第7話 彼女の夜明け前(1)

 明かり一つも灯っていないビルの中を、天地無用に跳び回る影が二つあった。


「くっ!」


 火事場の馬鹿力。必死の形相をした見目十七、八歳ほどの少年が、分厚い窓ガラスを手袋もしていない素手の拳で叩き割った。一撃で粉々に。彼の体格は確かにスポーツマンらしく、同年代の平均的な少年たちと比べてもがっちりとしたものではあったが。それにしても飴細工の作り物などではない、正真正銘のガラス。窓枠に残る破片は逆立つ氷柱の如く。常人ならば如何に衣服で身を包んでいようとも、手なり顔なりが傷だらけになることは避けられない。


 しかし少年はためらうことなく、ビルの四階であるそこから飛び降りようとして――叶わず、襟を掴まれて背方の部屋へと引き摺り戻された。


「うあっ!?」


 カーペットも敷かれていない、埃まみれの床に背中を叩きつけられた少年は、覚えず目を閉じてうめき声を上げる。そして再び開かれた眼前には、彼を追っていた鬼の顔があった。


「遅いし」


 不遜に告げる鬼の姿は、珊瑚のように赤い瞳をした少女。歳は少年とさほど変わらないように見える。ライトブラウンのボブカット、遠目には着けていることさえ分かり辛い、控えめでシンプルなフープピアス。そして柄物のパーカーにミニスカート。現代的に言えば、ゲームセンターでダンスゲームに興じていそうな出で立ち。背は一六〇センチ台後半と、女性としては高身長な部類だが、履いているのがスニーカーということもあって目を引くほど極端なものではない。


 総合的に言って、真昼の繁華街にも夜の歓楽街にも違和感なく溶け込みそうな容姿と恰好。しかし廃ビルの中で鬼ごっこというのはさすがにどうだろうかという彼女に。


「くそおっ!」


 まさしくヤケクソで。少年は仰向けに倒れ伏したまま右腕を振るった。拳撃のつもりであればそもそも相手に届くはずもない間合い。だが。


「おっと」


 少女は大袈裟とも思われるほどに大振りの動きで後方へと跳び退いて、少年との間合いを更に取った。部屋は柔道の試合が同時に三試合は組めるほどの広さ。少女が跳んだ距離は直線にして二十メートルを超えている。立ち幅跳びにしても、助走なくしては常人ではあり得ない跳躍量を、後ろ跳びで瞬間的に。しかも彼女が跳んだ先は壁際で。すなわち、ただそこまでしか跳びようがなかったというだけのこと。本気には程遠い。しかしそれで十分だった。少年が腕から放った三本の青い矢を躱すには。


「はあっ」


 腕を使わずに足腰の力だけで、仰向けの状態から跳び上がり立ち上がった少年は、改めて少女の方を振り向く。その顔は疲弊こそしていたものの、寸刻前までほどの焦りはない。口角を吊り上げ、むしろ愉快そうですらあった。まさに一矢報いたとでも言いたげに。その面構えに対して、少女は眉を顰めながら言葉を口にする。


「見た目だけはカッコイイじゃん、アンタの霊渉。でも、掠ってすらないんだけど。その得意げな顔はなんなん?」

「慌てて躱したってだけで十分な収穫だからだよ。お前が本物ってことだろ?」

「それが分かったからって、どうこう出来るわけ?」

「無理無理。ただの確認だって。この距離で躱されるんじゃ、どうしようもねえや」

「じゃあ、投降しとけば」

「いや、それじゃあ、さすがに他の連中に示しも格好もつかないし」

「なら、どうするん?」

「なるべく痛くないようにお願いします!」

「っ、ちょっと」


 猛牛よりも我武者羅に。少年はまったくの無防備に、ただ身体を丸めて少女の懐へと跳び込んだ。その動き、速度たるや、十二分に超人の領域には達している。だが彼自身が先に放った矢よりはずっと遅く、つまりその矢を容易く躱せた少女が素直に喰らうはずもない。闘牛士よろしく、横っ跳びでひらりと躱した少女は、通り過ぎ様に少年の首へ手刀を打った。


