触角を鋭敏に、私
魚麗りゅう
触角を鋭敏に、私
私はそれでも生きてきたと、言えるだろうか?今まで時代をそれほど意識することはなかった。学生の時は、皆、同じような時間が流れていたし。ただ、妙に孤独だったような記憶が、ある。そんな孤独を隠して、みんなが笑っていたような記憶がある。そんな自分が私は嫌いだった。自分の距離感が分からなかった。だから同じように笑っていたんだと思う。若い自分が、私は嫌いだった。今になって、それに気づいた。今の私は、私として生きている。弱虫だった過去の、反動かも知れない。人間らしくというか、私らしく生きているような、爽快感を感じている。結婚していても、おかしくはない年齢だけれど、私は気にしない。私は私として生きている。平凡な日常だけれど、それほど死にたくもない。男に対してそれほどの執着はない。私はそこそこ綺麗だから、そこそこモテてきた。私なりの恋愛のイメージがあった。今はそのイメージが溢れてこない。過去の恋愛で、すでに満足しているから?好きな人と一緒にいられれば、何もいらない的な感情は、過去の羞恥心として、何となく自分の中にある。あのまま陶酔のまま、結婚してしまわなくてホッとしている今の私。純粋な感性が腐ってしまったのかも。過去、私は恋愛に酔っていた。そういう時期だったのかも知れない。自分達だけの世界。そんな世界に、私は優越感を感じていた。あっという間に過ぎた、そんな時間。私の感性は、私の意識はそんな時間を、今の私は拒絶する。卒業した感が、ある。郷愁のような、寂しい感じがするのはなぜだろう。押し出されるように、私は大人になっていく。早く大人になりたかった。今は明確な距離感が出来てしまっている。見るものの90%がいつのまにか新鮮ではない。この現実が何気なく憂鬱。急に私はポツンとしている。欲望を感覚に勢いで乗せられない。自分の輪郭から私は逃げたかった。もう私は自分の輪郭を受け入れなければいけない時期なのかも知れない。
私の両親は実の親ではない、というのは嘘で、実の親なのだ。一時期友達の不幸な生い立ちに憧れた。どこか翳りがあって、孤独な雰囲気があって、そんな落ち着いた雰囲気に憧れた。男は馬鹿だから、そんな雰囲気に呑まれてしまって、そんな彼女を好きになってしまう。そんな彼女の様に、私はなりたかった。価値がそれほどない男でも、いっちょまえに恋をする。稚拙な感性を彼女の歪みに合わせればいいだけだから、恋愛入門としては、彼女はいい材料なのかも知れなかった。彼女は過去の友達。その過去の友達に、嫉妬していたことを、今になって素直に認められる。彼女が今は結婚していることを知ってはいるけれど、それ以上のことは知らない。もう過去の友達だし。私の時間が過去に流れた時、その時そこにいる友達。だから彼女は、今の私に影響を与えているのだろう。今の彼女は、今の私にとってはどうでもいい。彼女だって、今の私に対してきっとそんな感じだろう。今という時間を生きている。今という時間まで、生きてきた。不意に、過去の映像が頭を流れる。何となく生きてきたつもりはない。ただ何となく、時間は過ぎてしまった。それでも、日常は過ぎている。これがきっと、答えなんだろう。日常の出来事に、感情が揺れる。その揺れに、私は理性的に対応してきた。その結果が今だろう。見えるものの90%が新鮮ではなくなった。私は自分の揺れが楽しかった。純粋な若さには、もう戻れないし戻りたくもない。純粋な若さに、苦しかったと、今の私は断言できる。あの時の私を、今の私は嫌いだったのかも知れない。だから過剰に音楽を必要としていたのだろう。心のバランスを取るために。あの時の私も、あんな時の私も、実は私は嫌いだった。それが、振り子としての私の反動だろう。今まで特に孤独ではなかった。歪みに耐えていた記憶はある。大半の男は馬鹿だから、その歪みに耐えられない。不幸な生い立ちを背負った女に呑みこまれることに、心地よさを感じていたのだろう。過去は今の私に憂鬱を与える。その陰のエネルギーが、ここまで私を運んできた。好きで、この場所に立っているわけではない。気づいたら、この場所にいる。周りの風景に、私が戸惑っている。私の内面は止まったまま、だ。疲れて眠ってしまう。そうやって私は、救われてきたのかも知れない。自分の時間を止めることで、私は自分を無意識に守ってきた。そんな感覚が、ある。自分の時間を止め、周囲に同化させる。自分の立つべき場所が分からなくて、だから私はいつも不安だった。不幸な生い立ちの彼女は、自分の立つべき場所が確立し、完成されているように、あの時の私には見えた。彼女の中に、大人の女性が見えたような気がした。そんな要素は、私の中に見つからなかった。私は彼女になりたかったのかも知れない。そのことを、今になって認められる。私だって、そこそこ綺麗。足りないものは彼女のような何気ない翳り。彼女は一人でいることに、平気だった。私には、一人でいられる強さがなかった。みんなの中で、同じように笑っていたのは私の弱さだった。今の私はあの時の私のように、弱くはない。でも流れが変わってしまった。私は学生ではなく、社会人なのだ。孤独になったら潰されてしまう。だから同じように笑うしかないことに気づいた。彼女は幸せだろうか?ふと気になったけれど、過去に戻って友達ヅラして、連絡する気もなく。別に、そんなに仲が良かったわけでもない。彼女は結婚している。ただそれだけしか知らない。自分に過ぎている時間に不安を感じるから、彼女の過ぎている時間が気になるのだろう。それでも私は、自分らしく生きているだろうか?こんなことを考えること自体、きっと私は過去に囚われているのかも。どうも私は、自分を愛していないらしい。だからこんなにも、自分に拘るのだろう。過去の自分に後悔したまま、今の自分を生きている。このまま惰性で生きられる。世の中なんて、そんなものだった。愛想笑いで誰も傷つけないことに神経を使う。それなのに、きっと私は誰とも繋がってはいない。というか社会に出て、誰かと繋がったという感覚がない。孤独ではないと信じたい。でも孤独なのかなぁ……今の私は。目の前のことに夢中だった。私の表層を時代が流れていく。世の中はどんどん便利になっていく。変化していく空気にドキドキする。自分の経済力の範囲内で、ネットを駆使して好きな洋服を手に入れる。入れ替えで、過去の洋服を捨てる。私の過去の感性を捨てて、今の私の新しい感性を楽しむ。先の事を考え過ぎて、疲れていたのかも知れない。変わらなければいけないことと、変わってはいけないもの。自分の中のその選別に、私は戸惑っていたのかも知れない。おしゃれは楽しい。おしゃれは変化し続けなければ楽しくない。去年の洋服に今年の要素を加えていく。そんな些細なことに、自分なりにモチベーションが上がる。生きるために働く。でもそれだけじゃ楽しくない。私は自分の場所で、私なりに楽しもうと思う。それにはある程度の孤独を受け入れる必要があることに気づいた。誰とでも繋がれない。誰とでも、繋がる必要もない。私は私のリズムでしか生きられない。私に無意味に歪みを感じさせる質量は、どんどん過ぎていけばいい。時代に合わない会社はどんどんさっぱり淘汰されていけばいい。時代はどんどん便利になっていく。時代に合った会社が、その便利さを提供している。それでも私は私。私は私の生活が維持できればそれでいい。プロポーズされたことが一度あるけれど、そのプロポーズを純粋に受け入れるだけの純粋さが、その時の私には無かった。結婚は結局生活の連続。彼の会社はそれほど将来的に有望ではない。私はそれほど結婚に対して憧れがない。なぜなら、両親が喧嘩ばかりしていたからだ。子供ながらに、だったら結婚なんかしなければよかったのにと、思ったことがある。子供にとって、両親の喧嘩は精神的な傷になる。その傷のせいで、私は結婚したくはないのだろう。そんな自己分析で、今の私は自分を救っている。こんな私だって、必死に生きている。こんなことを思う私は、何かと闘っているのだろう。自分に対して明確な答えを出していないのに、また一日が始まり、終わりに疲れ切っている。会社を支えるための、何気ない存在の私。別に無意味だと思わないけれど、固執したいとも思わない。日々の感情の揺れに、いい意味で無視が出来ている。逐一関わっていたら、私の感性が擦り切れてしまう。狡いって分かってはいるけれど、すべての感情の揺れに呑みこまれるわけにはいかない。脳のそんな処理に、私がストレスを感じている。そんな隙間から、死にたくなる感覚が溢れてくるのだろう。生きていることに、私の質量が、揺れる。毎日の繰り返し。毎日の揺れの繰り返し。もっと早く、私自身を飛躍させてしまいたいのに。こんなスピードじゃ駄目だって理解はしている。後はもう、流れに任せるしかないのかも。自分を諦めてしまえたら、どんなに楽だろう。自分に対していつも新鮮でありたいと思う。ただ、見えるものの90%が新鮮ではない。外側に新鮮さを求める純粋な若いエネルギーが、今の私にはない。取り戻したいとも思わない。純粋に若いということに、私は疲れていたんだと思う。純粋に若かった過去は、ありきたりな日常の隙間に、少しずつ吸い込まれてしまえばいい。何事もなかったかの様にね。今ある自分の隙間に、砂粒としてザーっと流れてしまえばいい。脳の中で、日々記憶が流れる。きっとそれも、意味あることなんだろう。両親の喧嘩も、過去の恋愛も。社会を私なりに支える私の内側の深奥で、複雑な記憶の処理がなされている。今を生きている。今を生きている私の体を、血液が流れている。それはそれで不思議だ。私の体だけれど、私を構成するパーツが平等に意思を持っている。嫌いな人が私に近づくと、心臓が反応する。心臓はきっと、胃とも会話をしているのだろう。私はそんな内臓の変化に戸惑う。私は過去に会社を辞めたことがある。体質的に、合わなかったからだ。視点を変化させて、何とかその会社を愛そうとしたけれど、無理だった。私は転職し、体調が戻った。自分という人間を知れた、ちょっとしたきっかけにはなったと、今の自分を納得させている。自分に不快を与えた存在は、記憶に残っている。体調は回復したけれど、記憶に傷がついている。それでも朝が来る。それでも夜が来て、疲れていて、眠る。北朝鮮が、どうやら大変らしい。そんなニュースが、私の体内に入ってくる。今、この時を、私は生きているのだ。私という質量が、揺らいでいる。私はその質量を、うまくコントロールしなければいけない。過去に会社を辞めた理由だって、この環境では、これ以上自分を制御出来ない限界を感じたから。精神も肉体も、逼迫していた。私はそんな自分を救いたかった。両親には、嫌な顔をされたけどね。だから私は家を出た。自分の意思で決めた会社。でも勤めてみたら、体質に合わなかった。それが両親には甘えに見えたらしい。辞めたことに後悔はしていない。あの時の私を、あの時の私は救ってあげたかった。両親の価値観と、私の価値観がぶつかった。私は今という時代を生きている。それを分かって欲しかったけれど、無理だった。両親は両親で、両親の時代を生きてきた。両親の価値観でね。それはそれで尊敬はする。ただ、今を生きている私には、よく分からない。私だって、慎重に生きている。自分という人間を探りながら、世の中を手探りで生きている。学生の時、みんなでにこにこ笑っていることが、真実だった。笑いながら、私は何で笑っているのだろうと、自分を探っていた。こんな最低な時間が早く過ぎればいいと、何気なく思っていた。あの時の私は、一緒にいる人を選択する、勇気と知識がなかった。過ぎていく時間が、重かったような気がする。このままでいいわけがない。ずっと自分に対して、問い続けていたような気もする。普通に生きているだけで、こんなにも苦しい。孤独になる勇気が、あの時の私にはなかった。不幸な生い立ちの彼女の結婚を知った時、不思議と疎外感を感じた。社会に出ても、自分の輪郭を誤魔化せる仲間達の中でヘラヘラしている自分を、彼女の結婚で突きつけられたような気がした。