第4話 彼の帳恨(1)

 コンクリート打ちっぱなしの無骨な鼠色の壁。年季の入った赤錆色の飛沫跡が、至る所にこびりついている。窓の一つもなく、扉は防音仕様で隙間なんて微々たるもの。通気口はカビをため込んだ、どす黒い埃にまみれている。天井は曇天よりもくすんだ鈍色で。二本一組のか細い蛍光灯が、ただでさえ淡い光を点滅させていた。太陽と譬えるには、あまりに弱々しい。まさしく蛍の光。六畳の空間を照らすには無論のこと不十分で。健常な視力の持ち主でも、粗い字の本を読むには辛い明度。


 もっとも今そこで行われているのは、読書などという文明的で人間的な行為とは程遠いものであった。牢獄よりも後ろ暗く、懲罰房より惨い場所。比ぶべくはむしろ、処刑台か。そんな場所で。


「……う、うう……」

 

 痩せこけて目の下にクマを作った白髪の少年が、俯いて喉を鳴らしていた。見目十五、六歳といった年頃の少年がパイプ椅子に座らされて、両手は背もたれの向こう側へ後ろ手に縛られていて。腰も浮かせないほどに深く椅子に固定されている。


 そんなふうに彼を縛りつけているのは縄でも手錠でもベルトでもなく。棘のついた紐状の何かであった。茨の蔦を思わせるが青く発光していて、尋常でなければ得体も知れない奇異な物体。それが、もがけばもがくほどに棘が肉へと食い込んでいくという、サディスティック極まりない縛り方で。腕や脚に刻まれた引っ掻き傷から滲み出た血は黒く固まっており、炭のような有様になって、そこかしこにこびり付いている。


 しかし少年は身を捩らせ続けていた。決して戒めを解こうとしているわけではなく。


「痛みより先に、痒みに耐えられなくなったか。ここからだな」

通告とも独り言ともとれる口調で。少年の前に立つ、琥珀色縁の眼鏡をかけた男が言った。


 老成した言葉遣いと尊大な態度とは裏腹に、顔立ちはそれほど大人びておらず、せいぜい見目二十代半ばといった風体の男が。熱で焼かれた皮膚が灰色になって、崩れ落ちた箇所がそこかしこ。また打ち身で青く内出血した部位など。棘によるものだけでない傷も全身に作られていて。誰の目にも、既に満身創痍と分かる少年を前にして、なおそんなことを口にした。


「お願いです……。もう、やめて下さい……お金なら、なんとか……」

「そんな物は要らないと、何度言えば分かる」

「じゃあ、なんで……こんなこと。俺が、何を……」


 絞り出すような声色から窺えるのは、怨嗟というよりも純然たる疑問。このような目に遭わされる覚えは、身にも脳にもまったくないと言いたげな。


 だが生きていれば、誰しも気付かない内に他人から怨みを買っていることがある。殺意さえ抱かせるほどのものも含めて。それを十分に承知しているからか、少年の目にはどこか悔恨の意も見て取れた。が。


「お前に恨みがあるわけじゃない」

「そんな、馬鹿な――」


 まったくもって。そんな馬鹿な回答があるだろうか。これではまるで、嗜虐そのものが目的だと言っているようなもの。それは拷問を受けている者にとってみれば、自分が過去にどれだけ残酷なことをしてしまっていたか――だからこんな目に遭っているのだ――ということを聞かされるよりも、遥かに絶望的な宣言。なのだが。


「勘違いするなよ? 趣味でやっているわけじゃないからな。人を痛めつけて悦ぶような嗜好は持っていない。これはあくまで方法に過ぎない。歴とした目的は勿論ある」

「目的って……」


 眼鏡の男が言った言葉に、わずかな光明を見出したというふうに少年の目が蘇る。完全なる寸詰まりかと思われた洞窟の先に、注射針で突き開けた穴が覗いたようなものではあるが。ともかく、この状況を抜け出る可能性さえあるのなら、誰でもそんな目になろうというもの。


「なに、その、目的って……っ」

「ふむ」


 少年からの問い掛けに、眼鏡の男はしばし逡巡するような素振りを見せてから。


「そうだな。分かっていた方が、少しは必死になるかもしれん。気の持ちようで発現が促されるわけではないはずだが……この際、試せることはやっておくべきか」


 またぞろぶつぶつと呟いてから、意を決した面持ちで語り始めた。


「この世界には、我々が『霊渉』と呼んでいる力が存在する。俗人どもには存在自体が知られていないものだが。有体に言えば、超能力の一種だ。しかし、誰もがその力に目覚められるわけではない。発現の可能性を秘めているのは、ある遺伝子を持つ者だけだ。貴様のようにな」