 かつてのテナントがすべて出払ってしまって。今やがらんどうとなっているビルの入り口から赤い瞳の少女が現れた。肩には先ほどの少年――今は完全に気を失って、ぐったりとしている――を米俵よろしく担ぎながら。それとはまた別の少女をもう一人、脇に抱えてもいる。つまり合わせて百キロ前後になる人間という荷物を、いとも軽々と運んでいた。


 時刻は午後十一時半。事情を知らぬ者が見れば通報必至の光景だが、そもそも一般人が近寄るような、まして真夜中に通行するような立地ではない。ここから気軽に歩いて買い出しに行ける範疇には、コンビニエンスストアやスーパーマーケットはおろか、現役で稼働する自動販売機すらもない場所なのだから。


 開発の途中で投げ出され、捨てられ、忘れられたままになった区画。同じような場所は今や日本という国中にいくつもあって、しかもその多くが、ほぼ同時期にそうなってしまったという経緯を辿っている。ある時期を境にして、ごく短い期間で数多の大企業が相次いで倒産した煽り。この十数年間で、日本という国自体は大きく傾いてしまった。もっともその直截的な理由、真の切っ掛けを知る者は多くないが。


 それはともかくとして。今現在その場にいたのは、赤い瞳の少女と、彼女が捕らえた少年たちだけではなかった。先ほど青年三人をまとめて圧倒した包帯の男。荷台のリヤドアを開きっぱなしにした二トントラックの前で仁王立ちしていた彼に、赤い瞳の少女が問い掛ける。


「全員、捕まえたん?」

「こちらはな。そっちは、そいつらだけか?」

「あと一人、男の子がいた気がする。でも、いなくなってた。多分、逃げた」

「ということは、真っ先に逃げ出した見張りの小僧と合わせて二人……いや、今日この場に全員が来ていたとも限らんから、最低でも二人か、残りは」

「どうする?」

「どうもせん。群れていなければ何も出来ない連中だ。かといって自棄になって無茶なことをすれば、じき追儺の連中に見つかってしまうことぐらいは弁えている。まあ、捨て置いても問題はないだろう」

「じゃあ、今日はこれで、お仕舞い?」

「ああ。こいつらを山田のところへ届けたら、帰って飯にしよう。荷台の見張りを頼む」

「了解。……その子は?」


 言って。包帯の男の背後にいた一人の幼女に、少女は視線を移す。さきほどまで三人の青年によって惨い目に遭わされていた彼女は、今はどうにか自分の足で立っているものの、まだ正気は戻っておらず人形のよう。そんな彼女を一瞥しつつ、包帯の男は告げる。


「お前と同じだよ」

「ああ」


 わずかな言葉だけで幼女の境遇を悟った少女が歯噛みする。幼女を一瞥した後、自分が背負っている少年と抱えている少女を、ひどく冷たい目で見てから。


「もう少し、痛い目に遭わせてから、捕まえればよかったかも」

「……言っておくが」

「分かってるよ、神楽さん。この子らも、元を正せば、同じかもしれないし」

「ならいい。乗れ、あやめ」


 言って。包帯の男――神楽は幼女を助手席へと乗せ、自身は運転席に乗り込んで。赤い瞳の少女――あやめは、少年たちを抱えたまま荷台へと乗り込んだ。中には十人ほどの先客――当然ながら先ほどの青年たちも含まれている――がいて、全員が意識もしくは抵抗の意思を完全に失っていた。彼ら彼女らを冷たく一瞥しつつ、あやめは内側から扉を閉じる。そして改造を施されたトラックは警告音も発さないままエンジンを始動させ、静かに走り始めた。


 車窓からの景色も見えない暗闇の中、走る車の浮遊感だけを足元に感じながら。あやめはほんの少しだけ昔のことを思い出していた。

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