みんな、自分の道を生きている。取り残されていくような感覚?目の前の仕事はきちんとしてきたつもり。それが社会人として、当然だと思っていたし。そこに俯瞰的な視線が私の内側に生まれた。もともとあったかも知れない?それがたまたま育って、出てきたのかも。自分のやっていることに、疑問が生まれる。何も考えなければ、それはそれでうまく社内で生きられたのかも知れない。人って不思議。ずっとそのままではいられない。視線は変化する。見える世界も変化する。それによって動く感情も変化する。あの時の私は、固定化されようとしていた繋がりを早急に切りたかった。変えようと思わなかった。あの会社をそれほど、愛してはいなかった。逃げてしまえばいい。あの時の私は、そう判断し、自分を守った。都合よく、今の私はそう理解する。私は変化した。変化する前の自分より、好き。彼の事は好きだったけれど、私が変化したことで、好きではなくなった。だからプロポーズを断った。彼は戸惑っただろうけど、私だって、自分の変化に戸惑っている。私は彼を傷つけただろうか。会っていないし、よく分からない。だから今はここまでで、彼の記憶は閉じておこう。またいつか、動き始めるかも知れないし。過ぎるから、見えてくることがある。過ぎなければ、受け入れられないことがある。きっと彼のことは、そんな感じで私の内側で、処理されていくのだろう。過去の感覚のままでは生きられない。私にとってまず大事なのは、衣食住。時代がどんなに変化しても、衣食住は必要。私は難しく考え過ぎていたのかも知れない。毎年大きな夢を持って入社してくる馬鹿な新入社員みたいにね。私はもうその呪縛から、とっくの昔に解き放たれている。不必要に働きたくない。自分なりの会社に対する距離感に、私自身が気づいたのかも知れない。そんなに私は仕事が好きではなかった。この事実に、私自身がびっくりした記憶がある。衣食住を得るために、私は働く。過去はどんどん過ぎていけばいい。新しい自分が、そこから生まれてくるような気もする。見えなかった世界が見えることで、内面の動きに変化の兆しを私が感じている。何かに気づき始めている?私?恋愛の始まる瞬間に、あの瞬間に似ているような気がする。悪くはない感覚。また少し、生きられるかも知れない。惰性ではなく意思で、今の私は生きたくなっている。そんな状態。こんな状態は長く続かないことは、過去の経験から知っている。だからこのエネルギーを、意識で押さえなければならない。コントロールしなければ。精神が高揚する。肉体がその高揚に反応する。きっとこの感覚は、自分しか分からない。久し振りにいい感じ。私に対する悪意の視線は、しばらく気にならないだろう。人数分だけ、日々視線が交錯し、その場が揺らいでいる。その揺らぎの中で、私は仕事をしている。今のところ、その揺らぎに私の精神も肉体も、耐えられている。自分のことで、精一杯。自分の人生に責任を持つことで、精一杯。きっと何とかなるだろう。社会的な問題も、会社の問題も。私の基本の衣食住を維持出来ればね。自分を守らなければならない。もっと鋭敏になって、いいのかも知れない。揺れの歪みに、もっと早く気づかなければいけないのかも知れない。人の感情は瞬時に悪意に変わる。その悪意との駆け引きが、日々ある。過去の私だったらきっと、耐えられないだろう。今の私だからこそ、何気なく冷酷に流せる。孤独と引き換えに、私はささやかな自由を手に入れている。群れなければ居心地が悪い時は、狡猾に群れる。いつでも裏切れる心の準備はきちんとしてね。そんな自分が最近、好き。生きるって、こんなもんでしょう?世の中なんて、こんなもんでしょう?今日も私らしく生きられた。死んではいない。生まれてから、一度も安心した記憶がない。学校でも家でも、緊張感から解放された記憶が無い。私は生まれてから誰も、信用をしていないのだろう。こんな私は寂しい人間だろうか?たまに不安になる。人としての生き方が、最近よく分からない。どんな人生が正解なんだろう?私は正しく生きているだろうか?生活が何とかなるなら、今の仕事に未練は微塵もない。何とかならないから、仕方なく会社に行っている。そこにはルールがあり、だから仕方なくそのルールに合わせている。社会人として、こんな私は駄目なのかも知れない。そんな駄目な私の深奥を巧妙に隠して、社会人ぶっている。今の私は仕事に対して、それほど崇高な思想を持っているわけじゃない。みんな、どんな感じで生きているのだろう。それなりの仮面をかぶって会社に来てはいるけれど、内面なんて、きっと私と変わらないだろう。本音と世間体の間で、私という質量は危険に揺らいでいる。今まで私は、何とか生きてきた。もうこれでいいと、自分自身に納得している。自分のやりたいことは、すべてやれてきた。そんな環境にいられたことに、私は感謝をしなければいけない。それはきちんと理解はしている。これから生きなければいけない。それに対して不徳にも、私は憂鬱を感じる。外的要因で私が死んでも、きっと私は後悔をしないだろう。あの世での幸せを、私は求めない。この世での幸せを、私は求める。食べたいものを食べる。着たい洋服を買う。こんな欲望を持つ私という人間は、どうなの?自分でもよく分からない。生きるということが、最近よく分からない。若い時のほうが、よく分かっていたような気がする。今は自由に生きている。それは感覚としてではなく、事実。私が孤独死をしても、隣に住んでいる人は一瞬嫌な気持ちになるだけだろう。いつのまにか自由になっていて、いつのまにか学生ではない。いつのまにか生活に追われている。どう生きようが自由なのに、社会の中での繋がりの冷酷さに、私は未だに慣れていない。いずれ、両親は死ぬ。私に兄弟姉妹はいない。天涯孤独という言葉が、最近近く感じる。世の中はそんな私のことなんて無関心に、流れていく。私は自由。家族が欲しければ持てばいいだけ。何気ない不安が、私を微妙に憂鬱にさせる。好きなように生きられる。でも私は会社に所属している。自分でも気づかない洗脳が、私に染みこんでいるかも知れない。それはきっと、未来になってみなければ検証は出来ないのだろう。会社も私も、不安を感じながら手探りで進んでいる。会社があって、世の中があるわけじゃない。世の中があって、会社がある。先の事なんか、きっと誰も分からない。会社の歪みに呑みこまれたくない。それが私の本音。責任ある立場の人が死ねばいい。その為の権力と収入だ。今の私は会社が無ければ困るけれど、会社を全力で信用するわけにはいかない。うちの会社は世の中に対して正しいことをやっているだろうか?目の前の仕事に今まで疑問を持たなかったけれど、私の内面が変化している。私は私の生活をまずは、守らなければいけなかった。社会に出た時、私は社会というものを知らなかった。だから私は会社のルールに何の疑問も持たずに従った。そのことに、私は疑問を持ち始めている。過去は私を苦しめる。学生の時は、未来しかなかった。でも今は過去がある。それが馬鹿な新入社員との違いだ。私が疑問を持っている会社に、夢を持って、入社してくる。私もそうだった。この経験から私は、何かを悟らなければいけない。明日会社を辞めるのも自由だし、妥協して何とかしがみつくことだって出来る。こんな葛藤を静かに抱えたまま、時間は過ぎてしまった。一度、会社は辞めたけどね。生まれ、育てられ、いつのまにか大人になって、こうして社会人として働いている。今の感覚としては、そんなに生きたくもない。明日も同じような時間が過ぎるのだろう。一日終わって、何でこんなにも疲れているのだろう。社会人になりたての頃は、そんなボロボロの疲労感が心地良かった。だからといって、それほどお金が稼げるわけではない。その冷酷な現実を、冷静に受け入れられるように、やっとなった。やっとこの歳になって、乳臭さが抜けたのかも知れない。生きていくにはお金が必要。長い時間を働いて得るお金は、肉体を疲弊させる。だから私は長い時間、働きたくないと悟って、前の会社を辞めた。そんなに私は働けない。無理。辞めることで、心臓の不整脈から解放された。ストレスだったのかも知れない。私は頑張った。でもあの会社では無理だった。ただそれだけのことだった。私は自分と向き合った。結果、会社を辞めた。そんなプロセスを一々分かりやすい言葉にして、両親に説明するのも疲れた。だから私は家を出た。特に死にたいとは思わなかった。一日終わると疲れている。ただそれだけだ。他人に対して、今は特に羨望はない。私は私なりに、好きなように生きてきたのだから。過去の価値観では、今の私は支えられない。もう私は過去の私じゃない。世の中に対して、私も少しずつ変化している。とりあえず私の衣食住は充足している。要は衣食住を満たせるだけのお金が稼げればよい。お金を稼げる場であれば、今の会社でなくてもよい。私は私なのだから。会社という器があり、そこには雑多な人がいる。私は私なりの距離感があり、雑多な人に対する処し方もすでに身に付いている。私はすでに弱くはない。人を美しく見過ぎて疲れた。普通の人は結局ふつうの人だ。私はそこそこ綺麗だとは思うけれど、芸能人になれるほどの美貌はないという、曖昧な捉え方をしている。知識の影響かも知れない?汚いものは、結局汚かった。鼻毛が平気で出ている男の人は、やっぱり嫌い。言葉に出してはいけないから、私は感覚を閉じる。私には無理。そうやって、日々を懸命に私は生きている。無理に他人を好きになる必要もない。だから適正な距離を取る。そのための敬語。私は自分の見える世界でしか生きられない。それでは不安だから、読書をする。自分の見えない世界を、頭の片隅に知っておくだけで、自分を暴走させないようにすることが出来る。私は自分の生活を守らなければならない。それが私を根底で動かしている。何の為に働いているのか、たまに分からなくなる時がある。何の為にこの人達に気を使っているのか、分からなくなる時がある。目の前を通り過ぎる時間を、終わりにしてしまいたい衝動が、私には常にある。世の中をよくする為に、会社はある。その会社の中で、私が壊れてしまいそう。私は私の価値観でしか生きられない。でもその価値観を出し過ぎては、会社の中で生きられない。危ういバランスで、私は何とか会社の中で生きられている。肉体も精神も、美しく誰にも迷惑かけずに処理することができるなら、そのまま死んでしまってもいいと思っている自分がいる。決まった時間に会社に行き、目の前の私の仕事を忠実にこなして、静かに帰る。これって良く考えると、とてつもなく素晴らしく、美しいリズムじゃないの?誰も褒めてはくれないけどね。そのリズムの延長で、死んでしまえたなら。肉体がそのまま消えてしまえたなら、きっと私はもっと、自分勝手に生きられるのに。もどかしい。人の気持ちや社会性を入れる自分の内側の範囲が、憎らしくもどかしい。肉体があることが、もどかしい。私の精神は死を怖がっていない。でも肉体が怖がっている。肉体が生きようとする。私の精神は疲れているのかも知れない。人間は複雑に組み合わされて存在しているのだから、だからその私だってよく分からないのだろう。経験から導き出せる自分。その自分と絶えず私は向き合っているような気がする、最近ね。そんな内面を抱えながら、私の日常という時間は過ぎていく。正しいとか正しくないとか、自分ではよく分からない。精神的なバランスと、肉体的なバランスを、何とか噛み合わせている。それが私の日常。そんな日常に、私自身が疲れ切っている。それが今の私。だから死んでもいいような気がする。精神では軽く、そんなことを思う。でも肉体の苦しみはイヤ。精神だけだったら、どんなに楽だろうと考える。完成された精神なら、日々を安穏と暮らしていけるだろう。でも私の精神は完成されてはいない。だから会社に行く意味があるのだろう。金があれば、会社になんか行かない。肉体を食わせるために、私は会社に行っている。何だろう?このモヤモヤ……。幸せなのか、そうでないのか、自分でも最近よく分からない。