「俺が……? 知らない、そんなの……俺は、普通の人間だ。人違い……だよ」

「残念だが、既に検査の結果は出ている。しかし貴様が知らなかったのは無理もない。貴様の親や祖父母も知らなかっただろう。パートナーや子に霊渉とその遺伝子のことを伝えなければ知識は断絶する。まともに生きる人間が霊渉を自然に発現させることは、まずないからな」


 記録を残さず口伝えもされなければ、どんな偉人の子孫もその事実を知りようがないのと同じように。知識は断絶し、しかし遺伝子だけは血筋にのって脈々と受け継がれていく。


「その結果が、貴様のような霊渉に関する知識はおろか、遺伝子を持つ自覚さえ持たない普通の人間だ。そもそも霊渉遺伝子持ちの人間など、血眼になって探さねばならないほど珍しいものではない。無作為にでも百人の人間を集めれば、一人か二人は見つかるぐらいの割合だ。ここに寄越された貴様は、ただ運が悪かった」

「…………っ、ふ」


 まるで他人事のような言葉を吐いた男に、少年は強く歯噛みしてから、呆れたように鼻を鳴らしてみせた。この期に及んで挑発するつもりなのか、あまりの荒唐無稽さに他の反応の仕方を思いつかなかったのか。


「まあ、信じようが信じまいが貴様の自由だ。実際に力を見せてやっても構わないが、どうせ手品の類と言うだけだろう。そもそも今貴様を縛っているその茨も、部下が霊渉で出した代物なんだがな」

「馬鹿馬鹿しい……」

「馬鹿馬鹿しかろうがなんだろうが、貴様はもうそれに縋るしかない。貴様が霊渉を発現させれば、この拷問も終わるのだから」

「……あ? これが、霊渉とかいうのを発現させるための、儀式……だっていうのか?」

「儀式というと宗教めいているな。霊渉というのは、そういう類のものじゃない。精神と肉体に強い負荷を受けた時に、遺伝子が自己防衛的に霊渉を発現させることがある、というだけのことだ。まあ、今時のやり方としては邪道で外道なんだがな。この方が当たりを引く確率は格段に上がる」

「当たり……?」

「霊渉というのは初めて発現するまで、どんな力になるかがなんだよ。不明ではなく不確定というところが肝要だ」


 一口に霊渉といっても、その力は種々様々である。たとえば発火能力や観念動力のように単純で分かりやすいものもあれば、武器の類を創り出すようなもの、果ては一定空間の物理法則を捻じ曲げるものまで。


 ただし原則として霊渉は、一人につき一つの力しか発現しない。しかし実際に発現するまでは、あらゆる霊渉に覚醒する可能性を秘めている。発現――すなわち世界によって能力を『観測』された瞬間に、遺伝子自身がどんな霊渉を持つのか確定する。


「より上等な霊渉はそれだけ発現する確率も低いが、この方法ならそれが飛躍的に上がる。もしお前が当たりの霊渉を引けば、その時は正式に仲間へと迎え入れよう。目覚める霊渉は一人に一つ。チャンスは一度きりだ」


 尊大、傲慢、居丈高な物言いはあまりにも至極当然としていて。瞳の中に窺える感情のゆらめきの正体でさえも、罪悪感ではなく少しばかりの同情心だと分かる。常識も良識も逸脱した狂気の男に、少年が何か言葉を発そうと唇を開きかけた瞬間――。


「加藤さん!」


 先に開かれたのは、部屋の扉であった。開いたのは二十歳そこそこの青年で、男と年齢はさほど変わらないように思われる。眉を顰めながら振り向いた眼鏡の男改め加藤に向かって、彼は言葉を紡ぐ。


