第6話 秘書・村崎および中宮定子の怨霊のこと

――そういえば……。


と、伊川は彰子にさっきから訊いてみたかったことを尋ねた。


「秘書の村崎さんて方は……?」


「ああ、私の女房の一人で、お父上は藤原為時ふじわらのためときさんです。本名は香子かおりこという方なのですが、とっても文才がある人なのですよ」


と、彰子はこともなげに言った。


「え~っ、それって、あの有名な紫式部のことじゃないですか?」


「ああ、そういうあだ名で呼ばれることもあるわね……さすがに父上も、私一人でこちらの世界に派遣するのは心配だったようで、女房の中でも特に学識のある彼女を女房――というかこの世界では秘書と呼ぶのが適切なのでしょ?――として付けてくれたのです。まあ、お目付役と言ってもいいかしら」


と言って、彰子は笑った。伊川は素直に感心する。


「すごいですね~。世界的にも有名な人ですよ」


「えっ、あの方、そんなにすごい人でしたの?」


と、これには彰子もやや意外そうだった。


「すごいも何も、ふつ~に今の教科書にも出てきますよ。だいたいこの当時、他の国には女性作家なんていなかったんだから」


「まあ、ホント?」


「嘘なんて、つきませんよ」


「それじゃあ伊川さん、村崎さん――紫式部さん――のこと、他にもいろいろご存じなの?」


「まあ、多少は」


「どんなことを?」


「まず当然、『源氏物語』の作者であること」


「そうよね~。でもね、彼女、今、スランプなんですって」


「だからスランプって……えっ? そうなんですか?」


「主人公の光源氏ひかるげんじ朧月夜おぼろづきよの君との交際が発覚して、光源氏が弘徽殿こきでん女御にょうご逆鱗げきりんに触れて一度失脚した後どう書くかで悩んでるわ」


「あ~、それ「須磨すま」「明石あかし」の巻あたりですよね」


「あら、伊川さん、よくご存じですね」


「こう見えても古典は『5』ですから」


「おっしゃることが何だかよくわからないのだけれど、とにかく、そこで式部さんの筆が止まっているのよ」


 伊川は少し考えて、


「あ、それ、私にいい考えがあります。この世界の大きな本屋に行ったら『源氏物語』全巻揃ってますから、それを買って写したらいいんです。なあに、自分の作品なんだから盗作には当たりませんよ」


「なるほど、それは名案ね。さすがは伊川さん、早速、村崎さんに提案してみましょう」


すぐに彰子はスマホを取り出して、村崎に電話をかける。


「あ~、もしもし村崎さん?……」


 彰子、喋りながら廊下へ出て行く。


 また伊川は独り言をつぶやいた。


「なんだか中宮なかみやさんと喋ってると、ホントに中宮彰子ちゅうぐうしょうしと喋ってるように思えてきた。でも、それっておかしいよね? 常識外れだよね? 私、大丈夫かしら?……」