本当はもう、身の回りに存在する人を裏切ってしまいたい。取り敢えずはこの会社で生きていかなければならない。だから仕方なく笑う。仕方なく会話を合わせる。ただそれだけの事だ。目の前の生活が、精神の自由を奪う。いつまで私は仲間のフリをし続けなければいけないのだろう。このストレスを、未来的に昇華しなければいけない。きっと私は幸せではない。幸せだと、思おうとしている。私は私の環境をあるがままに受け入れようと思う。人の気持ちを考えることで高められる部分は、高めたんだと思う。そんな自負がある。でも私はその気持ちに呑みこまれるわけにはいかない。私は私を生きなければならない。自分の軸が、完成されつつあるのかも知れない。人の気持ちは大事。その気持ちを受け入れる領域は、最大限確保した。私は孤独を生きなければいけない。孤独を楽しめる、強い女になりたい。これまで私は生きてきた。これから先、どうなるかなんて分からない。不安だよ?でも過去をずるずる引きずったまま、生きたくない。ちょっとずつしか、きっと変わらない。時代と同じように私もね。こんな思考で、私は現実を誤魔化しながら、これからも生きていくのだろう。危うい感情を、私は理性で押さえることが出来るだろうか?子供でもいれば子供の為と、割り切ることが出来るだろう。それでも私は明日からまた、笑わなければいけない。自分の生活を守りたいから。別にやりたくない仕事+愛想笑い=生活費。この公式を理性で何とか理解している。この公式は感情を押さえる蓋。感情を理性で押さえることが出来なくなった時、きっと自分でもよく分からない自分が出てくるのだろう。何でこんな時代に生まれてきたのだろう?何でこんな世の中を生きていかなければいけないのだろう。考えても仕方のないことを考えている。取り敢えず、今まで死なずに生きてきた。それはそれで幸せなのかも知れない。きっと運がいいことだ。そう思うことで、自分を納得させている。もしかしたら、自分を騙しているのかも?これから自分はどう生きていけばいいのか、正直よく分からない。接している世の中と思われる対象に対して、それなりに反応していけば、今のところはいいのだろう。たぶん……。大人という時間が過ぎて行けばいく程、自分の立ち位置さえ、よく分からなくなっている。もしかしたら、本当に大事なことを考えることを、私は止めてしまっているのかも知れない。生活も大事。出来れば仕事に対するプライドを満足させた上で、生活もあわよくば満足させたい。私は目の前の仕事に対して、プライドを持って向き合っているだろうか?私の社会的地位は、それ程というか、まったく高くない。日常を生きることで、肉体的にも精神的にも精いっぱい。学生の時は、もっと前向きな夢があったような記憶がある。今はどうだろう?考えるまでもなく。私にとって世の中というものは、巨大過ぎる。それを私が知らなかっただけ。知らない私が馬鹿だったというだけだ。知らないから、大きな夢が見られた。世の中はこうあるべきだと、自分の実力より大きな視点で見られただけ。世の中に出て、自分の実力を突きつけられた。今の私は目の前の生活を維持していくだけで精いっぱい。情けなくて、泣きたくなる。何気なくね。私は今、どこを歩いているのだろう?私が今の場所から逃げたがっている。理想と現実。これがきっと、私の現実なのだ。今の私は衣食住を維持することで精いっぱい。それでも懸命に生きているよ?そう……学生の時の私に言いたい。きっと学生の私はそんな私に軽蔑するだろう。でもそんなものだった。世の中に出た私の実力なんて、そんなものだった。頭の中が、変化しようとしている。自分の実力にあった世の中との距離感に、変化しようとしている。これは狡さだろうか?知恵だろうか?そんな視点はどうでもよくて。とりあえずは死にたくないわけだから、世の中を無視して生きられないわけだから、自分の頭を世の中に合わせるしかない。自分の感覚を信じるしかないのかも知れない。過ぎてみれば正か誤か、分かるだろう。それにより、また自分を修正すればよいと考える。それでも私は生きてきた。これから生きられるかも知れないし、生きられないかも知れない。ただ目の前の瞬間に対して、冷静で緻密な狡賢い判断をしていこうとは思う。私には、私の生き方がある。自分以外の生き方は出来ない。世の中に合わせなければ生きてはいけないけれども、自分の原型が崩れるまで合わせようとは思わない。いろんな生き方が出来る。私は孤独をそれ程恐れていない。それが唯一の私の武器。きっと何とかなるだろう。いざとなったら死ねばいい。私の死体のせいで、匂いとか、迷惑を掛けてしまうかも知れないけれど。生まれてきたくはなかったのかも知れないし、それでも私は生きようとしているし。よく分からない。必要以上に生きたいとは思わない。でも今死のうとも思わない。仕方なく生きているのかも知れないし、でも病気には出来ればなりたくない。会社はすぐにでも辞めたいけれど、目の前の生活を考えると辞められない。曖昧な状態で私は生きている。こんな私はそれでも生きている。危険な状態だと、自分でも意識はしている。でもどうすればいいの?この状態を維持させていくことが、私の責任でしょう?自分を責めることに疲れた。私だって頑張っている。それを理解して欲しいというのは我儘なの?この日々の内側の揺れが、私に「死んでしまってもいいかな」と、思わせるのだろう。私はこの小さな揺れを、正直に蓄積してはダメ。そんな本能としての直感がある。会社の歪みに呑まれたくはない。そこまで会社を心酔してはいない。会社を通じて世の中に貢献したいという気持ちも真実。会社をそこまで信用していないという気持ちも真実。経営者の波長とか、その時の世の中の揺れが、ここで働く私の心理に影響を与えている。私にそれ程高度な世の中に対する思想は必要ない。なぜなら、この会社で働く私の地位が高くはないからだ。私は目の前の仕事を忠実にこなせばいい。私はただの一般社員。私は私の生活を守れればそれでいい。その私の一般社員の生活を守るのが、地位を得た人の仕事だろう。いったい私は、この会社で何をやっているのだろう。生活費を稼いでいる。そんな感慨しかない。自分にとってまず大事なのは、衣食住。この会社で働いていることで、その衣食住は満たされている。それはそれで感謝はしている。ただ、それ以上でもそれ以下でもない。私は自由に生きられるわけだから、この会社に固執しなくてもよい。もっと自分に素直に生きられるのかも知れない。薄い繋がりを綺麗に洗い流せてしまえたなら、どんなに私は楽になるだろう。それが出来ない私は、何を怖がっているのだろう。孤独を私は恐れない。頭の中で、何かが私の決断を邪魔している。私は両親に育てられた。そのプロセスが、私に影響を与えているのだろう。考えることを辞めてしまいたい。肉体と思考がうまくリンクしていない。思考で無理やり体を動かしているような。自分で自分がよく分からない。溢れてくる思考を堰き止めることなく頭の中で流し続けたら、私は救われるだろうか?楽になれるだろうか?現実に反応し、思考が溢れる。溢れてくる思考に私は戸惑う。でもその都度、自分を何とか納得させてきた。崩れてしまいそうだった私。それでも頑張って生きてきたよ?過ぎた自分と今の自分。正しいとか正しくないとか、今はそんな判断が暑苦しい。男って馬鹿だから、そんな下らないことにこだわる。仕事は嫌いではない。でもそれほど働きたくもない。何だろう?この曖昧な感覚。過去の私はもっとやる気があったような気がする。自分を知ったからかも知れない。みんな何を考えて生きているのだろう。明確な思想を持って生きているのだろうか。自分のことだってよく分からない。他の人だって恐らくそんな感じだろう。パソコンのすべてを理解して、パソコンを使っているわけじゃない。自分のことを完全に理解しなくたって、生きてはいける。自分を知りたかったから、今まで何でも挑戦してみたのだろう。自分の可能性を知った今、挑戦は「もういい」のかも知れない。今は前向きに興味の無いことのほうが多い。過去より今の方が、私は自分を知っている。自分にとって不必要なものは、何気なく流せる感性に洗練した。もっともっと楽に生きられるかも知れない。自分に対する勘違いが、自分自身を苦しくしていたのだろう。自分以上のことは出来ないし、自分以下のことも出来ない。今日もうまく、頭が回らない。不完全なまま、取り敢えず私は日常を動いている。そんな感覚。きっとみんなも、日常をやっと生きているのかも知れない。向こう側とこっち側。その隙間で何とか私は生きている。自分にとって嫌なことは出来ない。今の自分が正しいとは思えない。だからといって、何をすればいいのか分からない。現実に接触することで、細かく私の内面が振動する。現実に存在する私という質量は、いつも不安定。数年前に家を出た。両親は現存している。私はそこそこ綺麗。結婚はしていない。今は自分らしく生きていると思っている。みんなと笑っているのが嫌いだった。自分のすべてを愛してはいない。プロポーズされたことがある。結婚に対して憧れがない。小さい頃、両親が喧嘩ばかりだったからかも知れないと、自分を取り敢えず納得させてはいる。会社を辞めたことがある。今の会社は2社目。仕事はそんなに好きではない。社会人になりたての頃は、仕事が好きだと思っていた。それは大いなる勘違いだった。兄弟姉妹はいない。見えるものの90%が新鮮ではない。こんな感じに自分を捉えている。気づいたら、すでに30代。きっともう、大きく流れは変化しないだろう。私とリンクしている繋がりを消してしまうことに対して、未練はない。気づいたらこの場所にいた。ただそれだけ。縁とか運とか、今はそんな思考が暑苦しい。誰もが幸せになれるわけじゃない。誰もがお金持ちになれるわけでもない。お金があったら会社を辞める。この気持ちは真実。だから自由に生きているようで、結局は自由ではないのだろう。自分の都合よく生きたいけれど、目の前の生活を考えるから会社に行く。ただそれだけのことだ。一日に何度、会社を辞めたいと思うのだろう。目の前の生活を理性的に考えるから、自分を抑える。生まれてこなければよかったと、恥ずかしながら最近思う。生きることを鼓舞する言葉に、私は疲れているのかも知れない。若さは馬鹿だから、そんな言葉に極度に感動した。過去の私は馬鹿だった。だから若者を見ると馬鹿だと思うのだろう。言葉には出さないけどね。若さというエネルギーを、そのまま社会的経済的に成功させられる人は稀有だ。それはそれですごいことだと思うけれど、一般的ではない。不必要に苦労なんてしたくない。無理なものは無理。成功させた人にとっては真実でも、私にとっては無意味。自分を鼓舞することに疲れた。人には限界がある。私は世の中に出て、自分を知った。気づいて、思考が楽になった。この歳になって、年下の人に特に何も言うことはない。私が若かった時、偉そーに演説していた大人は、今何をやっているのだろう。自分を知った私は、恥ずかしくてあの時の大人のようには振舞えない。別に、大きな夢がなくても生きられる。現に私は生きているし。毎日働いているし、税金だって納めている。これ以上、私は何をやればいいのだろう。結婚して、子供を育てればいいの?両親をさらに敬い、目の前の仕事に感謝して、日々生きられることに、いちいち感動しなければいけないのだろうか?毎日のことに、いちいち感性を研ぎ澄ませていられない。今の私は世間に対して、もっと無関心になった方がいいのかも知れない。自分が崩れてしまいそうな予感がする。生きたいような気もするし、生きたくないような気もする。自分の輪郭から解放されたいような気が、大いにする。この輪郭に繋がっている関係を、すべてシャットダウンしてしまいたい気が、大いにする。自分が病んでいるのかそうでないのか、今の私にはよく分からない。大昔の自分のことが、ようやく今になって見えている状態だもの。あの時の私はこうだったと。後悔はしていない。そう思おうとしているだけかも知れないし。