花 売 話
或ある時、日本橋から西の方にある芝居町の外れを歩いている男がいた。年は二十五、六だろうか。小柄ながら骨太な身体からだで、少し痩せてはいるが肩幅がひろかった。頭は丸刈りで顔の色の浅黒いところは武士を思わせる。
彼は今通りかかった芝居茶屋の入口に立って中の様子を窺いながら、ちょっと首を傾げていた。店の中は客でいっぱいだが、どれもこれも小身者のようである。しかもどの席にも座札ざふだしや膳椀ぜんぱんの類は出ていない。男は何か思案するようにしていたがやがて、そっと後戻りをして来た。
そのまま引き返して来たのだから別に急ぐ用もないらしいが、折あししく店の前を通りかかった女が一人いて、その女に向って彼は軽く右手を上げた。
女が気づいて近づいて来ると二人は往来に立ったまま二言三語話を交した。女は大きな包みを持っていた。中には多分衣類でも入っているのだろう。
女と連れ立って再び元の道を引き返した彼の行く先にも、そのあたりには人影は稀まれだった。けれどもその彼方の方に一つの小屋かげが見える。小屋と云っても柱を立てて板壁で囲ってあるだけなのではなしに大きな看板を出した旅回りの一座の楽屋だ。そうして、そこを行き過ぎる彼もまた一座の一員であった。
この一座の女形が役者の女房だと聞いているがどう云う人なのだろうと思って、さっき道端に立ち寄って、つい女に聞いて見たら、それが正に当人だと言う答えだったので、早速、一緒にここ迄やって来ていたのである。ところがその肝心の女はどこかに行ってしまった。
何でも、座長の家内が突然産気づいたとか云う事だったが、それを聞くと、すぐその辺を見廻して、女の姿を捜した。けれどもどこにも姿が見えないので諦めて帰って行った。すると、あとから女が追いついて来て、いきなり彼を背中から突き飛ばさんばかりの勢いできき始めた。
女の話によると先刻、座長の妻から呼びつけられて「お前、あの人を連れてどこまで行ったの。まさかこんな所へつれては行かないでしょうね。わたしに恥を掻かさない積りなら…………」と言われたそうだ。そう云えば女の態度はひどくきびしいようでもある。それにしても何だって自分がここまでつれられて来たのか全く合点がゆかなかった。女と二人っきりの道中など今まで経験したことも無いし、またそんな心持をも抱いた事はなかったからである。だから自分の方は黙っていて相手の言いなりにしていたのであったが相手は一向にそれを諒解しないらしくいつまでも執拗に責め立てるのが煩わしかった。それで思わず口を滑すべらせた。
「いや、自分はあなたと一緒に、ここまで歩いてきたんじゃありませんよ。一人で後から追いかけてきたんです。そして今頃あなたの所に行っているんじゃないかと思います。自分とは関係無いです」
すると、今度は女の方が吃驚したように目を見張りながら言った。
「あら厭や。貴方、あたしの旦那を知っておいでの癖くせに、よくそんな事が言えるわねえ」
「そりゃ、どういう意味ですか」と聞くと、女は彼の手を執るようにしながら、「まあ。あんな人がお芝居なんかしているから、みんなに馬鹿にされるんですよ。この前の興行のときもそうでしたもの。あたしがどんな苦労をして舞台衣裳を買って来たり桟敷せきしきや幕物まくりものを拵えたりしたと思っているんでしょうかね。今度もそうなのよ」
彼は相手が口を切るたびに、いちどきに押しかけて来る言葉の波に、しばらくは息もつけないほど気圧されていたのだが、やっと我に返ると、「そりゃ知りません。第一、うちの親父は滅多に外へ出る男じゃないんだし……。だから今日はきっと、何か急な仕事でも出来たに相違ないのです。それより、早く家へ帰った方がいいと思うけど…………」
そう言って女を促すと歩き出した。その彼が今、一座の者と共に歩いているのである。けれども、それは一座の一構成員と云うのではなくて、他の一座から招かれている役者の一家だった。
女と連れ立って歩くのも旅の一座に属するためではない、旅の一座から頼まれて時々芝居を打って見せるためだった。女が彼の父の名を知っているはずは勿論無かった。
女は彼よりは一つ齢下の娘だったが、それでもまだ二十歳にならぬうちに一座の看板役者の一人になっていたのである。だから世間から見ても結構に扱われた。ことに彼女の美貌は人の眼を引くほどだった。その上頭もよく切って、芸も巧みで、おまけには気立てがいいとくれば大抵の男なら喜んで身内にしようとするに極っている。しかも父親はその女に跡を継がせる意志はまるで無いのだそうである。それはともかく彼は、この娘の亭主になるくらいならば芸人になってもよいと思った。しかし今は未だ時機尚早なようである。
やがて二人は一座の仮宅に着いた。そこで座長夫妻に引きあわされた彼は今こそ事情を知った。女と道端に立ち寄る前に聞いた噂話はほんとうであった。座長夫妻は自分たちの座を、女形を専門に演じる一座と見せ掛けて、実際は世直しの芝居を演じさせていたのである。
この芝居では悪漢が都の人々を襲う場面があった。けれども襲うと言っても、本当の乱暴はしなかった。ただ無暗に着物を引っ剥がしたり、髷だけを持って引き廻したりするだけだったから都人どもの中には笑い声を立てない者は一人もいなかった。そして見物人から集めた金を役者たちに分配するのだったが、これが結構に売れた。なるほど、こんな事をやっていれば楽に暮らして行けるだろうと思われたので男は一座に加わった。すると今度はこの娘が自分を手許に取り込む事にしたらしい。
「お前さんにも少し稽古を付けてあげましょうか」
「いえ、自分はもう結構です」と断ったのは本当だ。
「そう遠慮せずに……。それじゃあ明晩、もう一度ここへいらっしゃい」
彼女はそれだけ言うとさっさと奥の間へ引込んでしまったが、翌朝、例のごとく彼女を迎えに来た男が言ったのを聞けばどうも、昨日も同じように断り続けたらしい。それで結局は男の方が折れた形になった。そして今夜も又、迎えに来た彼女に付き従って一座の芝居場へ行くことになった。それは先夜の芝居場の隣の小さな家で、舞台と楽屋が一緒になっているのである。
そこへ行った彼は女形の衣裳を着せられて舞台の上に出させられた。そこで、これは女形が遣やるお伽話の真似をするのだという事を教えられて、いろいろと指導を受けた。それから女と二人で、いろいろな人物の役を次から次に変り替り演ずることになった。それが終った時には夜が明けかけていた。疲れ果てていた彼に、その女は小腰を屈めて、「あたしのために来てくださって有難うございました」と礼を述べた後、急にはにかみながら付け加えたものである。「実は、今夜もまた同じ事が待っているんですよ。またあなたに来ていただきます」と。
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