第3話 霊渉(3)

 ロープやフェンスといった物理的な障壁はもとより、立ち入り禁止を明示するような立て札さえもなにもなく。しかし悪童には恐れから、善人には畏れから、おのずと足を遠ざけさせる雰囲気を帯びている。そんな静謐な林の奥には――絵馬も賽銭箱も本坪の鈴さえなく――明らかに人が詣でることを勘えていない社があった。


 そこで今、薄明の中。京都御所の紫宸殿によく似た外観の本殿を背景に。神々しさとも壮麗さともかけ離れた、血生臭い騒乱が起きていた。


 歳も性別も様々な者たちが、そこかしこに倒れ伏している。ある者の手には刀剣が、ある者の手には弓が、そしてまたある者の手には近代的な銃火器の類があった。だがほとんどの者は空手である。辛うじて意識がまだあってうめき声をあげている者もあれば、完全に失神している者もいた。しかし、割合としては既に絶命している者が圧倒的。


 いずれにしても。そうした者たちの半数以上に共通しているのは、白地の紋が入った紫の袴を身に着けているということであり、残りはスーツ姿であったり、それ以上に日常的な平服であったりと様々。神社風の場所という状況を鑑みれば、どちらが襲撃した側で、そしてどちらがされた側なのかは火を見るよりも明らか。


 そんな状況においてただ三人、未だ倒れることなく立っている者たちがいた。


 一人はこれも袴姿の女で、憔悴した顔を見せながらも闘志を保ってもいた。歳は二十歳そこそこと見えるが、そうとは思えぬ胆力と眼力。そして女性としてはかなりの長身。武器らしいものは何も手に持っていない。


 一人はTシャツにジーンズという出で立ちの少年。背丈は並みの成人男性ほどで、先の女よりほんの少し低いかという程度。ただ顔立ちは幼く、総合的に見た目は十四、五歳かといったところ。こちらも武器は何も手にしておらず、女に負けぬ胆力と眼力で彼女と真正面から対峙していた。ただ生傷どころか着衣の乱れもほぼ見えない女に対して彼の方は、未だ凝固し切らずに血を流している切り傷刺し傷掠り傷と、痣もそこかしこに。既に倒れている者たちと比べても差がないほどに満身創痍で。それでもまた、足を一歩踏み出す。


「ちいっ!」


 掠れた声とともに。女の掌から現れた荊の蔦が、少年の心臓を目指して一直線に伸長する。


「っ」


 少年の全身から、水晶で作られた雀のような半透明の小鳥たちが、無数に現れて飛び立っていく。すべての個体が、榛に突き刺さらんとした蔦に向かって。そして。


「ぐっ」


 件の蔦は、榛が放った小鳥たちの内、たった一羽にただ触れられただけで霧散した。


(くそっ、なによコイツの霊渉! こんなの反則じゃない……っ!)


 女は心の中で毒づきながら歯噛みする。焦燥、怒り、怯え。あらゆる負の感情が綯い交ぜになったような蒼白顔を浮かべていると。


「え――あぎっ」


 一足飛びで懐に飛び込んで来た少年の蹴撃を、反応する暇すらなく横っ腹に見舞われて。女は身体を吹っ飛ばされた。しめ縄を巻かれた大樹に背中を激しく叩き付けられて、地面へとずり落ち、動かなくなる。


 霊渉遺伝子の活性により身体能力が強化されているのは、少年も女も同じ条件。しかし格闘能力の方に差があり過ぎる。だがそれよりもなによりも、女が『反則』とまで呼んだ少年の霊渉が無慈悲過ぎた。


「信じられん……本当に、このような霊渉が存在するとは……っ」


 覚えずそんな言葉を漏らした男に、少年は視線を移す。死屍累々たる現場において、自分を除いて未だ両足で立っている最後の一人。袴姿なのは先の女や他の倒れている者たちの多くと共通しつつ、唯一その袴の色が白という男。見た目通りの年齢であれば三十代半ばほどか。そんな彼に。


「ふざけた霊渉はお互い様じゃねえか」


 とぼやいた少年が、まず一歩踏み出して近寄る。


「本気で私を殺すつもりか? そんなことをしたら」

「殺すより他にないんだろうが、アンタは。もし落とし前みたいなもんがあったところで、俺一人の命で済む。こっちは、どうせもう身内も何もいないんだ」


 歯肉から血が流れるほどに強く歯噛みしながら、少年は哀しい覚悟を口にした。直後、ふっと自嘲するような息を漏らして。


(まあ……そこまで持ちそうもないけどな)


 心の中でそう呟いていた。実際、常人であれば既に死んでいておかしくないほどの血を流してしまっている。気力だけでおのれの魂を引き留めているような状態で。


「冷静になって考えろっ。こんなことをしても、貴様自身には何の得もないはずだろう。私が死ねばこの国は崩壊するぞ!? 我々は、私は、国そのものだ!」

「この期に及んで、まだそんな上から物を言うか」


 渇いた笑いを浮かべながら、少年はかつて読んだ小説を思い出していた。わずかな余暇の内に、ただ飲み干すように急いで読んだだけだったから、本編については、もはやあらすじ程度にしか内容を覚えていない。しかし、『水の中でしか生きられない身体の少年が、地上に憧れを抱き、陸へと上がったがために渇き死んでしまう』というエピローグは、今も心の隅にこびり付いていた。