自分のことなのに、よく分からない。その時々の価値観に、取り敢えずは思考を合わせていればいいのだろう。今は寂しくはないし、孤独でもない。これ以上の繋がりは、今の私には必要ない。取り敢えず、私は生きている。存在している。私の質量は、それなりの振動を発しているだろうか?世の中にそれなりに、プラスの振動を与えているだろうか?こんな私でも、真剣に生きています。自分でそう言い切れます。学生の時のような、通知表があればいいのに。というか。稼いだお金が、世の中にどれだけのプラスの振動を与えたかの評価だろう。一日が終わり、私は疲れ切っている。なのに、その対価としての給料は安い。で、あるなら、私の努力は無意味に近いのかも知れない?考えなくていいことを考えているような気もする。でも私は疲労に見合った金銭が欲しいと思うようになった。無意味に肉体的に頑張ることは、自分が求める収入に辿り着かない。その残酷な世の中の仕組みを、私は何気なく気づいたのかも知れない。働くことは神聖なこと。そう私は信じてきた。もしかしたらそれは、視点によって偽りかも知れない?安い給料でも仕事があるだけで幸せ?機械で出来る仕事をわざわざ人がやる?世の中に対する私の視点がざわざわする。私はもっと、根本を考えなければいけないのかも。私は生まれてこなければよかったと思うけれどそれでも!幸せになりたいと思うし願う。仕方なく仕事に行く。だって目の前には生活があるもの。家賃だって払わなければいけない。食料だって買わなければいけない。税金だってむしり取られる。私の衣食住~。その為に私は薄給でも、それを承知で会社に行くのだ。幸せとか幸せじゃないとか、今の私には分からない。きっと、目の前の生活に余裕がないから俯瞰出来ないからだろう。私はいい方向に向かって歩いているだろうか?それとも悪い方向?こんな不安は誰にも相談出来ない。明確な答えを出せる人なんて、きっと誰もいないだろう?なぜならその人だって、一人の不安定な人間なのだから。私は正しく生きているだろうか?私の小学生の時の担任が、猥褻で捕まった。それを私はネットニュースで知った。私の感情はそれほど動揺しなかった。私はあの大人を信用してはいなかった。別に被害に合ったわけじゃない。でも私はあの大人を信用していなかった。それを今になって私の視点の正しさを証明されたようで、何気なく誇らしい。私は大人になったけれど、あの時の視点は変化していない。私の見えていたものを私自身が信用出来なかったけれど、アレの逮捕により、自分の中の一つに確信を持てた。「ほらね?やっぱり」的な。私は小学生の時、あの人の中に何かを見た。その記憶が私を冷静にさせているのだろう。私は小学生だった。あの頃見えていた世界は、嘘に見えていたような記憶がある。今の私はどうだろう。その嘘の世界で生きている。世の中で生きていながら、正しいとか正しくないとか、恥ずかしながらよく分からない。私にとっての真実とは何だ?あの頃の私が今の私を見たら、私の中に何を見るだろう?学校から世の中へ。私の視点のいち部分は何も変化していない。学校も世の中も、陰湿な生存競争がある。私は私なりに適応してきたつもりだし、今も何とか適応しようとしている。私の本質は何も変化なんかしていない。過去の私。今の私。過去の私より、今の私の方が輪郭は強い。自分の言葉で今は喋れる。小学生の時、大人はもっと大人だと思っていた。小学生の頃の私に言いたい。それほど私は大人ではないし、大人は想像するほど立派ではないと。年下が私は嫌い。先輩ぶらなくてはいけないから。新入社員の子に、若いうちに、何をやっておけばいいのかと、まじめに訊かれたことがある。一瞬思った。「知らね~よ」と。目の前のことに余裕がなかったし、気づいたら30を過ぎていた。ただそれだけの事だ。若い人なんてどうでもいいし、若い人に誇れるスキルもない。所詮、会社員だろう。会社という枠を飛び越えて独立出来る人は、そんなことは訊かないだろう。やる気と才能があるならスキルを高めて独立すればいい。それだけのことだ。一人では何も考えられない、まして世の中と対峙なんか出来ない、そういう人の集まりが会社だろう。言われたことを忠実にやっていればいい。それが会社員だと、私は理解をしている。私には、この会社という枠を飛び出る勇気も才能も無い。宝くじという確率に、もしかしたらと期待する、そこそこ綺麗なただの女。大量のお金はきっと、抑圧された私の感情を自由にするだろう。絶対に私は会社を辞める。100パーセントの確信がある。嫌いな人に抑圧していた言葉を浴びせる自信がある。この会社で生きていく必要がない、だから私は気を使う必要がない、だから私は言葉の暴力を使うだろう。まずは生活から解放されたい。それが今の私の欲望。目の前の環境を愛そうなんて嘘の言葉に、私はもう騙されない。不細工で、不潔な男はどう見ても小汚い。私は素直に思う。「汚い」。今の私は自分の言葉を持っている。オシャレだってしたいし、おいしいものを食べたい。それは品の無いことなの?誰か正しく教えて欲しい。自分を冷静にさせることで、日々精一杯。景色や小動物や草花の美しさを内側に入れる余裕が今の私にはない。いつからこんなに精神的にも肉体的にも余裕がなくなってしまったのだろう。この状態が普通なのだろうか?このままの状態で生きていかなければいけないのだろうか?自分の基本を見失っているような気がする。きっと外側から見える私は、単に綺麗な人として見えるだけだろう?でもこんなにも内面は激しく動いている。自分で自分を辞めたくなる。思考が私を苦しめる。思考に対していちいち自分を納得させる答えを出していかなければ、日常でさえも何気なく生きられない。自分に対して苦しい。自分に対してもっと楽に生きたい。でも自分の思うようには過ぎていかない。あるがままを受け入れなければならない。そんなことは頭では分かっている。それを簡単に出来れば、こんなにも日常に対して居心地が悪くない。やっと日常を生きている。それが今の私の状態。会社を辞めてしまいたい。それを思いっきり声に出して叫ぶことが出来たなら、私はどんなに楽になるだろう。何とか自分を抑えることが出来ている。ちょっと押されたら簡単に崩れてしまう緊張感に包まれて、私は日常を生きている。私の状態は危険だ。明日も私は自分を生きなければならない。精神と体は何とか繋がっている。もう頑張りたくないと、私の精神が言っている。それでも私は明日、会社に行くだろう。生活を維持しなければいけない。結局私の本質なんて、こんなちっぽけなものだ。出来れば何もやりたくない。自分を不自然さから、解放してあげたい。人の気持ちと自分の気持ちの間で、私の感情が揺れている。別に会社なんて、潰れてしまえばいいのに。きっと、しばらく休める口実が出来るだろう。だから私は生活の幅を自分の輪郭以上に広げない。いざとなったら、自分の輪郭の生活だけ守れればいい。すでに人生に疲れている。会社に対する未練は何一つない。やっと自分にとっての普通が見え始めている。無理に相手と繋がる必要もない。無理に仲間を作りたがる人がきっとおかしい。孤独は怖いことではないし、つまらないことでもない。固定された人間関係は自分を衰退させると私は理解する。同じ場所にいつまでもいられない。今の私は過去の私ではない。表面上は、静かな時間が過ぎている。表面上の時間は私に有利に流れていない。今はその時間の流れに、それでも従わなければならない。だから私は明日も会社に行くのだろう。「もういい」と、精神も肉体も発したら、そこで私は自分を守るために会社を辞める。もしも宝くじが当たったら、それはそれで辞める。もしもの準備もしてある。人生何があるかは分からない。そんな期待が今の私でも、ある。一日のうちに、何度生きたくなくなるだろう。自分が生きているのか死んでいるのか、よく分からなくなる時がある。何で私はこんなことをやっているのだろう?と、目の前の時間に戸惑うことがある。私自身の深淵に、飲み込まれてしまいそうになる。現実との接点で、何とか社会人としての輪郭を私は維持しようとする。自分で自分に危険を感じる。閉じ込められた感情が、私の深淵で蠢いている。それを私は意識で知っている。時代は意地悪に揺れている。私はその時代にうまく反応していかなければいけない。私の勤める会社は世の中から淘汰されるだろうか?私は会社の中で、一生懸命に生きている。私にこれ以上、何が出来るだろう?会社を心から、信用なんてしていない。だからいつでも裏切れる準備はしている。私はただの一般社員。自分の為に働いている。目の前の仕事はきちんとやる。それ以上の責任はないと考える。責任ある人達は、正しく世の中を見つめているだろうか?世の中があって会社があることを、きちんと理解しているだろうか?目の前の仕事は取り敢えず、やる。私の仕事だから。でもいつでも逃げる準備はしている。沈没する船に、いつまでも残っていたら、死んでしまう。それほど生きたくないけれど、死にたくないから生きることに自分なりには固執したい。耐えられない緊張感を与えられた時、私は迷わず逃げる。自分を守るために、生存する為に逃げる。逃げることは悪ではないと、今の私は信じる。生きる為に仕事をやっている。ただその仕事に対して強い執着はない。この仕事をやる為に生まれてきたとは、私には思えない。そう思えない私が馬鹿なの?そう思える人の方が、きっと稀だろう?偉そうな本を読むと、日常を生きることが馬鹿らしく思えてくる。私はそれでも生きていると言いたい。「それでもここにいる」と、言いたい。言葉にし過ぎるから、きっと分からなくなるのだろう。私はそれでもここにいるし、それでも今という時代を生きている。これ以上、何を考えなければいけないの?私に趣味と言えるものはない。休みの日は掃除をやって、ダラダラしているのが好き。なんとなく……疲れた。何もしない時間が、苦しかったような気がする。でも今は逆。何もしたくない。動物ではないから、それなりに将来のことは考える。でも今は思考を持続させる体力が残っていない。何でこんなに毎日疲れているのだろう。私は正しく生きているだろうか?私の日々やっていることは、正しいことなのだろうか?明確な答えを出せないまま、私の日常は進んでいる。何気なく不安。今を生きながら、いつも私は過去を振り返っている。今が不安。今更ながら、過去に自信が持てないでいる。だから明確な未来が、見えてこないのだろう。大人としての時間が過ぎていく。本当のことだと思っていたことが嘘だったりする。それでも気づかれないように傷ついて、大人のふりして一日が終わる。何かを強烈に信じたい。そんな甘い部分が、まだ私の片隅にあるのを感じる。精神の使い方が変化している。人間関係の間には、残酷な感情が流れる。それを隠そうと、私も笑っている。きっと私は誰も信用なんてしていない。だからこんなに心が乾くのだろう?私だって逃げる場所が欲しくなる。実家が息苦しくなったから私は家を出た。私はどこかに辿り着く途中だと信じたい。自分を痛めつけるほど、私は自分のことが嫌いじゃない。だから明日もこのまま日常を生きるしかない。そのうち何かが見えてくるかも知れない。私は自分を諦めてはいない。前よりは、一日を楽に生きられているような気はする。純粋な若さから抜け出られたことに、残念な気持ちと「いつの間に⁇」という感覚と、やっと抜け出られた爽快感がある。過去の自分を今は嫌い。その時私は一生懸命だった。それを今は気恥ずかしい。その時の自分を修正して、今の自分がここにある。過去からの連続で、今の私がここにいる。今の私は素敵に流れているだろうか?若い頃の私は視点が固定されていたような気がする。私が何気なく観察していたように、私だって何気なく観察されているのだ。きっと、絶対的な観察者になんて、なれないのだろう。立場の優劣は瞬時に変化する。距離感を自在に変化させ、その都度自分を守らなければ。人ほど怖いものはないということを、私は社会に出ていつの間にか知った。