第5話 彼の帳恨(2)

「バカバカし過ぎて、これ以上は付き合い切れねえよ。十分に底は知れた」


 告げる少年の目に、もはや恐怖の色素は一滴たりともない。あるのはわずかな緊張感と憤り。


「貴様、元からだったのか……っ」

「なかなか迫真の演技だっただろ? お前らの拷問ごっこに合わせて自傷するのが、一番難しかったよ」

「そこまでして、一体……ここがどういう場所か分かっているのか!?」

「分かってるから潜り込んでんだよ。というか、とはなんだ。同類みたいな言い方してくれてんじゃねえよ。大人しくしてりゃ、いつまでもつけ上がりやがって。霊長もどきの禽獣どもが」

「なっ」


 少年の言葉に、加藤は瞠目して息を呑む。禽獣。意味合いとしては畜生にほぼ等しく、人間に対して発すれば罵倒以外の何物でもない単語。古めかしい言い回しではあるが、辞書にも載っていて実在する言葉。だから十代の少年が口にしたとしても、よくそんな言葉を知っているなという程度の感想が妥当そうなものだが、特筆すべきは『霊長もどき』という言い様。


「まさか貴様は……『ハヤト』か!?」

「やっと気付いたかよ」

「ハヤト!? そんなっ! まだ残ってたの!?」


 加藤だけでなく女も、額から冷たい汗を流してまで。二人はやや腰を引かせながら、ハヤトなる少年から距離を取ろうとして後退さる。その最中、廊下にいた青年が密かにジャケットの内ポケットに手を伸ばしていて。


「っ、都築つづき、待てっ!!」


 それに気付いた加藤が制止の声を掛ける。だがその声は青年――都築の耳には届いても心にまでは届かず。取り出した拳銃を構えた青年は引き金を引いた。手元は震えていたが、なお狙いは確からしく。銃口初速。銃口から飛び出た瞬間に大気中での音速に到達する改造拳銃の弾は、正確無比に少年の頸にある大動脈を捉えていた。


 果たしてそれは――こともなげに、その少年の手で捕らえられた。振り向くことすらなく。人差し指と親指で、漂うほこりを摘まむような悠然さ。勢いも意味も失った鉛玉は、そのまま床に放り捨てられる。


「こんなもん、当たったところで別にどうにもならないけどさ。こうもゆったり飛んで来られると、捕まえたくもなるよ」


 何もしなければ当たると分かっている羽虫や紙飛行機を、わざわざ無視したりはしないのと同じ理屈。国によっては日に何十人もの命を奪う鉛玉も、少年にとってはその程度の代物だということか。


「馬鹿なことをしやがって。ハヤトを相手に、そんなものが通用するはずないだろうがっ」

「う。ぐ……っ」


 口惜しさと憎悪に歯軋りする都築には、叱責が届いているかどうかも怪しい。だが少なくとも、それ以上は拳銃を乱射しないだけの冷静さは取り戻していた。


 代わりに、女の右掌から現れた紐状のが少年の首を狙う。そのの見てくれは、少し前まで少年を縛りつけていたものと酷似している。同質のものだから当然の話。女の霊渉によって生み出された、青く光る茨の蔦。しかし形状は少し違っていて。此度のそれは活劇の中でカウボーイが使う投げ縄のように、先が輪になっている。その輪が、見事に少年の首にハマった――直後、少年の身体を目として渦巻いたつむじ風が、彼を捕らえんとしていた茨を吹き飛ばす。一瞬にして天井にまで叩き付けられた茨が、バラバラになって床に散らばった。


「脆過ぎるだろ。こっちが霊渉を発動しただけでこのザマって。せっかくの遺伝子が泣いてるぞ」

「あ、ああ……」


 部屋に飛び込んで来た時からずっと半ば青褪めていた女の顔は、ここに至って完全な蒼白になる。強さの次元が違う。生物としての格が違う。それを、まざまざと見せつけられて。


 戦意を喪失しつつある部下たちを不甲斐なく思いながら。しかし自らも相手に呑み込まれつつあることを自覚して。だからこそ加藤は目付きだけでも気持ち以上に鋭くし、矜持のみで少年に向き合う。緊張の糸が、震える手でピンと張られているような状況。


「潰しに来たのか、ここを」

「それもあるけどな」

「っ! くそっ!」


 都築と女が、ただ呆気に取られている中で。いち早く少年の真意を察した加藤が、開きっぱなしだった扉に向かって右腕を伸ばした。そしてそんな彼の掌から放たれたのは青い火球。鬼火のようなそれは、先ほど女が視線を送っていた部屋の扉、すなわち検査室に向かって真っ直ぐ飛んでいく。否、飛んでいこうとしたが。


「っ」


 少年が睨みを効かせると、またも沸き起こった旋風で火球が方向を変えた。加藤の狙いから大きく外れ、廊下をも曲がって無茶苦茶な方向へ行き――爆発音と衝撃だけが、加藤たちのいた部屋にまで届いた。


