◆track.01「ハロー、ワールド」④


 放課後。ライカとの約束を守って下校し、買い物を終えた道すがら、よく通っているそこに異物があり、主人公の目に留まった……というよりも、否応なく目が引き寄せられた。


『…………あ』


 そこにあったのは、路傍に供えられた花だった。

 花びらのみずみずしさや、一緒に置かれたペットボトルのお茶が薄まっていないところを見るに――ここが例の場所なのだろう。


『神室さんが、命を落とした現場……』


 花やお茶がなければ、普段と変わらないスーパーからの帰り道だっただろう。警察による現場検証が済んだ今、周囲に事件を感じさせる痕跡はない。クラスメイトといえど、関係性は皆無だ。事件が事件だけに献花台もなく、閑散とした歩道は、そのまま素通りしてしまっても誰も気にも留めないはずだ。

 ……だとしても、ここを素通りできるはずがなかった。

 たまたま買っていた安売りの缶コーヒーのプルタブを開け、エコバッグを膝に乗せてかがみ込むと、花瓶の脇にそっと置く。冥福を祈るというよりも礼節を重んじて、厳かに手を合わせた。

 缶コーヒーを一つ置いて手を合わせぐらいで、今も逃走を続けているらしい犯人が捕まるわけではない。殺された人達が救われるわけもない。ただライカを屋上に誘った時のような心持ちで、主人公は瞼を閉じていた。無心の静寂が流れる。

 そうして義理は通したと立ち上がった時――主人公は我が目を疑った。


『……?』


 それは黒い人影だった。夕方から夜の切り替わりを街灯がぱちりと点いて知らせるも、黒い人影は沈み込んだように、のっぺりと不自然に暗かった。

 季節外れの黒いコートの裾が、夜を帯びて冷えてきた風ではためく。目を閉じていたからといって、気配はおろか足音も聞こえなかったのはどうにもおかしい。まるで影法師がそのまま現れたかのようだ。

 不審な居住まいに身構えた瞬間、


『え?』


 ――世界が、一変した。

 黒コートがぐらりと動いた不気味さへの拒否反応から、エコバッグを盾にして後ずさったその時、ひゅんという風切り音が赤い飛沫を上げた。鉄さびめいた匂いが鼻をつく。


 ……血? 誰の?

 誰でもない、自分のだ。


『がッ……!?』


 黒コートの手には、日本刀のような大ぶりの刃物。それが主人公の胸元から腹部にかけて、袈裟に切り裂いたのだ。

 連続猟奇殺人事件の犯人――熱を持った激痛と恐怖心がなによりの証拠となって、呼吸すらままならなくする。エコバッグの中身をすべてブチ撒けながら、バランスを欠いた主人公は倒れ込んだ。

 自分が致命傷なのかどうかも、主人公には分からない。分からないまま、腹ばいになって必死に手足を動かした。大怪我を負った自分と、日本刀を持った犯人。逃げなければ殺される。それだけが明確な真実だった。


「――、――♪」


 嘲笑うように、陽気な鼻歌が耳に届く。どこか聞き覚えのある旋律。確かハツキが聞かせた音羽カナヱの曲だ。

 そこに混じった違和感が、苛立ちを加速させる。

 ……違う。この歌は、こんな冒涜的なメロディなんかじゃ――


『――なんか、じゃ?』


 脳裏によぎるのは、いつかの夢で見た、血化粧をした白い少女。そのビジョンが剥がれるように切り替わる。とどめを刺そうと伸びる魔手も視界の外だ。最早主人公の眼中にない。ただ白日の下に晒された実感を噛み締めていた。

 そうだ。そうだった。本当のあの子は血化粧なんてしていなくて、歯がゆさに下唇を噛み締めた泣きそうな顔をしていた――白い少女の、

 あの子の名前は――!


『音羽、カナヱ』


 ――瞬間、光が弾けた。

 夕焼けの世界にあって尚、白く美しい音羽カナヱが、そこにいた。


「!?」


 思わぬ乱入者に、黒コートが飛びすさって距離を取る。


『――――っ』


 息を呑む。夢と重なる光景に驚いたからではない。夢よりもずっと前から知っているような、星の巡りにも似た必定が主人公の胸の内に沸き起こったからだ。

 痛みを堪えて上体を起こす主人公に向けて、音羽カナヱの唇が動く。


「ハロー、ワールド」


 合成音声特有の、無機質なこわばりを含んだ響き。

 プログラミングの第一歩を象徴する一文、ひいてはそれが彼女の第一声であり、産声だった。


「デイジー、デイジー……心に花が咲いたことを確認」


 そのたった一言で、全身をさいなんでいた激痛がぱたりと止む。


『!』


 出血も止まり、撫でたそこには傷口すらない。立ち上がっても悪い夢が覚めたように、まったくの無傷となっていた。

 黒コートはしばし面食らっていたものの、丸腰の華奢な少女に警戒よりも侮りが上回ったのか、手にした凶器を握り直す。どうやら一人増えただけでは、無常な捕食者は見逃してくれないらしい。


「主人公、」


 何故名前を知っているのかと問うよりも早く。


「戦って」

『はぁ!?』


 無理難題を突き付けられた困惑の方が勝る。

 連続猟奇殺人事件の犯人のと目される最有力候補に、ただの高校生が相手取れるわけがない。


「大丈夫――」


 確信を持って、主人公の手を握る。あってないような体温に、非日常の感触がする。


「――来る」


【戦闘】


「――見つけたぞ!」


 攻防は、つい最近聞いたばかりの声によって中断された。バタバタと乱雑な足音が近づき、更なる乱入者に恐れをなしたのか、黒コートの人影は溶けるように消え去った。

 ……目の前に確かにいた存在が、影も形もなくなってしまった。


「あ! こら、待ちやがれ!」


 浮世離れした出来事の連続に目が回りそうになるが、駆け込んだ人物の顔を認めて、意識を手放すのはまだ早いと悟る。


「お前……!」


 目を見開いた相手につられて、主人公も目を見開く――先日傘に入れてくれた、幾島初樹だった。

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