私は小さい存在だけれど、小さい存在なりに振動している。私が世の中を感じて揺れている。私はきっと、それでも世の中に貢献したいのかも知れない。意識では、世の中なんて会社なんて、どうでもいいとは思っている。でも根本では、世の中の幸せを願っている。その為の自分でありたいと、きっと私の深淵では願っている。自分の存在を認められたい。きっと私は素直にそう思っている。私だってプライドがある。そのプライドと、会社の私に対する対応に、日々私は戸惑っているのだろう?世の中があって会社がある。そんなことはとっくの昔に理解している。その会社の中で生きる私は、日々イライラしている。私だって世の中に貢献したい。その素直なエネルギーを潰しているのは会社だろう?という、マイナスのエネルギーと日々格闘している私。会社を愛そうとしている私。でもそこまで愛せない私。好きだけど、でも結婚はできない……。そんな恋愛に似ている。日常がもどかしい。自分にとっての真実が欲しい。そんな感情を持っている自分が息苦しい。消えてしまいたいと、何気なく思う。私は自分の存在を、狡猾に操れていないのかも知れない。政治家のように、公に大声で嘘が言えたなら、私の睡眠不足は解消出来るのかも知れない。私だって人間らしく生きたい。でも私にだってプライドがある。そのプライドを著しく損なう態度をされたら、やる気が消滅する。世の中に繋がろうとしていた希望のようなものが、一瞬で消えてしまう。だから私は前の会社を辞めた。前の会社で私は自分なりに一生懸命に生きた。その時の自分を、今になっても間違っていたとは思えない。私には、自分に対するプライドがある。世の中を憎んではいない。だから私は転職したのだ。世の中に背を向けて、自分の欲望を満たす為だけに、生きられたのかも知れない。でも私のプライドがそれを許さなかった。だから私は会社を辞めたのだ。きっと会社とは、こんなものなのだろう?私はまだ、自分の居場所を求めて彷徨っている?時間が過ぎて行くのが早い。取り残されていくようで、そのことに焦燥感を感じて怖くなる。もう少し、世の中から離れることができたなら、私の何気なく受ける重圧は、軽減される?この時代を生きる私は、この時代の価値観できっと生きている。その価値観から抜け出られたら、もっと私は楽になれるだろうか?今の流れから抜け出たい。もっと私に合った、居心地のいい場所があるのかも?私は一般人なのに、それでも毎日が忙しすぎる。それでもその忙しさが、自分を満足させるお金になっていない。働くことが嫌になる。重要なことだから、もっと私は真剣に考えなくてはいけないのかも知れない。一つ悩みを解決すると、新しい悩みで私はストレスを感じている。普通に生きていければいいとは思うけれど、その普通がどういうものなのかが、イマイチ曖昧だ。結局自分の収入の範囲内でしか生きられない。家庭を持たなければ、今の生活でも不服はない。借家だけれど、生活に苦痛はない。だからこれ以上、働く必要もないし、働きたくもない。自分の限界以上の労働を会社から求められたから、私は前の会社を辞めたのだ。収入はそれなりに下がったけれど、今の会社で私には丁度いい。結婚願望は少なからずあるけれど、自分のリズムを崩すことと引き換えに、それでもしたいとは思わない。両親は孫が欲しいと思ってはいるようだけれど、私はその期待に応えるつもりはサラサラ無い。生まれてきたことに、私は苦しかった。両親はいつも喧嘩だった。家庭の中での私の居場所は、いつも苦しかった。そんな記憶がある。だったら結婚なんてしなければよかったのに。そういつも思ってきたような記憶がある。きっと両親は自分の内面を何も昇華しないまま年齢を重ね、周りの人に孫が出来始めたから、それで孫が欲しいのだろう。私はそんな両親の期待に応えるつもりは無い。全く無い。子供を作ることは簡単。それを普遍なリズムとして、簡単に作るわけにはいかない。私は自分に対して明確な答えを出してはいない。それなのに、子供なんて育てられる筈がないと考える。自分が寂しいから子供を作るなんていう、子供に依存する作り方は嫌だ。私は私の人生を生きたいし、その生き方を子供に押し付ける生き方は嫌。子供は子供の人生がある。その距離感を、私が明確に確立しなければならない。だから私はプロポーズを断った。彼は私を見ていなかった。ドラマや映画で見た感性を、そのまま現実の世界で使用したかっただけだ。私にその嘘の感性を受け入れる、純粋な感性がすでに無かっただけだ。彼が別に初めての男ではなかったし。だから私はそれ程純粋では無かった。私だって現実を生きなければならない。それを彼は見えていなかった。だから私は彼の気持ちを断った。ただそれだけの事。自分の遺伝子を残したくない。そんな微弱な恐怖感がある。世の中を生きていくなら、より有利に生きていって欲しい。それは親のエゴだろうか?それには現実的にお金が必要だ。より有利に生きるための教育。引け目を感じない育ち。彼は普通に生きていければいいとは言っていたけれど、それが私には不安だった。現実を生きる私は、現実を知っている。その中で、自分が崩れない生活をしている。食べたいものを食べ、着たい洋服を買い、生きたい場所へ旅行する。そんな生活をしている。会社に対する期待なんて、はっきり言って無い。それを私ははっきりと感じている。一人だから、私は私でいられる。私は私でいたい。だから私は結婚をしないのかも知れない。男を100パーセント信用出来るほど、私は純粋ではない。頑張ったからといって、報われるわけじゃない。それが会社だしね。世の中があって会社があるわけだから、それはそれで仕方がない。と言っても、独身だったら潔く会社なんて捨てられる。でも子供がいたらどうだろう?と、想像すると、うっかり責任を持つことに恐怖感がある。私は両親から生まれたことに、素直に今現在、「ありがとう」とは思えない。そんなに喧嘩をするなら、結婚なんかしなければよかったのにと、ずっと思ってきた。それなのに、私は偶然両親のセックスを見たことがある。どうやらそれも、私の精神に悪影響を与えているらしい。今になって、そんな記憶も私を苦しめる。仕事を拒絶して、電車に乗って、自分の気が済むまで遠くに行きたくなる。私の内面も、少しずつしか昇華されない。傷ついた感情は消えてはいなかった。ただ眠っていただけ。目に映る90%が新鮮ではない。内面と向き合う日常が苦しい。自分の内側を誤魔化せるバカ騒ぎが、最近苦手になった。誰とでも付き合いたくない。みんなとかいう言葉が、最近嫌い。それでも私は、みんなに合わせようとしてきた。それが社会人として当たり前だと、錯覚してきたから。そんな錯覚にも、今の私は疲れているのかも知れない。実は私は飲み会なんて好きじゃない。飲み会が好きな人がいて、その人達を中心に仕方なく巻き込まれる。社会人として参加するのは当たり前。そんな雰囲気を、今の私は疑問に思い、ストレスを感じている。出来ればこの仲間から離脱したいと考えている。そのチャンスを私は窺っている。だから私は自分の内面と日々、向き合わなければならない。向き合うことで、自分を追いつめられるから。追いつめられた私から、どんな私が飛び出てくるだろう?それが楽しみでもある。追いつめられないと、本当の自分の気持ちなんて、自分でも気づかないのだから。私はまだ、自分に期待をしている。それでも私は自分を信じている。自分にプライドを持ちたい。そのプライドを保つための努力を、継続したいとは思う。その努力とは、絶えず自分と向き合うことだと、私は思う。自分と向き合いたくないなら、みんなと馬鹿笑いをしていればいい。そんな過去の自分と、今は決別したい。私はそれでも自分を信じたい。自分にとって不必要な人は、それで自然と離れていくだろう。それを私は望んでいる。これ以上の、生活レベルは望んでいない。与えられた命を、大事に使用しなければいけない。自分の肉体と精神を、もっと大事に扱いたいと思う。私だって今を懸命に生きている。先人が作った仕組みの中で、それでも懸命に生きているのだ。自分の思うようにいかない。それでも日々を、何とか生きている。私は自分の範囲内でしか生きられない。どれ程の問題を、私は内側に抱えているのだろう?私の意識に認識されない問題が、どれ程眠っているのだろう?自分で自分が怖くなる。私は日常を普通に生きているつもりになっている。ふとした何気ない刺激に感情が揺さぶられ、思いもしない記憶が私を苦しめるかも知れない。両親のセックスの場面とかね。記憶は、どう処理すればいいのだろう?孤独になって向き合い、少しずつ、受け入れていくしかないのかも知れない。何気ない日常の連続は、私を苦しめる記憶を受け入れる為の修行だと考える。別に仕事はそれほど辛くはない。仕事が出来そうにない精神状態でも、何とか仕事をやることで、記憶に向き合う強さが磨かれたような気がする。私は昔より、弱くない。私の何気ない日常は、無駄ではない。自分を諦めたくない。自分を信じたい。私は私として生きるんだ。こんなシンプルで単純なことを、すぐに私は見失ってしまう。会社に対して未練はない。目の前の仕事はきちんとやる。ただそれだけのことだ。無理だと思ったら、また辞めてしまおう。きっと何とかなるだろう?取り敢えずは生活を繋げていければそれでいい。今の会社である必要はない。考えなくていいことを、考えているような気もする。きっと私は自分に不安なのだろう。不安で不安で、仕方がないのだろう。そんな自分を滑稽だと素直に思う。鏡の中の自分と目を合わせて、思う。
「死ぬなら死んでしまえ」と。そこまでの命だったのだと、私は自分に言う。自分を見失いそうで、私が震えている。そんな自分が滑稽だ。私は何とか現実を生きている。何とか自分を保ってね。こんな不安を抱えて生きているのは、私だけだろうか?私は正しく生きているだろうか?幸せに向かって、歩いているだろうか?私は何気なく、日常を生きているだけなのに。なんでこんなにも、気持ちが揺れるのだろう?その揺れが、私にとってはストレスだ。私にとって一番大事なことを、日常に遠ざけられているような気がする。日常に飲み込まれてはならない。そんな危機感がある。日常を生きるためのコツは、私はすでに体得している。無意識に対応すれば、頭はそれ程使わない。だから見えるものの90%が新鮮ではなくなったのだろう。私は内面を高めなければならない。その為の仕事だと、今は考える。一日の始まりの憂鬱を、何とかしたいとは思うけれど。自分に対して一つずつ答えを出していくことが、これほど憂鬱だとは。自分にとっての正解でも、他人にとっては正解ではない。それが視線になって自分に返ってくるわけで。私は私、という意地を張るのも、それなりの勇気を必要とする。内面の変化に、私の感覚をリアルタイムでリンクさせることが大変。そんな作業で一日が終わる。目の前の仕事をこなしながら、内面でも複雑な作業をしなければいけない。こんなにも、私はもがいている。少しずつしか、私の気持ちは救われない。こんな地道な作業は、放棄してしまいたい。そう考えることは、別に弱虫なんかじゃないでしょう?これ以上は頑張れない。私は私の限界を知った。私の範囲内でしか、私は働けない。自分を知らないから、大きな夢を見られた。本当の自分の実力を知り、それを受け入れてきた過程の今の私。だから自分の立ち位置を見失っているのかも知れない。好きで、今の仕事をやっている訳ではない。そんな不貞腐れた感情も、今の私を惑わせているのかも知れない。そんな感情はいけないと分かってはいるけれど、そんなことを思う私に苦しい。本当に自分のやりたい事だけ、やれればいいのに。そういう願望が私に悪い囁きをする。そんな感情を抱えたまま、私の時間は刻々と過ぎてしまう。焦燥感が生まれ、さらに私を苦しめる。私は自分に対して、何も明確な答えを出してはいないような気がする。不安を抱えたまま、それでも何気なく生きてきた。そんな感じだ。だから自分の遺伝子を残したいとは思わないのかも知れない。