 すぐに彰子は部屋へ戻ってきた。


「よかったわ。あの人、『すぐに本屋に行ってきます』て、言ってましたよ」


「へぇ、紫式部って、結構、行動的なんですね」


と、伊川は感心する。さすが、大作家だけあってフットワークが軽い。


 でも、彰子は、


「でも、あの人ねぇ……」


と、ちょっと物言いたげだ。


「いや、紫式部のことを『あの人』って……」


と、伊川は苦笑するしかない。構わず彰子は続ける。


「あの人、ちょっと性格が暗くて……こういう性格の人のことをこちらの世界では『いんキャラ』とかいうのかしら?」


「またまた、そんな言葉、いったい何処で……」


と伊川が言いかけているのに構わず彰子は喋り続ける。


「控え目なのは良いのですが、もう少し喋ってくれても良いんですよねぇ……あっ、それで、式部さんのことで他に何かご存じのことは?」


「ええと、『紫式部日記』が現代まで残っていまして……」


「あら、嫌だ。式部さんの日記まで千年後に残っているのですか?」


「それには結構、エグいことが書いてありますよ」


「ええっ、それって、私のことをですか?」


 彰子の問いかけに、伊川は慌てて答える。


「い、いえ、彰子さんのことは悪くは書かれていません」


 すると、彰子は正直ホッとした様子で、


「ああ、よかった」


と言った。


「でも、あまり言いたくはありませんが、同僚の和泉式部いずみしきぶの悪口は書いてますね」


「まあ、どんなふうに?」


「今風に言うと……その場その場の言葉の使い方は上手いけど、男性関係にルーズで、古典の知識もあまりなさそうだとか……」


「わっ、厳しいこと言うわねぇ」


清少納言せいしょうなごんのことなんか、もっと悪く書いていますよ」


「あっ、清少納言って、清原諾子きよはらのなぎこさんのこと?」


――あっ、清少納言の本名はそういう説があったんだっけ。諾子なぎこさんなんて言うと、近所のおばちゃんみたいだね。


と、伊川はおかしく思ったが、まあ、そこは黙っていた。一方で彰子は、


「まあ、政治的なことを考えたら仕方が無いのかも知れないけど……もう~、人様の悪口を書き残すなんてみっともないわねえ……」


 伊川は以前、古典か日本史の授業で紹介された一節を思い出しながら言った。


「清少納言は、出来る女ぶってるけど、足らないところばかり、将来いい死に方しない、とか」


「まあ、ひどい……でもね、式部さんも根はそんな嫌な人じゃないのよ。ただ、諾子さんのことはいろいろあってね……」


「いろいろと言いますが……たしか紫式部と清少納言は実際には一度も会っていないはずでは?」


 そうなのだ。紫式部が中宮彰子付きの女房として出仕した時には、すでに中宮定子も清少納言も後宮こうきゅうにはいなかった。


「ええ、そうよ。伊川さん、妙に詳しいわねぇ」


「へへへ……古典『5』ですから」


 しかし彰子はここであえて話題を変えるかのように言った。


「……実はね、父上はおびえてるの」


「えっ?……政界の実力者である藤原道長が何におびえることがあるんです?」


「この世のものじゃないわ。怨霊おんりょうよ、怨霊」


「怨霊?」


 意外な言葉だった。当時の最高権力者と言ってもよい藤原道長も怨霊におびえていたのか。


「去年亡くなられた、中宮定子ちゅうぐうていし様の……」


「去年て……中宮なかみやさんの暦では長保ちょうほう二年、つまり西暦一〇〇〇年のことですね」


「年末の一二月一六日に定子様は亡くなられた……ところがその日、父上は怨霊に取り憑かれた藤典侍とうのないしのすけという女房に襲われて、お屋敷で乱闘騒ぎになったのよ」


「えっ、やばっ。ていうか、貴族と女房が屋敷で乱闘ですか?」


「怨霊の正体は、いろいろ取り沙汰されているのです。定子ていし様や伊周これちか様の父親でもある私の叔父おじ中関白なかのかんぱく道隆みちたか様か、同じく私の叔父で道隆叔父の死後に関白になられたけれどわずか七日ではやり病で亡くなられた粟田関白あわたかんぱく道兼みちかね様か、はたまたお亡くなりになられたばかりの中宮定子様か……」


「それはよっぽど彰子さんのお父さんがやましく感じているからですよ。たまたま二人の兄が病死したおかげで、自分が政権を握れたわけだし、その後は自分のおいめいに対しても嫌がらせを繰り返していたようなもんでしょ」


「……確かに、父上は生前の定子様にも嫌がらせを繰り返していましたし、怨霊になって祟られても仕方がないという自覚もあるのでしょう」


と、彰子は悲しげに眼を伏せた。


 その様子を見て、伊川は今まで考えてもみなかった言葉が口をついて出た。


「どうですか、中宮なかみやさん。ゲン直しと文書捜索を兼ねて、週末には京都の神社や仏閣などを回りませんか? 私、案内しますよ」


 すると彰子はにっこり笑って、


「うん、それは良い考えね」


と言った。そして立ち上がって、


ひ見ての のちの心に くらぶれば 昔はものを 思はざりけり」


と歌った。


「わっ、また和歌ですか?」


「そう。あなたに会えて良かった、って言っているのよ」


「いや、そういう意味じゃなかったはずですよ。その歌」


「まあ、そんな些細ささいなこと気にしちゃダメよ。さ、もう遅いわ。今日は帰りましょ」


「いや、気になりますってば! 中宮なかみやさん、ホントに中宮彰子ちゅうぐうしょうしなんですかぁ? 待ってくださいよ~」


 伊川もそう言いながら、彰子を追って教室を後にした。

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