいつらが『八咫烏』を潰したって話でもないと」

「そうだ」

「なんでハヤトは『八咫烏』と戦ったの」

「さっき言ったじゃねえか。ハヤトを解放するためだって」

「だから、それが意味分かんないわけ。どうして『八咫烏』を潰すことが、ハヤトを解放することになるん?」

「そのままの意味だよ。比喩でもなんでもない。『八咫烏』がハヤトを家畜化してたからだ」

「家畜……?」


 穏やかでない単語に眉を顰めたあやめに、榛はその詳細を語り始めた。

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