子供を愛することで、自分のそんな不安を誤魔化したくないと、私は考えている。子供には子供の人生がある。子供に依存をしたくはない。だから私はプロポーズを断ったと、何度も考える。私の両親は、お互いが本当に好きで結婚をしたのだろうか?そう思えない私は、自分の恋愛にも、どこか冷めていたような気がする。別に私は恋愛体質ではなかった。そういう友達を、馬鹿だと内心思っていたし。父親とは、うまくコミュニケーションはとれていたように思う、一時期までは。母親の肉体を貪る姿を見てからは、自分の人格が変化したように感じる。自分の人格に対して居心地が悪いというか。もしかしたら、未だに私は受け入れられずに、その記憶を持て余しているのかも知れない。いつまでも、私にとってはやさしい父親でいて欲しかった。父親の裏側を見るのが、年齢的に早すぎたのかも知れない。男にも女にも裏側があるということを、私は未だに許せないのかも知れない。だから男に抱かれても、絶頂というものを感じたことがないのかも知れない。私は女としての感性が壊れている?あの時見た風景に、私は未だに嫌悪感を持ち続けているのだろう。好きですと告白された時も、私の感情は何一つ動かなかった。告白をしてきた男はきっと、告白というものがしたかったのだろう。その場にいながら私は、そんな分析をしていた。こんな私は馬鹿なのだろうか?大人になると過去が増える。その過去が、私を停滞させる。いくら情報が溢れていても、すべての情報を私は飲み込めない。情報によって自分を誤魔化すことは、一時的に出来るけどね。静かな場所で内省したら、私はもっと楽になれるだろうか。その前にあらゆる記憶と向き合うために、私はもっと強くならなければいけない。断片的に流れる記憶にさえ、その場でしゃがんで耳を強く押さえたくなる。私はそれほど強くなんかなかった。それでも今ここに生きている。何とか、精神を現実に繋げている。私自身が、記憶と向き合おうとしている。人間とは、そういうものらしい。私はその自然な流れを、あるがままに受け入れようと思う。自浄を、私が望んでいる。もっと、美しい精神へ近づきたい。今日は不思議と感情が飛躍している。私は私を楽しんでいる。人と接触することで、感情が揺れる。私には私の距離感がある。その揺れにも、だいぶ慣れてきた。過去よりも、少しだけ利口になったし、強度が増している。気づいたら、自分を愛そうと努力している。相対的に自分を見ることで、社会での自分の輪郭が浮き上がり、気持ちが沈む。その沈ませる原因と、私は何気なく闘ってきたのかも知れない。入り乱れる感情を抑えるスキルだって身に付けた、と思う。次のステップを、私が望み始めている。過ぎていけばいい。すれ違う大勢の、私にとっては無関係な人に、私の感情はそれ程動かない。その激しい雰囲気に、私がびくびくしていない。すれ違う、個々の動いている人達だって、内面は激しく揺れているのだろう?その揺れに、私の揺れが吸い込まれなくなった。揺れが、自立したのかも知れない。大丈夫。私はまだ大丈夫だ。無関係な人とすれ違うことで、自分の大丈夫を確認している私。きっと、一人では生きられない。それ程自覚はしていないけどね。まだ生きられる。そんな確信が、今はある。これだけ通信が発達しているのに、何気なく孤独。伝えているのに繋がっていないからだろう?私は今という時代を生きている。その時代に対して私の内面が揺れている。その揺れに対応しながら、日常を流れていくしかない。考えても仕方のないことを考えても仕方がない。人間の本質なんて、きっと何も変化なんかしていない。起きて寝るまでに、私はどれほどのことを考えるだろう?生活が便利になっているだけで、考えることなんて、何も変化なんかしていない。あいつが嫌い。仕事に行きたくない。お金が欲しい。素敵な洋服にときめく。おいしいものを食べたい。たまにでいいから素敵な恋愛をしたい。きっと人間なんてそんなものだ。欲望を掘り下げたら切りがない。みんな、自分の人生に不安を感じている。お酒は不思議な飲み物で、不安を吐き出させる。みんな、生きていることに孤独で不安を感じている。私はその感覚を味わいたくて、たまに飲み会に参加するのかも知れない。人間の本質なんて、きっとみすぼらしい。その感覚は、両親のセックスに帰結する。両親の愛の向こうに、それを支える醜い下劣な欲望の解消がある。私はそれを、未だに許せていない。自分の中にも、そんな欲望があった。抱かれている時、それに気づいたのだ。私はもう少しで、母を許せるかも知れない。私も一人の女であることを、今は恋人はいないけれど、だから過去を反芻して理解出来そう。理解することは、こんなにも苦しい。理解するには孤独を必要とする。だから私は馬鹿騒ぎが嫌いなのかも知れない。馬鹿騒ぎは自分を誤魔化せる。馬鹿騒ぎの後の自分を虚しくなった経験がある。だから私は馬鹿騒ぎが嫌いになったのかも知れない。馬鹿騒ぎで飛び交う声は、孤独で寂しい。だから私は意識的に敬遠する。自分を仲間意識で適当に誤魔化したくない。孤独を素敵に何気なく、一緒に過ごせる恋愛が、今度はしたい。そんな願望がある。自分に対して、これ以上の刺激は求めない。この状態を維持し、何気ないいたわりでお互いを支えあうような、そんな恋愛を、今度はしたい。そんな繋がりを、私は求めている。今は次のステップに移行する為の、重要な時間なのかも知れない。だから私は自分を磨かなければいけない。寄り道はしたくない。自分にとって、本当に大事なことだけに集中したい。不穏な空気を敏感に察したい。そして、近寄らないようにしたい。きっと、何とかなるだろう。自分の変化で、今まで普通に会話をしていた人が、私から遠ざかる。最初は戸惑ったけれど、自分の変化に慣れてしまえば、その孤独もまた楽しい。私は自分の人生を生きなければならない。私は自分から離れた人を追わない。人間関係なんて、所詮そんなものでしょう?私はいつも孤独だったような気がする。弱くても、それでも自分でいたいと思ったから。私には、私のリズムがある。孤独を私は恐れない。対立する対象があるからこそ、仲間の繋がりは強く感じる。私は仲間になりたくない。なったような位置で、対立しないような位置で、最後はうまく逃げたい。そんな人に、私はなりたい。社会に出て、若者らしく絶望したことがあったけれど、今は何となく、それが面白いと感じられるようになったような気がする。「生きたい」と、今は思える。だから私は自分の都合で裏切るし、嫌いな人であっても握手をするだろう。若い時に、一番嫌いだった大人に、私はなろうとしている。何かを私は悟ったのだろうか?こんな私は、それでも人間らしく、生きているだろうか?思想を根本として、個々の人間は動いている。私は何の為に働いているのだ?その問いの答えは「生活の為」。読書をしているから、もっと高尚な答えは知っている。でも。私自身から出てくる言葉は「生活の為」。何だか笑っちゃう。きっとというか、所詮私という存在は、こんなものなのだろう?誰でも偉人になれるわけではない。現実を知らない若い時、偉人の言葉に過度に反応し、自分の命を捧げてもいいと感情を飛躍させたことが、今となっては何気なく恥ずかしい。自分の輪郭を知った今、私は自分を守るためのブレーキを掛けられる。偉人は稀有。それを社会に出て知った。私の勤める会社に偉人はいない。それが幸福ではないことなのか?そうでないのか?今の私には分からない。それほど私は仕事が好きではない。もしかしたら今の場所が、私にとっては丁度いいのかも知れない。世の中は複雑に絡み合う。自分の身の丈に合った居場所に、人はパズルのように消えていくのだろう。それでも私は生きてきたし、生きている。素直に思う。「疲れた」って。でも誰も褒めてなんかくれない。私はそろそろ、与えられた命の使い方を考えなければいけないのかも知れない。どうでもいいことに、自分の軸が揺さぶられる。こんなにも、自分を見失ってしまいそう。自分に対する明確な指針が欲しい。どこか私は依存をしているのだろう。だからこんなにも気持ちがブレるのだろう?過去の私よりは、強くはなっている。でもまだ、今を生きていることに余裕がない。不安と自信が内側で拮抗している。会社に行くだけで、それだけでこんなにも自分が揺れる。激しく振動する。働くことは嫌だけれど、この振動や揺れはそれほど嫌ではない。働かなければ、この感覚は味わえない。でももう、新鮮さは失われているけどね。日々動く感情は、何度も過去に出会っている。その出会いに、今の私は飽きている。それでも真摯に、目の前の相手に対応しなければならない。私はきっと、次のステップを求めているのかも知れない。停滞は、感性を腐らせるのかも知れない。自分の範囲で、感性に刺激を与えたい。去年の洋服に、今年のトレンドをちょっと加えるような。おしゃれはやっぱり楽しい。自分の収入の範囲内で、おしゃれを楽しみたい。靴を変えるだけで、何気なく楽しい。その上がったテンションは、仕事に対する気持ちと相殺されてしまうけどね。だから私は洋服が好き。私は自分の範囲内で、感性の変化を楽しみたい。ネットを使うことで、この場所にいながら洋服を厳選し、買える。洋服を買いに行く時間を作らなくていいし、気が済むまで迷える。店員の視線を気にする必要もない。それに安い。私は自分なりに、人生を楽しもうと思う。孤独を恐れない私はそれは既に、ものすごい武器を持っている状態なのかも知れない。何を私は今まで恐れていたのだろう?何も世の中のことを知らなかったから、自分で勝手に想像して、それを怖がっていただけだろう?どんな立場の人であれ、絶対の観察者にはなれない。それは一時的にはなれるかも知れない。その一時的が過ぎてしまえば、距離感は逆転する。世の中に出て、それが一番面白いと思えるようになった。取り敢えずは頭を下げる。一時的にはね。裏切れる準備をきちんとした上で、それを礼儀で巧妙に隠して、取り敢えずは頭を下げる。人間関係なんて、所詮こんなものでしょう?世の中に対して、正しくありたい。会社の中にいると、会社の常識に対して正しくあろうとしてしまう。世の中の為の、仕事。その為の会社。そこに私は私なりに参加している。たったそれだけのことなのに、それぞれの人の思惑が交錯する。仕事ではなく、会社にどっぷり浸かった男の人って気持ち悪い。会社が消えてしまえばその人も、輪郭が薄くなり、見えなくなるだろう。会社の中で無意味に生き残った醜さに、プライドを持てるのだろうか?世の中に対して正しくありたい。私には、私であろうとするプライドがある。だから大丈夫だと、自分を落ち着かせる。内省する男の人は素敵。そんな視線が私の中に生まれた。男を見る目が変化したのを感じる。多くの言葉を発する人は、きっと孤独なのだろう。自分の存在を絶えず自省する人は、どことなく寡黙。今まで見過ごしていた風景の中に、そんな光があることに、何気なく気づいた。私はそれでも自分なりに生きてきた。もしかしたらそれは、自己満足だったのかも知れない。自分以外の人生が見える。それは私に客観的な恐怖を与える。私はそれでも生きてきた。だから他人の人生に完全に飲み込まれるわけにはいかない。人は、与えられた環境をあるがままに受け入れ、それを自分なりにプラスにしていかなければいけない。私には、私に与えられた環境がある。私はそれに従順に従うまで。そう考え始めている。私は私の人生を生きなければならない。結局、自分の輪郭の範囲以内でしか生きられない。私は生き残れるかも知れないし、淘汰されるかも知れない。そこで私の思想が試される。世の中に対して正しい思想であれば、生き残れるのだろう。そうでなければ淘汰される。それだけのことだ。何を私はこんなにも怖がっていたのだろう?それでも一日を、精一杯私なりに生きてきた。その事実でいいではないか?私はそう自分に言い聞かせる。今の時代に家族を持つことに、私が恐怖を感じている。私は今の時代を自分なりに、精一杯生きている。他人から、とやかく言われる筋合いはない。私の生き方は、未来の人間が何気なく評価するのだろう?