「そんな国なら、お前ごと死ね」

「まっ」


 待つはずもなく。男の胸を、少年は既に血塗れの腕で突き刺した。


「ごふ……っ」


 貫通した向こう側から、砕けた骨と破れた心臓の皮とともに鮮血が溢れ出す。内臓と血と膏と骨片と脂肪とでぐちゃぐちゃに汚れた自身の腕を、少年は引き抜いて。続け様に男の髪を掴むと、頭部ごとその胴体から引き抜いた。


 藤紫が淡く滲んだような薄明の空に鮮やかな深紅が舞う。混じれば二人静。力任せに引き千切られた胴と首の境目は、ギロチンや介錯刀で斬られたような美しさとは程遠い無惨さ。胸にはどでかい風穴を空けられて、果てには頸さえ失った體が崩れ落ちる。苦悶に満ちた表情が張り付いた生首は、その下敷きとなって隠された。こうなればもう天上を拝むことも出来はしない。醴泉の甘い水を飲み尽くした霊鳥は、かくして散った。翅もなく飛べもしない、塵芥とも見紛うような小虫たちの這う土くれと雑草を、終の寝床にして。


「…………」


 少年はしばし、無言で立ち尽くしたまま自らの所業を眺めていた。


 罪悪感はなかった。しかし同情心はある。死にたくなかった人間を殺したのだ。自分だって今も死にたいわけではないのだから、彼の苦痛と無念と間際の恐怖とが生々しく感じられてしまう。少年の仲間たちは、自身が殺めた対象に決して同情などしなかった。それは冷酷から来るものではなく偽善ぶることを善しとしなかったからであるが、少なくとも今の少年にはそこまでの達観は出来そうもなかった。


 第一、この殺戮の現場には明白な死があり過ぎていた。心臓を穿たれた上で頭を刈られた男を、眠ったように死んだなどと婉曲しようもない。


 しかし達観さや人殺しのスマートさを少年に求めるのは酷というもの。戦いの果てにではない、完全なる殺人行為は彼にとって初めての経験で。徹底的なまでの破壊も相手を辱めるためではなく、絶対で確実な死を求めてのものだった。まして、相手が相手だったから。


「はあ……っ、うぐっ……」


 強烈な疲労感と吐き気に、少年は覚えず自分の腹と口を押さえる。ただそのせいで口に入った生温い感触に耐え切れず、盛大に嘔吐した。しながらも。そのために汚れてしまった手をシャツで拭うと、そのシャツごと脱ぎ捨てて再び歩き始める。露になった上半身にも切り傷と掠り傷と打ち身の痣が余すところなく刻まれていた。しかしその半分ほどは昨日今日に負ったようなものでない、年季を感じさせる古傷であった。



 ◆



「……ここ、だな」


 満身創痍を通り越して。もはや死に体となった少年が辿り着いたのは、正殿の中に隠された地下室。もう陽は昇り始めていたが、その光が一筋も届かないような場所。隙間から空を見ることさえも叶わない、鳥籠よりも暗くて昏い場所。最奥には扉。三本の脚を持つ鳥の文様が刻まれた錠前は無視して、電信柱よりも太い閂を少年は両手で掴むと、まるで割りばしのように軽くへし折った。そうして押し開かれた扉の内には、少年と同じぐらいの、或いは彼よりもずうっと幼い無数の子供たちが、虚ろな瞳を浮かべていた。中には一歳にも満たなそうな赤ん坊さえもいる。


 そんな中で――。


「誰……?」


 唯一、少年と同世代かと見える少女が伏せていた顔を上げた。他の子供たちよりもまだ幾分か生きた目をしていた彼女は、傷だらけの少年を見るや目を丸くする。瞬間、彼女の顔を見返した少年は目を閉じて倒れた。


「や、やば……おい、ちょっと!」


 少女は頓狂声を上げながら少年に駆け寄ろうとする。しかし出来ない。梵字か変体仮名にも似た謎の文字を満遍なく刻まれた、錘付きの足枷を嵌められていて歩くことが出来ない。同様の手錠まで、後ろ手で。だから彼女はべったりと身体を床に密着させたまま、肩、膝、顎、腹を使って床を這う。だが床はそんな行動さえも阻むために、避けようのない密度で剣山を埋められている。


「あ、いっ……あう……っ」


 恰好は下着同然。一ミリを進むごとに傷が身に刻まれ、次の一ミリで出来たばかりの傷に更に深く針が食い込んでいく。そうして広がった傷口からは、黒ずんだカビまみれの湿った埃が入り込む。それでも少女は進んでいく。


 ようやっとたどり着いた少年の顔に、少女は見覚えがなかった。敵か味方かなどということも分からない。囚われの自分たちを人間として救いに来てくれたのか、ただ道具として奪いに来たのかも定かでない。もし後者であれば彼を救うことで、今よりもひどい場所に連れて行かれる可能性を否定できない。そうなれば当然、他の子供たちも道連れとなる。そこまで針の山を越えてきた少女が、最後の一歩を前に逡巡していると。


「助けてあげてよ」


 という声が、部屋の中から上がった。それは五歳か六歳かという男の子。そしてそれに同調するかのように、部屋中の子供たちが頷いている。それが無償の優しさと限らないものであることは少女にも分かっていた。彼らは子供なのだ。自分と同じような危惧に至っていない可能性は十分に考えられる。でもそれを感じた上で、少女は彼らの無邪気さに付け込んだ。


 全身から淡く青い輝きを発し始めた少女が、少年の顔に頬を摺り寄せる。そして両手足を枷で縛られたまま、不格好に、自分より大きな彼を抱くように体を重ねた。直後、激しい輝きが少女から発せられて、少年の身体を包み込んでいく。青い、いやただ青と表現するだけにはあまりにも濃く鮮やかな光が、少年の傷を癒し始めた。

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