「俺たちに盗られるぐらいなら始末した方が、ってか? そうはいかねえよ」

「ぐっ」

「それにしても。ここで一番強いのはお前だろ? それであの程度の霊渉能力か」

「……くそっ」


 飾りも捻りもない呪詛を吐き出す加藤の目は、怒りと焦燥に駆られていた。少年がただ挑発しているわけではないことを察している。少年の狙いはむしろ、都築と女。既に折れた心を辛うじて繋ぎ止めている最後の薄皮一枚、それをも引き千切ろうとしている。彼らが心底から恐れているはずの相手。それよりもどうしようもない強者の存在を知らしめすことで。だが。


「妙な下心を出すなよ、都築、水無瀬。それでこの場を凌いだところで、次からはお前たちが一番よく知る相手を敵に回すことになるだけだぞ」

「つっ」「うっ」


 寝返りへの牽制をはっきりと口に出されることで、都築と女――水無瀬は息を呑んだ。

 

 拷問による霊渉の発現、人間をサンプルと呼び、生きたままの解剖や標本化をも厭わないような組織を敵に回すということ。それは、この場で死ぬこと以上に惨い結末が十分にあり得ることを示していて。更に。


「第一、ハヤトこそ人間をまともに扱うと思うか?」


 ダメ押しの一言を添えることで。都築と水無瀬の目からは迷いが消えた。消去法の覚悟。黙って一連を見ていた少年が嘆息する。


「一騎打ちだと胸が痛む。まとめてかかって来てくれ」

「っ!」「っ!!」「!!」


 加藤、水無瀬、都築の三人が一斉に飛び掛かった。瞬間、少年を中心に再びの旋風が巻き起こり。


「あああああっ!?」


 都築の絶叫が響く。果たしてほんのコンマ一秒後に風が収まった時、床に倒れた都築は衣服ごと全身をズタズタに切り刻まれていた。壁や天井にも彼の血液が飛沫し、悪趣味な前衛芸術のような模様を呈している。


「都築くんっ」


 水無瀬が青年の名を叫ぶ。くぐもった声を漏らしてまだ生きていることは確かだが、眼球も切り裂かれて目は見えず、立ち上がることも出来ないままでいる青年の名を。だが水無瀬は彼を気遣ってばかりいられる状況でないことに、つまり自分の惨状にも気付かされる。彼女の衣服さえも、都築と同じような有様となっていたことに。そしてそれは加藤も同様であったが。


「さすがに、霊渉持ちの二人は無事だったか」


 と。どう見てもただ事ではない二人に対して、少年は言った。いや、確かに無事と言えば無事だったのだ。衣服はどうあれ、加藤と水無瀬の身体そのものに重篤な傷はない。せいぜい風呂に入った時にしみるような細かな切り傷が、幾つか刻まれている程度。


「かまいたち……!? 真空で切ったってこと!?」

 青褪めながら口にした水無瀬の憶測を。

「馬鹿を言え、かまいたちなど机上の空論、子供騙しだ」

 加藤は一刀両断する。


 旋風と共に現れて人間や動物を斬りつける妖怪かまいたちの正体は、真面目くさった本の中でもしばしば『旋風の目が真空となり、周囲との間に気圧差を生じることで引き起こされるものである』と説明される。

 

 一聴してそれらしくも聞こえるだろう。だが実際には地球上で発生する旋風程度で真空などまず生まれないし、生まれたところで衣服や人間の皮膚を切り裂くような力にはなり得ない。加藤の言う通り、風の刃などまさに机上の空論。漫画だけの理である子供騙し。


 結局のところかまいたちの正体とは、気付かない内に出来ていたあかぎれであるとか、風に舞った木の葉や石がぶつかって皮膚は切れたものではないかとされている。


 しかし、ならばこれはどういう理屈なのか。この部屋には石や木の葉に代わるようなものもなく、そもそもそれどころではない裂傷と衣服の切り裂かれ具合だというのに。答えはあまりに単純で、加藤も気付いたからこその歯噛みだった。