そのことに興味はないし、評価される筋合いもない。注意深く観察される存在でもないしね。私はただの一般人。それに気づいてからは、気持ち的に楽。自分はこの仕事をやる為に生まれて来たなんていう人は稀有。そんな人は、一般社会に埋もれている筈がない。一般社会では気持ち悪い協調性が求められる。その協調性に、私は辟易している。だからどうすればいいのだろう?転職し、この会社で一生生きていくつもりだったけれど、私が息苦しさを感じている。大切な命を、不本意な仕事に使用している。これから私はどうなるのだろう?不安はあるけれど、眠れない程ではない。死んでしまったら、そこまでの命だったのだろう。今はそう思える。これだけ世の中が便利になり洗練されても、人間の考えることなんて、本質的に何も変わらないと、感覚的に思う。世の中がいくら便利になっても、死という現実からは逃れられない。私は結婚をするつもりがない。であるなら、私の死体はどうすればいいのだろう?一人暮らしで死んだら、匂いで近隣に迷惑を掛けてしまう。それが私は嫌だ。迷惑掛けずに何気なく死んでいきたい。死んだら、パーっと消えてしまえたらいいのに。そう出来るのなら、もっと人に気を使わずに生きられると……思う。世の中なんて、これ以上便利になる必要はないと、個人的には考える。私はもう、純粋には若くない。だから安定と不変を求めているのだろう。30代なのに、世の中から離脱したい。私は既に、現実に疲れている。しかもヘトヘトにね。それでも感情は揺れ続けているし、思考も流れ続けている。現実に対して、私は行き詰っているのだろうか?感情が滞る。それが私にストレスを与えている。私は普通にしているのに、どうしてこんなに人間関係にストレスを感じるのだろう。自分の思うようにはならない。そんなことは理解している。過去がやっと過ぎようとしている。それなのに、目の前の現実も私を苦しめる。ここから逃げ出してしまいたい。そんな欲望が内側から溢れて来ることは、当然だと思う。まだ私は自分の輪郭を保っていられる。まだ意識で、逃げ出してしまいたい欲望を抑えつけることが出来ている。仕事はそれほど好きではないけど、嫌いでもない。内面の変化で日常のリズムに対して気持ちが揺れる。毎日顔を合わせる人に対しても、気持ちが揺れる。内面の変化で、今まで見えていた風景が変化する。その変化に、私自身の気持ちが揺れる。自分を信じようとすれば、孤独になる。協調性とは馴れ合いじゃない。敵対を、うまくかわさなければいけない。敵対は、馴れ合いの絆を強くしてしまう。自分が好きでやっている仕事ではない。失うことに、未練はさらさらない。でも次の仕事を探すエネルギーを捻出することに、私が疲れている。自分の精神を少しでも磨きたいと、私は秘密裏に思っている。その内面の変化で、視線も変化する。今まで何気なく付き合っていた人に対する視線も、当然変化する。私の今現在の戸惑いは、これだろう?仲間でいたいと思っていたけれど、仲間でいたいと思わなくなった。言葉にすれば、こういうシンプルなことなのだろう。変化を私は恐れない。生活を守る為に、取り敢えずは働かなければならない。少しずつ、私の内面は変化している。この場所で、生きていきたいと思っていたけれど、どうやら私がそれで納得しないらしい。私らしく死ぬための生き方をしたい。どうでもいい仲間意識に、私の感情が揺れている。その揺れにもエネルギーが必要で、それを私は素直に馬鹿らしいと思う。自分が見えていることだけに、集中出来ればいいのに。孤独を怖がる集団に、私の感性は辟易している。明確な距離を取りたいと思うけれど、今の環境では難しい。仕事は嫌いではないけれど、この微妙なストレスが仕事を不必要に嫌いにさせる。私がこの場所から逃げたがっている。その気持ちをどうすればいいのか、今は自分でもよく分からない。朝が来るのが憂鬱。出来れば出社したくない。そんな気持ちを抱えたまま、時間が過ぎて行く。過去の記憶の中に、今を突き破るヒントがあるだろうか?それでも私は自分と闘っている。そんな自分が滑稽だ。自分を投げ出してしまいたい。今は素直にそう思う。死という曖昧な感覚が、頭を過ぎる。生きたいと思う。この緊張から解放されたいとも思う。私の気持ちが揺らいでいる。どうやら世の中には、この隙間を狙っている悪い人がいるようだ。私は揺れている自分を守らなければならない。私は明日、自分の意志で会社に行けるだろうか?取り敢えずは無意識に任せてもいいような気もする。流れに任せることも、重要なことかも知れない。あの人がいなければ、私のストレスは大幅に軽減されるだろう。そう考える私は、間違っているのだろうか?嫌いな人がいなければいい。そんな気持ちは大人になっても私を苦しめる。精神修業が足りないのだろうか?嫌いな人で、私が揺れる。そんな自分が私は嫌い。私は自分にプライドを持っている。その私の影の要素を持っているから、私は嫌いなのだろう。自分でありたいから、私は自分の影の部分を意識的に抑圧する。だからあの人を抑圧してしまいたいのだろう。人には表と裏がある。自分にとっては裏でも、他人にとってはそれが表の場合がある。そういう場合、私は内面を、どんな風に変化させればいいのだろう?自分の影を認識し、受け入れることで、その人も受け入れられるだろうか?人を嫌い続けることも、疲れる。私はもう少し、大人にならなければいけないのかも知れない。飛躍し過ぎる思考が、きっと私の悪い癖。もっと楽に生きられるかも知れない?自分の変化が怖いような気もする。思考は回転する。そうやって少しずつ、テーマが昇華されていく。すべてのテーマに、一度に向き合うことは出来ない。どのテーマがいつ出てくるのか?そんなことは私にも分からない。会社は不思議だ。通うだけで、自分の内側に眠っていた記憶が溢れてくる。働くことで、自分の内面がゆっくりと昇華されていく。昇華される過程で、気づくこともある。十分にお金があっても、まだ働きたいと、今は思う。私自身が、自分を知りたいと思っている。それには働くしかない。追いつめられなければ、本当の自分なんて出てこない。私はまだ、自分に納得をしていないのだろう?だからそれでも働きたいと思うのだろう。生きているだけで、思考が変化していく。新しい疑問が目の前に現れる。そんな自分にやる気のない自分を合わせるのが、最近疲れる。もうこのまま進みたい。そう考える自分がいる。でもそんな自分を俯瞰で見る自分もいる。どの自分を優先させるのか?その問いに、今までずっと苦しんできたような記憶がある。だからまだ、私は死んではいけない。そんな気がする。自分に対して何一つ、明確な答えを出せていない。日々、私という存在は揺れている。その繊細な揺れを、何とかコントロール出来ている。だからまだ、生きる理由があるような気がする。今死んだら、ちょっとだけ後悔すると思う。それほど感情が揺れない自分を手に入れたい。見るものの90%が新鮮ではない私にとって、それはもう少しで辿り着ける境地かも知れない。日常を何気なく流してはいけない。自分の外側を流れる時間にも、気を付けなければいけない。人の視線は変化する。自分に対して世の中に対して、私は正しくあろうとしなければいけない。過去の自分に対して、今となっては恥ずかしい。過ぎたからこそ、見える自分がいる。今だからこそ、受け入れられる自分がいる。何だか「悲しい」気持ちがする。なぜだろう?過ぎた時間に後悔なんかしていない。でも何で今日はこんなに悲しい気持ちになるんだろう?人と会っている時間には限界がある。最低限の接触で、今は自分の時間へ戻りたい。そこには膨大な再発見があるのだから。今は孤独が心地いい。今はその孤独を邪魔されたくない。私は私の時間を生きている。自分としてはそれでいい。過去からの繋がりだとか、今はそれも無視したい。私だって、それでも懸命に生きているよ?無理なものは無理。人って、そういうものでしょう?私は自分の基本を信じる。だから私は孤独になることを恐れない。薄い繋がりが切れたところで、私の基本はびくともしない。距離感を、また元に戻せばいいだけのことだ。大半の人間関係はグレーゾーンに分類される。自分の都合で近寄ったり離れたりすればいい。自分の基本を押さえたうえでね。純粋に若い時、弱い裏切りにも絶望的に傷ついたけれど、人間関係はそういうものだと、どこかで私は割り切ったらしい。そんなことで一々傷ついていたら、疲れる。それから嫌なことがあったら洋服を買うようにしている。結構な量になった。自分を理解して欲しいと思うことは、大人の世界では甘えかも知れない。自分の気持ちを極力抑えることを、大人の世界では求められる。無理なものは無理だけれど。きっとまだ私の内側には、自分でも気づいていない記憶が山ほどあると思う。現実をうまくやり過ごしながら、その記憶と向き合っていかなければならない。忘れたままで過ぎていくことは、何だか勿体ないような気がする。怖い気もするけどね。私は今の環境をいつでも捨てる準備がある。私は適当に自分を演じて、日々をやり過ごしているだけだ。それがだらしのないことなのか、自分でもよく分からない。過去に対して後悔はない。その都度、私は真剣に生きてきた。自分の内側を流れる思考を清くしたい。きっと、自分が歪んでいたから思考が濁ったのだろう?今日は、そんな自分が内側から現れる。自分を子供のように安らかに眠らせたいけれど、なぜか緊張感があって最近眠れない。ぐっすり眠れる日は、来るのだろうか?肉体的にも精神的にも完璧でない日々が連続している。日常を生きていくということは、こういう中途半端な状態がいい、加減なのだろうか?私は私を生きるしかない。うんざりするけどね。もしかしたら、私は自分に飽きているのかも知れない。最近、お酒の量が増えたような気がする。自分を見失っている時間が心地いいと感じるようになった。外では飲まないけどね。私は飲めないことになっている。その方が、距離が取れて都合がいい。本心なんて言わない方が、結局はうまくいくのかも知れない。相手に対して勘違いをしている方が、日常を生きる私にとっては幸せかも知れない。母親は優しくて、父親は頼りになる。そう勘違いしている方が、どんなに私は幸せだったろう?両親のオスとメスの部分を私は見た。それが今でも傷になっている。会社の中でも、その位置によって、見える景色は別物だろう?私は今、幸せだろうか?今の私の感覚としては、そんなことはどうでもいい。生きたいように生きたいし、今は目の前のことに余裕がない。一日終わって酔って寝る。それが今の私。私は自分の見える景色の中でしか、生きられない。これ以上の生活の向上は求めない。食べたいものが食べられているし、着たいものが着られているし、それなりの部屋にも住んでいる。それなのに、こんなにも疲れている。死後の世界に幸せを求めない。なぜなら、今が幸せだからだ。だから私は家族を持ちたいとは思わないのだろう。快適な生活が失われることを、私はどこかで恐れているのかも知れない。生きていることに、私自身が満足している?だから死の感覚が曖昧になるのだろう?生きる為に食べるのではなく、楽しむために無理やり食べているような気がする。私の感覚は、狂い始めている?そんな気がする。生きている感覚を無理やり感じる為に、無理やりネットで検索して、おいしいものを私は求めるのかも知れない。つまらない日常を連続させるには、モチベーションを必要とする。それが今の私にとっては買い物なのだろう。アレが欲しいから働く。それで一日がやり過ごせている。こんな私は人間らしく生きているだろうか?今の私の連続で、その後の私には何が残っているだろう?一日が終わると不安しかない。この国に生まれて、私は幸せだったのだろうか?自分で自分の幸せが分からない。自由に生きているつもりなのに、それなのに実感がない。自分の存在が不安。だからぐっすり眠れないのだろう。緊張を解いてしまったら、自分が崩れてしまいそうで怖い。素の自分に戻ることが怖い。きっと私も時代を何気なく構成する、何気ない部品なのだろう。