【五限目】風邪を引いたので、耳かきASMRを聴く

「……やべぇ。風邪引いたな」


 午前8時30分。体温計に表示された38.0度という数字を見て、俺はため息をもらした。

 熱いし、身体中がだるくて気持ち悪い。ご飯を食べる気もしないので、とりあえず市販の風邪薬を飲み、ベッドに倒れ込む。

 昨日は23時ぐらいに居酒屋のバイトが終わり、帰宅したのだが、その時がかなり肌寒かった。それが原因かもしれない。

 

「そういえば、一人暮らしはじめてから、始めて風邪を引いたな……」


 しばらくの間、ぼうっと、白い天井を見つめる。

 無音。ひたすら無音。今までは、自分が風邪を引いた時は家族の誰かしらが心配して声を掛けてくれたものだが、それが今はない。

 なんとも言えない、孤独感があった。風邪を引くと、気分も落ち込むものだ。出来れば、誰かに励ましの声を掛けてもらいたい。

 俺は枕元に置いてあったスマホを開いた。


『──お兄ちゃん。風邪引いちゃったの? 大丈夫?』


 スマホから、妹の心配そうな声が聞こえてくる。


「そうなんだよ、体がだるくてな……結構、辛い」


『あ、やっぱり辛いんだね、かわいそう……私にして欲しいこととか、あるかな?』


 兄を労わるような優しい声に、俺はうーん、と唸る。


「そうだな……じゃあ、耳かきしてくれないか?」


『え? 耳かき……? うん、いいよ! お兄ちゃんがそれで元気になるなら!』


「ありがとうな」


 一瞬だけ、スマホから離れるような足音が聞こえる。


『綿棒、持ってきたよ! ……じゃあ、お兄ちゃん。耳かき、してくね?』


 ──ザリザリザリっ。


「あー……これは、良いな」


 耳の奥を優しく撫でるような音に、つい息がもれる。ついでに、妹の嬉しそうな声が聞こえる。


『ふふ、お兄ちゃん、気持ち良さそう……もっと、してあげるね?』


 ──ザリ、ザリ、ザリっ。


「おぉ、流石は俺の妹……すごく気持ち良いよ」


 ──もう、お気づきの人もいるだろうが。

 俺は、耳かきASMRを聴いていた。

 今回のシチュエーションボイスは、ブラコンな妹が看病で耳かきをしてくれるというもの。

 大人しそうな女の子の声に囁かれて、綿棒で優しく撫でられるようにされる耳かき音。

 俺のお気に入りの一つで、気分が落ち込んだ時は何度も聴いている作品だ。


『逆も、してほしい? いいよ、してあげる。じゃあ、ごろーんして?』


「イエス、マイシスター。ごろーん」


 スマホから聞こえる女の子の指示に従って、寝返りをうつ。


『はぁい。辛いのにごろーんできて、えらいね……じゃあ、反対もしていくよ』


 ──ザリ、ザリっ。


「あ、反対も最高……俺の妹、最高すぎん?」


 あまりの心地良さに、頬が緩んでしまう。ついでに顔がすごく熱い。頭の中が茹で上がりそうなんだが……多分、俺の妹の耳かきテクが凄すぎて、脳まで溶け始めちゃってるだけだよね。うん、きっと大丈夫だわ。


 ──ヴーっ、ヴーっ。


 突然、音声作品から流れる声と耳かき音が止まり、代わりにスマホのブザー音が鳴り始める。


「ん? 誰からだ……?」


 スマホの画面を確認すると、月美から電話が掛かってきていた。

 俺は画面をタップし、スピーカーをオンにして電話に出る。


「もしもし、月美か? どうした?」


『あ、コウくんでたっ。どうしたじゃないよ。今日一限目あるでしょ? 今どこにいるの?』


 あ、と声を上げて、時間を確認する。現在時刻は9時20分。熱を測ってからもう50分も経っていたらしい。

 しかも、今日は一限目から授業があるのをすっかり忘れていた。一限目の開始時間は、9時30分から。


「すまん、月美。俺は今日休むわ。風邪引いちゃってさ」


『え? 風邪引いたの? たしかにちょっと声が変だね……コウくん、大丈夫?』


「うん、まぁなんとか。とりあえず薬は飲んだよ」


 幼馴染に心配をかけまいと、俺は努めて明るい声で答える。電話から月美の少し安心したような声が聞こえる。


『そっか……まぁ、さきちゃんもいるみたいだから、大丈夫だよね』


「ん?」


 俺は首を傾げる。咲、というのは俺の妹の雨宮咲のことだ。今年で高一になる。

 しかし、この部屋には俺しかいない。


「なにを言ってるんだ、月美。家には俺しかいないぞ」


『え? だって今、「お兄ちゃん」って呼ぶ声が聞こえたんだけど……あれ? でも咲ちゃんにしては声が少し高いような……?』


『──はい、お兄ちゃん。耳かき終わったよ? 早く、元気になってね』


 最後に、ちゅっ、というキス音と恥ずかしそうに笑う妹の声が聞こえて、音声が止まる。

 それを聞いて、なるほど、と得心がいく。無意識の内に、電話を出るのと同時に止まってしまった音声を、再生していたようだ。


「あー、月美。それはきっとASMRの声で──」


『──風邪を引いてる時に、なにしてんのっ?』


 俺の言葉を遮って、月美の怒声が聞こえる。『え? は、はぁっ!?』と電話の先で、少しパニック状態に陥っているのが分かる。

 月美は俺がASMRを聴いていることを知っている。なにを今さらそんなに驚くことがあるのか。


「落ち着け、月美。なんで、そんなに驚いてるんだよ」


『そりゃ、驚くよっ。リアル妹がいるのに、なんで妹もののASMRを聴いてるのっ?』


 そういえば、月美にどんな内容のものを聴いているのか、詳しく話したことがなかった。月美もあまり聞く気が無さそうだったし。


「いや、リアル妹はいても、妹もののASMRは聴くだろ、普通。だって、ASMRの妹の方が可愛くて、優しいし」


『あぁ、そういう……まぁ、そうなんだろうけど……っ! ていうか、それよりもASMRなんか聴いてて、ちゃんと安静にできているの?』


 一応、納得してくれたらしい。俺は笑って答える。


「おう、おかげで顔がめちゃくちゃ熱い。頭が茹で上がりそうだぜ」


『できてないじゃんっ。ていうか、風邪を引いている時にASMRを聴いて、興奮して変なテンションになってないっ?』


「え? そんなことはないぞ」


 自分が今まで、なにをしてたかあまり覚えていないが……別に、変なテンションとかにはなっていなかったはずだ。うん、平常運転、平常運転。


『──とにかく! もう講義が始まるから電話切るけどっ。ちゃんと、安静にしておくんだよ? 学校が終わったら私、コウくんのところに行くからね。それじゃっ』


「え? ちょっ──」


 俺の了承を待たずに、電話が切れる。

 どうやら学校の終わりに、月美が看病に来てくれる事が決まったらしい。


「……とりあえず、他のやつも聴くか」


 俺は再びアプリを開き、耳かきASMRを聞き始めた。


 

 

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