第2話 季節外れのセミ

 腹をくくった私に話しかけられた少年は、口をあけたまま固まっている。そのすきに畳みかける。


「あのね、これから君にカメラを投げるから、絶対受け取ってね!絶対よ。取り損なったら弁償だからねっ」


 弁償は言い過ぎだろうか。まあ、私の覚悟を伝えるにはこれくらい言わなくちゃ。

大丈夫。大丈夫。不自然ではないはずだ。これが今日の「私」。彼にとっての「私」になる。


「え、でも、あなたは……」


 ようやく少年が口を開く。とまどいつつも心配してくれているようだ。心配はありがたいが、もうそれどころではない。せっかく覚悟を決めたのだ。さっさと終わらせてしまわなければ、もう降りられない気がする。


「私は飛び降りるからいいのよ!はやくっ。足場不安定なの。着地の瞬間にカメラが地面に衝突とか嫌だもの」


 とにかくカメラを受け取ってもらわないと。そう思って必死に言葉を並べる。何を言っているかなんてもうよく分からない。

 カメラが彼の手に移った。しかし、彼はまた何か言っている。「なあに?」そう聞き返そうとしたのと、視界が大きく揺れたのはほぼ同時だった。


「!!!」


 全身に衝撃が走る。目には涙がにじんでくるのを感じた。


「あの……大丈夫ですか?」


 彼が控えめに、それでいて心配そうに聞いてくる。


「あーうん……大丈夫だいじょうぶ……」


 痛みを感じるような気もするけれど、もはやどこが痛いのかもよくわからないから、とりあえず腰を押さえておく。

 痛みが少しずつひいていき、頭の中で状況を整理できるようになってきた。前かがみになりすぎて、足を滑らせてしまったらしい。カメラに気を取られすぎて足下に意識をやるのを忘れていた。


 ん?カメラ?


「ねえ、カメラは?私のカメラは無事なのよね?」

 私はあわてて尋ねた。

 彼が返してくれたカメラを確認する。傷一つ無い。データも……無事だった。

降りるつもりが落ちてしまったのは予想外だったけど、カメラは無事だった。


 だからこれは、概ね計画通りなのだ。などと心の中で自分に言い聞かせた。

 そして、ああそうだ、カメラの恩人に御礼を言わなければ。そう我に返って御礼をいう。


「ありがとう少年」


 木から降りる前--正確には落ちる前だけど--の設定を思い出し、にやっと表情も作ってみせる。普段から、好奇心に負けて木にも登るような人間に見えるだろうか。


「あの、でもなんであんなところにいたんですか?」


 彼が尋ねてくる。そうだよね、気になって当然だと思う。不思議には思っているようだが言動を不自然には思っていないようだ。


「セミをね。撮っていたの」


私がそう答えると、彼はぽかんとしていた。何故そんなに不思議そうにするのだろう。


「カメラを持ったままでですか?」


 彼にそう言われ、一瞬理解できなくて固まってしまった。カメラがないととれないじゃないの。

 ああ、なるほど。彼の勘違いに気付いてしまった私は、思わず笑ってしまった。

セミを「捕ろうと」していたと思ったのね。


「ちがうわよー。セミの、写真を、撮っていたのよ。カメラを持って蝉捕りする訳ないじゃない」


 証拠として、撮った写真を見せた。


「ほらこれ、よく撮れているでしょう?」


 少年は食い入るようにカメラの液晶画面を見ている。そして、


「あの、すごくきれいだと思います。…詳しくは分からないけど」

とやはり控えめに感想を伝えてくれた。とてつもなくシンプルな感想だったけれど、何故か嬉しかった。


「でも、なんでセミなんですか?」


 彼から問われて、私は考える。なんといえばいいのだろう。鳴いていたから? 理由はいくらでも見つけられそうだけど、秋に鳴いているセミを見てみたかったから、かな。

 ……秋? 私はぴったりの答えを見つけて笑顔になる。

 彼が、私と同じ理由でこの道を歩いていたのであれば,きっと反応するはず。期待をこめて私は口を開いた。


「それはね、今が秋だから。」


 思った通り、彼は目を見開いて私を見ていた。


「だから、秋だからよ。もう秋なのに、セミが鳴いていたから。」


 念押しのように繰り返して、様子をうかがう。

 ああやっぱり、やっぱりそうだ。彼が探していたのも「これ」だったんだ。彼の顔をみて、確信する。「まさか同じ事を考えている人間がいるなんて」。これはそういう顔だ。


 そう思うと口が軽くなった。「私ね、秋になって鳴き続けているセミを見ると、頑張らなきゃ、って思うの。」とか「1匹になっても鳴いているセミって、絶対生きてやる!って言っているように思うの」とか聞かれていないことまで次々話してしまった。


 思わず同意を求めて投げかけた「ねえ、きみもそう思わない?」という言葉には返事はもらえなかったし、別れ際まで彼は戸惑っていた様子だったけど構わなかった。


 口と同じくらい軽くなった足取りで、私は家に帰る。なんていい日なのだろう。さっき撮ったセミも、この時期に他のセミを見つけたらこんな気持ちになるのだろうか。


 どうせもう会わないのだから。


 そう思っていたけれど、また会いたいな。会えるだろうか。


 名前も、連絡先も知らないけれど、また会える。そんな気がしていた。



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秋のセミ _彼女の場合 優木 @miya0930

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