それはそれで悔しい気持ちもするし、それはそれで、もういいような気持ちもする。いい意味で、自分に諦めがついたのかも知れない。その上で、私は身の丈に合った生き方をしなければいけない。それにやっと気づいたのだ。私は私として、生きていかなければならない。起きたらそこに、私がいる。私として、一日をまた始めなければならない。きっと私はすべての自分を愛してはいないのだろう。自分に不貞腐れて日々を生きている。そんな感じだ。この感覚は何れ、昇華されるのだろうか?生まれてきて良かったと、心の底から私は思えるのだろうか?両親に対して本心で、生んでくれてありがとうとは思えない。それが今の私。出来れば生まれてきたくはなかったとさえ、今は思っている。世の中で生きていくには自分の輪郭を絶えず突きつけられる。そのこと自体に、私は疲れているのかも知れない。私の本能としては、人を愛したいと思っている。ここの部分は、真実の感情だと信じたい。ただ。日々、人に対する憎しみのようなものが増大する。世の中に対して、私は認められたいと思っているのだろう?その欲望に対する対価に、私は憎しみを感じているのだろう?自分を受け入れることの辛さを、私は感じているのかも知れない。自分に納得して生きている人はいったい、どれ程いるのだろうと私は想像する。そうやって、無理やり自分を納得させようとしているのかも知れない。自分を納得させなければ、明日から会社なんかに行けない。そうやって自分の時間が過ぎて行くことに、私は強引に納得しているのだろう?そうやって私は、命を消費している。そんな自分に、安っぽさを感じる。本当に大事なこと以外に、大事な命を使っているような気がする。私にとっては生活を繋げる為の仕事。その仕事に情熱もプライドもない。誰でも出来る仕事に、情熱なんて持てるだろうか?プライドがあるような気持ちにさせるのが、経営者のテクニックだろう。世の中の仕組みに、私は気づいている。目の前の仕事の価値に、私は気づいている。世の中は動いている。そのことにも、私は気づいている。このままではいけないと、私は気づいている。だからどうすればいいのだろう?と自問する。今所属する会社は近い将来滅びるだろう。中に居る一般社員の私にも、容易に想像が出来る。知りたくない情報が、ネットで容易に入手出来る。私はこの会社に命を捧げるつもりはない。今はいい。未来に対して私の心臓はどきどきする。大きな組織だからといって、繁栄するとは言えない。それは歴史が証明している。今、私はどう動けばいいだろう?会社という枠の中にいると、生存に必要な感覚が鈍るらしい。会社という組織が時代に合っている時間は組織のルールに従っていればそれが正解だったのかも知れない。でも今はどうだろう?一般社員の私にも、この会社は不安を感じさせる。私は私を生きなければならない。だから会社を心から信用するわけにはいかない。私の根底を流れる思想が揺れる。私は何の為に働いているのか?そう突きつけられているような気がする。このままどうでもいい仲間と、どうでもいい時間を過ごしていってもそれでもいいとは思う。私はそれで納得するのだろうか?私は自分に素直に問う。でも今は明確な答えが出ない。自分に対して素直に生きたいとは思うけれど、その気持ちをどう処理したらいいのか、今の私には分からない。今、身の回りにいる人達を、今の私は心から愛せない。いつでも裏切れる準備はしている人達だ。それは今いる場所に対して、今の私が納得していないからだろう?一日終わって疲れて眠る。私の内面には鬱屈しか残っていない。私の居場所はここではないと、そのことに一日中固執している。この場所の時間の流れに合わせつつ、私はこの時間から抜け出すチャンスを窺っている。そんな自分に毎日もどかしい。働くことに対して、階層的な視点が私に芽生えている。働くということに対して階層があるという冷酷な現実を、私は受け入れなければいけないのかも知れない。その上で、私は自分を主張しなければいけないのかも知れない。私は既に学生ではない。世の中に放り出されている。冷酷な現実を、あるがままに受け入れようと思う。だからと言って、その現実に自分を合わせようとはもう思わない。私は自分に対して自由でいたいと思う。流れる思考が私を苦しめる。自分の思考は飛躍しているのに、その飛躍に自分の実力がついていかない。会社を辞めて、独立をしたいと私は考えている。でもまだ辞める時ではない。秘密裏に、準備を進めなくてはならない。流れの外側に出ることを、私は日々夢見ている。自分で、世の中と対峙する。それにはもう少し、強くならなければいけない。会社の内側にいる私は自由ではない。会社の中で生き残る為に使うエネルギーを、世の中にストレートに放ちたい。そう私は考えるようになった。見るものの90%が新鮮ではなくなった。時間が過ぎて行くのを、毎日待っている自分に気づいた。時間が過ぎて行く。取り敢えず、それで生活は成り立っている。きっと私は生きていない。飼われているような感覚?会社の中にいるのに、世の中から不思議と遠ざかっていくような感覚。街という風景があって、そこに私は住んでいる。私の内側にある世の中という概念に、私が飽きているのだろう。新しい概念を、私が求めている。このままでは私が腐ってしまう。そんな危機感を、私は密かに持ち続けていた。前の会社を辞めた時、怖かったけれど、何とかなった。きっと人間なんて、そんなものなのだろう?私は私を生きるしかない。私は未だに自分と挌闘している。同じ場所にいることに、私が危機感を持っている。今まで私は過去を生きていたのかも知れない。その過去から抜け出る機会を、ずっと窺っていたのかも知れない。もう少しで抜け出られそうな予感がする。普通に生きていたって、こんなにも傷だらけになる。思考の流れは止められない。記憶がもっと体系的に、整理出来ればいいのに。そうすればもっと私のリズムはシンプルになるかも知れない。本当に大事なことだけに、集中したい。起きてから寝るまでの時間、心が揺れ過ぎているような気がするのは錯覚だろうか?もっと心の安寧が欲しい。でもそんな境地はずっとずっと先だろう。私の目の前にはやらなければいけないことが多々ある。今の環境から抜け出す準備を着々と進めなければならない。私は私の内面の衝動に従っている。これが本当に正しいことなのか?自分でもよく分からない。でもそんな内側からの衝動に、素直に従ってみたい冒険心で、わくわくしている自分がここにいる。同じような会話で毎日が過ぎて行く。会社という枠の中にいるから、触角を伸ばしていないと世の中がうまく掴めない。私にとっての世の中は今のところ、会社。その中でうまく立ち回ろうとしてきたけれど、私の性格にはどうやら合っていないらしい。転職をしてみたけれど、会社の中が世の中という本質は変わらない。その会社が世の中からズレ始めている。そう感じる私の感覚が、会社に対してズレているのだろうか?お金というものを、私は考え始めている。「今月も頑張った」、で振り込まれる金額に、私は納得していない。きっとお金とは、こういうものなのだろうと、私は自覚する。会社という枠の中で頑張っても、それほどの対価にはならない。であるのに、周りの人は頑張っている。それが当たり前であるかのように、兎に角頑張っている。それが滑稽であるという感覚を持っている自分がおかしいと、そう感じる自分をいつのまにか封印していたような気がする。普通の人はきっと、こき使われることが好きなのかも知れない。お金を稼ぐということは、こういうことなのだと、勘違いしながら生きているのかも知れない。そう私には見える。滑稽だと思う自分を、今は信じようと思う。私は仕事に対してプライドを持ちたい。頑張ることにプライドを持つのではなく、仕事の質、そのものにプライドを持ちたいと思う。自分のやっている仕事は世の中に対してどれ程のものなのか?その対価がお金なのだろう?自分の仕事にプライドを持ちたいし、お金も欲しい。であるなら、今の環境では、その二つは手に入らない。世の中に対してズレた組織に長居をしても仕方がないと、私は考える。無思想に働くことは馬鹿だと、私は考える。私は成長している。何かが見え始めている。このままのモードで生きていくつもりだったけれど、予定変更!がむしゃらに働けばいいというものではないということを、がむしゃらに働いて気づいた。働き方を、変えなければいけないと、今、私は思う。見るものの、90%が新鮮ではないけれど、この内側から溢れてくる光は何だろう?とても温かく、私を包みこむ。新鮮ではない世界で、私が生きたがっている。自分で何かを変えようなんて大それたことは考えない。ただ。自分の何かが変わろうとしている。その変化に、私自身がどきどきしている。脳がそれを歓迎している。きっと自分も世の中も、少しずつしか変わらない。その連続がある時、急激な変化になるのだろう?それが今の私なのかも知れない。急激な変化に、私自身が戸惑っている。私は近い将来会社を辞める。そして独立する。ずっと孤独に温めてきたことが、もしかしたら、やっとここで形になるかも知れない。そんな予感がする。ずっと私は孤独だったような気がする。でも私は孤独を感じなかった。感じる時間さえなかった。自分の内側から溢れてくるこの光を信じたい。その為の準備期間だったと、今では思える。私は私として生きる。それでも、私は私として生きるんだ。きっとみんな、世の中に対して正しく生きたいという本能がある。そんな善な本能を封印させてしまう仕組みが会社の中にはある。その仕組みが、人の心を歪ませるのだろう。人に基本を置いた会社を私は立ち上げたい。今までの嫌なことも、自分の軸のレベルを上げる為だったと、今なら思える。今の私には、人はこうあるべきだというビジョンがある。だから負けない。いろんな人を実際に自分の目で見、観察した経験は、きっと私の血肉になっているのだろう。それが昇華され、エネルギーになり、内側からの光になって私を照らしている。生きられるかも知れない。そんな確信が、今はある。そんな自分に心地いい。そんな自分を隠して、まだ会社に紛れこまなければいけない。触角を鋭敏に、私。時代が動いている。その動きに合わせられない企業も個人も、淘汰されればいい。そう私は密かに願っている。だってそこにチャンスが生まれるのだから。成功体験から抜け出せない企業も個人も、淘汰されればいい。誰だって自分の生き方を肯定したい。だから人は群れるのだろう。みんな自分が不安だから、取り敢えずは誰でもいいから一緒にいたいと思うのだろう。どうでもいい価値観を共有することで、一瞬の安心を得ているのだろう。時代に会社が合っている時、その距離感はうまく機能する。もっと時代が会社が揺れればいい。私は少しも怖くない。きっとみんな気づき始めている。でもそれに気づかないフリをしている。私は素知らぬふりで、実力を蓄えなければならない。どうでもいい会話にも迎合する。そんな道化も必要。何れ会社を辞める。辞めて自分の理想とする会社を立ち上げる。そんな野心が私にはある。不思議とドキドキする。曖昧に思っていたことが、現実になろうとしている。まだ私には早いような気もするし。だからと言って、学ぶべきことも見あたらない。見えないだけかも知れないけどね。でも今の環境に、不思議だけれど何気なく未練がある。この感覚が、住めば都ということなのだろうか。今の場所を愛してはいるけれど、居場所ではないと、自分に戒める。私は自分として生きたい。だから自分に厳しさを求めたい。私の内側の目の前で、過去がだらしなく隊列を作って流れていく。それを今は強くなった私が眺めている。別に優越感はない。今となってはどうでもいいことに、過去の私は心を乱していた。そのことに悔しいと思うのだろう。今を生きなければいけない。素直に、今はそう思う。
触角を鋭敏に、私 魚麗りゅう @uoreiryu
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