「じゃあ、術式? でもさっきの気配は、明らかに霊渉だけの」

「二つの霊渉を組み合わせて使った、というだけのことだろう。刃物になるようなものを霊体化して創り出し、旋風に乗せたという辺りか」

「わざわざ考察するようなことかよ。並みの『見鬼けんき』でも十分に視えたはずだけど」

「……動体視力の方が追い付かないんだよ」

「ろくに研鑽も積まないとその程度なのかよ、人間ってのは。なんでそんな連中に」


 煽りをかましている方であるはずの少年が、何故か苛立ちを露わにして。歯噛みさえしながら拳を握り締める。


「ちょっと待ってください! そもそも霊渉は――」

「ああ、発現する霊渉は一人に一つだけだ。人間はな」

「あ……」


 加藤の言葉に水無瀬は気付き、思い出す。ハヤト。少年が、埒外らちがいの存在であることを。


「カミの末裔、霊長ハヤト。こいつらには、我々のルールなど当てはまらない」

「なんて……インチキっ」

「あ? なんだそりゃ、負けることへの予防線のつもりか?」


 水無瀬からの言葉に。少年はわずかながらにも本音でイラついた様子を見せて。


「霊長から掠め取った遺伝子で、インチキかましてんのはどっちの方だよ。だったらこっちは霊渉抜きでやってやる。それで負ければ言い訳のしようもねえよな」

「っ、そこまで思い上がるか」

「思い上がってるし、のぼせ上がっちまったよ。改めてかかって来いや、禽獣ども」

「ち、くしょうっ!」


 水無瀬の感情に呼応するかのように。彼女の背中から八本の茨の蔦が、一斉に生え出す。それらがすべて大蛇の如くうねり、束となって少年に襲い掛かり、突き刺した――寸刻前まで少年が立っていたはずの床を。


「あっ」


 気付いた時には既に遅い。少年の影を追って頭上を見上げた水無瀬は、その瞬間、頸椎に回し蹴りを見舞われた。怪物じみた派手な攻撃に対するカウンターとしては、地味な一撃。しかしそれが幕引きとなって。声を上げる間もなく、水無瀬は昏倒した。


「あれだけ一度に出せるのに、一点集中って。自分の霊渉の使い方も分かってないのかよ」

「それぐらいしないと、当たったところで貴様にはダメージが通らないと踏んだのだろう」

「擁護のつもりか。お前たちでも、身内には一応優しいんだな」

「貴様らが我々をあまりにも侮っているのが気に入らないだけだ」

「そうかよ。じゃあ、せめてアンタは一人でも意地を見せてくれるんだよな?」

「……ああ、そうさせてもらおうか」

「あ?」


 加藤の声色に異様なものを感じ取った少年が、頭に疑問符を浮かべる。だがそこまで。行動に移さなかったことを、彼は一生涯後悔することになる。少年の眼前で。凄まじいまでの爆発が巻き起こった。



 ◆

 


 跡形もなし、とまではいかなくとも。そこに立っていた建造物の外観は、もはや原型を想像することもままならないほどに破壊されていた。月明かりさえ遮る針葉樹の密集地帯に、瓦礫の丘が一瞬で形成された。


「あ……っ、ぐあ」


 ただ一人、瓦礫の丘に立つ人物。服装と背格好から、先ほどの少年であることは瞭然。しかし顔を始めとした、皮膚が剥き出しとなっていた部分は、ほぼ余すところなく無惨な火傷を負っていて。喉さえも焼け爛れてしまっているのか、まともな声も出せないでいる。


(馬鹿な、あの男程度の霊渉能力で、これほどの爆弾を、瞬時に作り出せるはずがない。事前に作ったものをどこかに仕組んでいたな!? こういう時のために……っ)


 直接戦闘における強さも、実戦経験の豊富さでも、自分の方が遥かに上回っていたはず。しかし勝負の結果はそれだけで決まらないことを、少年は失念していた。相手は自分よりおよそ十年分は長く生きていたのだし。信念の強さも、善悪は別として狂気的なものだったということも。


(くそっ、確かに侮り過ぎたよ! 調子にも乗り過ぎた……)


 もはや隠すこともない、その必要がそもそもない、自分自身への苛立ち。生の感情で少年は激しく歯噛みし、足元の瓦礫を思い切り蹴飛ばした。空気も頭も未だ冷えぬまま。まともな人間なら、すぐさま病院で手当てを受けなければ命に係わるような火傷を負ったまま。少年はその場にしゃがみ込んでしまう。


 そして辺りを改めて見渡して。もう一度、足元の瓦礫を蹴飛ばした。今度はしゃがみ込んだままということもあるが、力弱く。


「ん……あうう」

「っ!?」


 突然、どこかから聴こえた声に。少年はまず一瞬身構えた。当然だろう。この惨状で生存者がいるなら、自分と同様にまともでない者と考えるのが筋。研究所にいたのは、自分と同じように――いや、正確には自分は勿論わざとなのだが――攫われて来た子たちを除けば、先ほどの三人だけであるはず。


 しかし聴こえてきた声色はそのどれにも当て嵌まっておらず。どちらかと言えば、年端も行かないような子供の声で。


(まさか)


 とは思いつつ。まだ断片的に、微かに聴こえてくるうめき声を頼りに、少年は瓦礫の山を掘り返す。単なる瓦礫に混じって散らばっている血肉と骨片も舞う中、それらには目もくれず一心不乱に。掘り進めていった果てに、見つけたのは一人の幼い子供。目蓋は閉じられて気を失っているものの、息はしているし心臓も鼓動している。つまりまだ生きている。確かに。


 凍えるような冷たく透明な空気。夜明けを目前にした薄曇りの空は透明な水晶か、あるいは硝子越しに見た瑠璃るりのような色が広がっていた。

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