「また一人、ぶっ壊れました……っ」

「なあ!? ちいっ、これで今年に入ってから何人目だ!」


 報告を受けた加藤が舌打ちと怒号を飛ばす。声だけでなく、目の色にもはっきりと苛立ちを滲ませながら、彼は続ける。


「ちゃんと、の指示した基準の内でやっているんだろうな? いくらお前たちの研修も兼ねているとは言え、無駄にしていいわけじゃないんだぞ」

「す、すみません……っ、すみませんっ!」

「もういい。お前もしばらく見学からやり直せ。時期尚早だったのはこっちの判断ミスだ、これ以上は責めん」

「……っ」


 それ以上の責めがあろうかという皮肉に、青年は返す言葉を持たず。ただ黙って頷くと、うなだれたまま部屋を後にした。そして彼と入れ替わりに。


「所長!」

「今度はなんだ!」


 先の青年が閉じかけたドアに指を挟みかけてまで飛び込んで来た女に、加藤はほとんど反射的に言葉を返した。八つ当たりでしかない声に一瞬怯みつつも、女は意を決した表情で。


「先日、まとめて送られてきた子供たちの……霊渉遺伝子が、その……消えていました」

「なんだと!?」


 怒気をも孕んだ驚愕に目を見開きながら。加藤は頓狂声を上げて言葉を紡ぐ。


「消えたというのはどういうわけだ。間違って送られて来ただけで、最初から遺伝子持ちじゃなかったということじゃないのか」

「い、いえ、初日の検査では間違いなく、全員が遺伝子持ちでした。その時、柳井さんにも確認して頂いています。ですが、さきほど明日の監査に向けて再検査したところ……」

「無くなっていたというのか? 霊渉遺伝子が?」

「は、はい……壊れていたわけでもなく……完全に、跡形もなく……」

「あり得ない。聞いたことがないぞ、そんな話。何人だ?」

「一人を除いて、全員です」

「……誤魔化したいつもりならば無駄だぞ。どうせ明日には分かることだ」

「ち、違います……っ。そんなことは、決して……っ」

「なら、検査に問題があったというところだろう。今日の内に、もう一度だけ再検査しろ。それでも同じ結果なら、明日本部に報告して判断を仰ぐ。もし本当に遺伝子が後天的に消えたのなら、それはそれで貴重なサンプル体だ。なにせ前例がないからな」

「かしこまりました。……あの、ちなみにサンプル扱いになると、どうなるんでしょうか」

「少なくとも二人は解剖、一人は標本にされるだろう。どちらも、生きたままでな」

「っ、し、しかし……」


 力なく。泣きそうな声にさえなった女が、ちらりと廊下の向こうを見遣る。視線の先にあるのは別の部屋の扉。『検査室』のプレートが掛けられた。


「最初の検査が間違いで、柳井さんも勘違いだったということはありませんか? もし遺伝子持ちですらないなら、解放するわけには……」

「なんだお前、さっきと言い分がずいぶんと違うじゃないか」


 初日の検査では間違いなく、柳井なる人物にもお墨付きを頂戴したのだから確実だと言ったのと同じ口で。


「我が身の可愛さより良心の呵責に耐え難くなったか? どの道、遺伝子持ちでも霊渉を発現しなければ似たような末路なんだ。情だけで善人ぶれると思うなよ」

「……ううっ」

「いずれにしても、今更解放というのはあり得ない。既に処置も始めているというのに。記憶を弄ったところでリスクが大きすぎる。上の許可が下りるものかよ」

「……かしこまりました」


「かしこまるなや」


「え?」「は?」


 思いがけぬ言葉に、女がまず加藤の顔を見る。しかしその加藤も訝しそうな表情で。一瞬間を置いて、二人は気付く。今の声はどちらのものでもない。では誰がどこから?


 動揺を抑えながら。加藤は未だ開かれたままだった扉から、廊下の様子を窺う。するとそこには先ほど失敗を報告に来た青年が、まだ立っていた。恐らくは女の報告に聞き耳を立てていたのであろう。では彼が?


(いや、あいつじゃないよな)


 第一、声が違う。それに彼も自分や女と同様かそれ以上に困惑している。なら一体――。


「どこを見ている。鼓膜が濡れているのか?」

「なっ」


 神経を研ぎ澄ませていたから今度は気付く。声は明らかに部屋の中から響いていたのだと。


「どこに……っ」

「一人しかいないだろ、この部屋に部外者は」

「なっ」


 加藤が気付くと同時。白髪の少年がパイプ椅子から立ち上がった。縛り付けていた蔦状のものはまるで抵抗なく引き千切られて。全身の傷跡はそのままだが、もうそれを苦痛としているような素振りもない。実際彼にとってそれぐらいの傷は、痛くも痒くもないのだから。

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